【天皇制を考える】私見 部落差別と天皇制 狭山再審を求める市民の会・こうべ 高橋 亮也

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意見特集(10) 部落解放闘争を闘う現場から

 「貴あれば賤あり」という。天皇制と部落差別の関係を端的に表す言葉であるとされる。これに対して「天皇制の下での平等」とのイデオロギーが対置される。論争はここから始まる。  

天皇制の機能は「国民の統合」である。利害の対立を超えた「日本人としてのアイデンティティ」をもって「国内平和」と「対外侵略」を成し遂げることが明治以来の天皇制の使命であった。  

1942年に政府が発行した『国民同和の道』という文献がある。戦時下において「国民融和」を図ることを意図したものである。それは「部落問題の起源」について異民族起源説を批判し、職業起源説を提示した。「部落の沿革」については、部落問題は封建時代の産物とし、解放令を出すことにより近世から継続する問題を解決したとする。そして、残る問題は「血筋の卑しい人々」という血統主義的序列間にもとづく「因習」であると論ずるのである。  

だがそれは、同様に血統主義的である天皇制を「因習」として問うことはしない。それだけでなく、なぜそのような「因習」が生じたのか、そこで天皇制がどのような役割を果たしてきたのかを問うことはない。1570年から1580年にかけて、一向一揆と呼ばれる戦争が信長と本願寺との間で闘われた。この戦争は勅命講和(天皇の命令による講和)によって終結し、「転向」した本願寺は大阪から退去した。だが、講和に反対する門徒は多かった。  

信長の後を継いだ秀吉は、1585年、一揆を継続して太田城に立て籠もる門徒衆を水攻めにし、生き残った人々を「穢多」身分とし、その子孫を代々部落寺院に管理させた。これ以前に部落寺院はなく、壬申戸籍にもつながる宗門人別改帳もない。  

天皇の命令に抗う人々を子々孫々まで「人間外の人間」とする。それが被差別部落を成立させた論理であり、「国体」としての天皇制を今日まで維持してきた論理である。  

水平社博物館前で 「エッタ出てこい」

2011年1月22日、川東大了(在特会)らは奈良県御所市にある水平社博物館前で、「エッタ出てこい」「おまえら人間か」と連呼する許しがたい差別言動を行った(水平社博物館前差別街宣事件)。彼らの行動が当時館内で開催されていた企画展示「コリアと日本―朝鮮併合から100年」を攻撃するために行われたことは示唆的である。日本人としての同化を求める運動は部落差別を内包したものなのである。  

5月9日、衆議院は、共産党、社民党を含む全会一致で新天皇の即位に祝意を示す「賀詞」に賛成した。他方、部落解放同盟は「全国水平社の戦争協力の問題などを批判的に総括し、天皇の役割強化や天皇制の政治利用にたいして反対する広範なとりくみをすすめていこう」との声明を発表した(「解放新聞」2019・4・15)。  

人々の自由と尊厳をかちとるために、天皇制と部落差別に反対して断固闘おう。

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