【2019年 新春討論・後編】 酒井隆史(大阪府立大学教授)・原口剛(神戸大学准教授)対談

支配に抗する水平な人間関係 基盤の組織を!

LINEで送る
Pocket

 前号では、世界の情勢と資本主義の危機的状況について意見交換されました。後半では、これまで当たり前と思っていた生活のあり方や常識を見直し、どのような新たな運動を切り拓けるかを中心に、活発な討論が続きました。それは、「デザイン」や「設計」という思考から脱出し、水平な人間関係を基盤にした組織作りに徹することです。
(編集部)

口:イタリアのトリノには、「NO TAV(ノー・タヴ)」という運動があります。アルプス山脈を貫いてイタリアのトリノとフランスのリヨンをつなげる高速新幹線(TAV)の線路建設、日本でいう「リニア新幹線」建設に反対する運動です。巨大な反新幹線フェスティバルが開かれたりしています。その最中に徒党を組んで夜中に工事現場を破壊し、それに対し警察が放水や殴打・逮捕で応えるような、非暴力直接行動も闘われています。

 この直接行動には「インフラに権力を見出す」という深い洞察があり、特に重要です。また、こうした反新幹線の精神は地元の住民にひろく共有されていて、誰かが直接行動で逮捕されても即座に救援行動が組まれるのです。

 これが日本だと、こうした行動は「過激派の騒ぎ」として凄まじいバッシングに晒されることでしょう。じっさい「黄色いベスト」運動についても、「一部が暴徒化した」などと紹介されていますが、日本国内の想像力や言説がどれほど貧しいかを思い知らされます。しかし、インフラを攻撃して破壊することで実際に彼らが行っているのは、資本主義の束縛から自分たちを解放し、みずからの手で民主主義を生み出そうとする試みなのです。

 ヨーロッパやアメリカのラディカリズムの議論のなかでは、インフラの「再活用」(レコンフィギュレーション)をめぐって刺激的な論争が巻き起こっています。現在の資本主義世界を構成しているインフラは、はたしてコミュニズム的・民衆的に再活用することができる代物なのかどうかをめぐる議論です。例えば、原発は民衆にとって絶対的に有害なものでしかありません。コンテナ船は便利なようにみえるけれど、実は労働者を搾取する装置でしかありません。海を渡るなら、ある程度の大きさの船で十分です。

 このように、ひとつひとつのインフラを検証していくわけです。この論争は単なる思考実験ではなく、試行錯誤の実践から生み出されています。

 彼らが直接行動をもってインフラを止めようとするとき、それぞれの港や電車、コンテナ船を止めることで、資本に対してどれほどダメージを与えられるかを、綿密に研究しているのです。

 一気に未来が開かれるような巨大な展望ではなく、どのような行動がどのような効果を生み出すのか? を、ひとつひとつ実践して、そうした実験のなかから展望を編み出していく─そのような態度が、私たちの考え方を豊かにしていくでしょう。

資本の一方的都合で作られたインフラ依存の生活からの脱却

酒井:今回の「黄色いベスト運動」における大きなポイントは、経済を封鎖したということです。レーニンは「革命を歴史を加速させる機関車のイメージ」でとらえましたが、ベンヤミン(注)は、逆に「革命は機関車を止めることだ」と考えました。こちらのほうがよりリアルですね。

(注)ヴァルター・ベンヤミン(1892‐1940) ドイツのマルクス主義哲学者・批評家。『複製技術時代の芸術作品』『歴史の概念について』など著作多数。

 流通を封鎖し、生産を封鎖し、港を封鎖し、経済の流れを止めることが、ネオリベラリズムや資本主義の加速を止める実践になって現れています。

 私たちは日常生活にまつわるさまざまな部分で、「これで便利になった」と思い込まされて、インフラに依存する生活を押しつけられています。

 車を使うしかない社会を押しつけられたからこそ、自動車社会化やガソリン税の問題が起きたと言えるでしょう。これは資本の側の一方的な都合なのです。

 このように考えると、「資本家の都合で私たちを動かしておいて、さらにそれで燃料税を取るのか」という視点を構築することも可能になってきます。

 たとえば日本で、特急で大阪から九州まで帰ろうとすると、あちらこちらの駅で特急は止められてしまうので、新幹線に乗らざるを得ません。

 特定のインフラの編成に依存しなければ生きていけない身体を、そこから引き剥がしていくことが重要です。 (2面へ続く)

「デザイン」や「設計」という思考から脱出すること

原口:新幹線の売りは目的地に到達する速さですが、それで便利になるのかといえば、日帰り出張が増やされて、余計に忙しくさせられるだけです。新幹線が本当に必要なのか? を再検討してもよいでしょう。東京に行くのに一晩・二晩かかっても構わないし、それで日常生活のスケジュールが混乱するようなことがあるとしたら、おかしいのはスケジュールのほうなのです。

 それを問うためには、「デザイン」や「設計」という思考から脱出することが必要です。これからは「稼ぐ公園」でならなければならないという露骨な主張とセットで、最近では「公園3・0」という言葉まで出てきました。

 これは、利用者みんなが「マネージャー」や「デザイナー」として公園と関わりなさいという指令なのです。

 こうしたプログラムに利用されることと、自分たちの手で試行錯誤しながら作ることは、全く別物です。根底的なレベルでの試行錯誤がないと、資本主義の私有化の戦略に乗せられてしまうのです。

 この手の言葉遣いは、バリエーションを変えながら広がっていて、運動の中にさえ潜り込みがちです。問題の一つは、「このデザインですべて解決できる」という設計図や青写真を求めたがる傾向です。そのような姿勢では、資本主義の破局的な状況に向き合うことはできません。試行錯誤の困難や重要性も、ないがしろにされてしまいます。だから、設計図が破たんするときも、非常に悲惨な帰結になってしまうのです。

 人間が生きるうえで「場所」は不可欠ですが、「デザイン」のような計画的・設計的な発想を引き剥がす必要があると思います。

 それから、最近よく耳にする「場所づくり」という表現に、私は大いに違和感があります。「場所」という言葉をもう使うのを止めようかと思うくらい、巷にはこの言葉があふれています。しかも、なぜか日本では「い」が付いて「居場所」になってしまうのです。

 「居場所作り」という不明瞭な言葉を使うと、階級的な敵対関係が骨抜きにされてしまいます。

 しかし、世界的にみると、「場所を作る」ための試みは、いつ警察権力の暴力にさらされるか分からない状況の中で自分たちの防衛しうる空間を獲得していく、直接行動なのです。

 「場所」という言葉からは、本来はそうした闘争の文脈を切り離すことができないのです。「場所作り」というより、「場所取り」や「領有」と表現したほうがいいかもしれません。

運動から生れたオルタナティブな考えが新自由主義に奪われている

酒井:かつてはオルタナティブ建築やオルタナティブな空間作りは、運動と結びついていました。ところが、それがラディカルな提起力と結びつくのをやめた時に、せめぎ合いはあるとはいえ、新自由主義に奪われてしまうのです。
原口:例えば思い浮かぶのは、「アメニティ(快適な生活環境)」です。かつてこの言葉は、公害に対抗して生活を守る闘いの中で生み出されたものでした。それが80年代に新自由主義者の言葉へと意味を反転させられて、ビジネスにとって心地よい環境を求める概念へと塗り変えられてしまいました。
酒井:生活や共同性を求める運動は、日本にも昔からありました。おそらく運動という点では、生活協同組合などが理論的にも実践的にも模索してきたと思います。私たちがそれに付け加えることがあるとすれば、制度化・組織化の問題にとどまらず、私たち自身がどのような人間関係を織りあげていくか? を模索するということです。搾取がなくなったり、雇用者がいなくなれば、あるいは「差別者」がいなくなれば、全てがうまくいくのだなどと考えるべきではありません。対等であり、水平であり、人に服従しなくていいような、人間関係のあり方を、それ自体として追及しなくてはならないのです。

 そうしないと、何か面白い動きが起きたとしても、内部で権力的な偏りがすぐに再生産されてしまいます。過去の運動を克服したと自称する集団においても、より粗野なかたちでそのような偏りが再生産されてしまうという事例には事欠きません。

多様な人々が安心して生きていける方法を探していく

 一番重要なのはそこなのです。なぜこの社会を、現存の制度・組織を変えなければならないのか? なぜ搾取はダメなのか? その問いがいつのまにかないがしろにされ、人を道具のように使う構造や、議論ではなく暴力によって人を服従させたり黙らせたりする構造が、再生産されてしまうのです。これを放置すると、「社会をよくするためには、多少は人に服従したり、殴られたり、罵倒されるのも仕方ないではないか」という発想につながってしまうのです。

 大切なのは、どうすれば多様な人々が安心して生きていくことができるのか? どうすれば互いを脅威と感じないようなコミュニケーション方法を獲得することができるのか? しかもそれが誰かを暴力的に排除したり、警察に頼ったりするのではない方法で実現できるのか? ということです。
 それこそがフェミニストやアナキストが課題として取り組んできたテーマです。そうした問いがなければ、どのような面白い運動もダメになってしまうでしょう。

 「黄色いベスト」運動だけでなく、その他世界中の運動から、水平の人間関係を基盤にした組織の作り方を、可能な限り私たちは学ばなければなりません。これは「輸入」ではありません。当たり前のことですが、世界資本主義のもとで生きている私たちは、世界の人たちと同様の苦難と課題を共有しているからです。

 互いに学ぶべきことは無限にあります。軋轢は人が共に生きているかぎり、それが人格者によって構成された理想社会であったとしても起こるでしょうし、差別も起きるでしょう。軋轢が起こるたびに振り返り、経験や教訓を蓄積しながらであっても、軋轢が絶えることはないのですから。

 しかし、そのような問題について、どのように権力から遠く離れた形で対応すればいいのか? についてのヒントも、過去や同時代の世界あるいは日本にはあふれています。
原口:上下関係のない水平的な関係をつくろうとする試みは、「場所の発明」を伴っています。私たちはさまざまな事例から、たくさんのことを学ぶことができます。

 例えば野宿の現場では、「炊き出し」ではなく「共同炊事」という言葉を使って、「食事をつくる側」と「与えられる側」の権力関係を廃絶しようという理念が掲げられてきました。

 その他にも、フェミニズムの実践が生み出した「セイファースペース」(注)の技法は、運動のなかで水平的な人間関係をつくっていこうとする、重要な「場所の発明」の試みでしょう。

 破局的な状況と向き合おうとするならば、現在の状況を冷徹に直視・認識しつつ、試行錯誤を積み重ねてゆくしかありません。支配を覆していくための道筋を探ろうとする構えが、今後ますます重要になってくるでしょう。(終わり)

(注)セイファースペース
 差別・ハラスメント・暴行といった脅威のない、水平的な環境を構築・確保するために、アナキズムが生み出した場所の構築技法。
 詳しくは村上潔「都市空間と自律的文化へのアプローチ―マンチェスター・ジン・シーン・レポート(第4回):ソーシャル・スペース〈パルチザン〉から見るジンとスペースの潜在力」『AMeeT』(https://www.ameet.jp/column/1600/)を参照。

 

LINEで送る
Pocket