福島、東京、大阪、沖縄、リオ、北米…大地を奪う国家の暴力
神戸大学大学院人文学研究科准教授 原口 剛
本紙は、原発事故の避難者を福島にむりやり戻す政策、東京五輪・大阪釜ヶ崎の再開発、辺野古新基地建設を批判してきた。その共通点は、日本の政策が人の命より箱物建設による利益を最優先していることではないか。そして3月末、避難者の住宅支援を打ち切り、渋谷の宮下公園が強制封鎖・不当逮捕された。
釜ヶ崎を中心に都市再開発と排除を研究してきた神戸大の原口剛さんに全体構造を考えてもらった。日本は長年土建国家で、今や全ての土地を企業に売る「ネオリベラリズム土建国家」へ突き進んでいる。どんな美名を掲げても本質は暴力だ。本文はその全貌を解明しようとしており、各地で共に考え、動きたい。(編集部)
福島復興政策、東京五輪、カジノ…人間より箱物建設の利権を優先
森友学園に対する国有地売却をめぐる癒着は、「アッキード事件」という呼び名をもつにいたった。その由来は、1976年に田中角栄を失脚に追い込んだ「ロッキード事件」である。田中角栄は、「日本列島改造論」のスローガンと「二全総」のプログラムを武器に、列島中に開発計画をばらまいた。そうして土地を利潤追及の道具に変える計画が隅々に拡大され、周縁の地までもが餌食となった。
なかでも開発利益の恩恵にあずかったのは、建設土木資本である。また、開発利益を約束する地へと土地を変えていく政治的な支配力によって、ときの政権は自身の権力基盤を揺るぎなきものにさせた。この権力の構図が、政・官・財界の癒着がはびこる温床となったのである。
いま、「日本列島改造論」は、「国土強靭化」というスローガンに焼き直されて、ふたたび列島を覆い尽くしている。ちなみに「国土強靭化」とは、「ナショナル・レジリエンス」という用語の和訳である。ナショナルに「国土」という訳語と、回復を意味する「レジリエンス」(この言葉自体、批判しなければならない代物なのだが)に「強靭化」という訳語をあてる。それにより、まったくの土建的かつ軍事的用語へと書き換えられてしまっている。
このようなスローガンのもと、列島改造論を再現させたかのように、列島には公共事業がばらまかれる。東北の被災地もまた、現代版土建国家の標的とされた土地のひとつだ。放射能からの避難指示解除が進められようとしている福島県大熊町では、総事業費約31億円をかけた町役場新庁舎を建設するのだという。この事業によって真っ先に利益を得るのが土木建設資本であることは、間違いない。
なによりこうしたインフラは、いったん建設されてしまえば「既成事実」と化してしまう。莫大な資金を投じて新庁舎を建設してしまえば、それを空っぽのままにするわけにはいかなくなる。新庁舎が完成したあかつきには――このとき土木建設資本はすでに十分な利益を懐に入れているわけだが――投ぜられた資金に見合った機能を発揮しつづけねばならないし、それに見合った地域社会と経済がなければならないし、それに見合った住民人口を確保しなければならない。
こうして既成事実は、次から次へと折り重ねられていく。インフラの建設を正当化するために、がむしゃらにでも住民の「帰還」が強いられることにもなろう。自主避難に対する住宅提供資金を打ち切り、あろうことか避難を「自己責任」と言い放った大臣の逆切れは、まごうことなき土建国家の本音である。
インフラ建設を正当化するために私たちの生が動員されるという事態は、オリンピック関連施設の建設をめぐる議論をみれば、よくわかる。新国立競技場を建設したとして、オリンピックが終わったのち、この大規模施設をどうするのか。東京都や政府はつじつまを合わせるのに躍起である。建設費や維持費をまかなうべく、大がかりなスポーツ大会やコンサートを年何回といった具合に、使用回数と収益をひねり出そうとしているのだ。そこに、スポーツや音楽といった生の表現への愛着は、みじんもない。インフラの経済的寿命を支え、十分な収益を絞り出すためにこそ、それらのイベントが動員される。
また関西では、2008年オリンピック誘致に失敗したのち、無残に取り残された埋立地で、巨大カジノ施設を建設しようとするたくらみが進められている。ここでもいったん建設してしまった広大な埋立地が既成事実と化し、未利用地の開発としてカジノ計画が正当化されてしまうのだ。
ギャンブル・リゾートを建設したならば、当然の帰結として、ギャンブル依存症に苦しむ者を生み出すことになろう。推進派の財界や政治家は、カジノ建設にあわせて依存症の治療体制を充実させるのだという。だがそれは、依存症者を生み出しては製薬会社のクスリの販路を生み出す、マッチポンプの仕掛けではないか。埋め立て地に現われ出るのは、人間を使い棄てにすることで大企業が潤う、略奪的な経済である。
中曽根―小泉―安倍と続く民営化路線「あいりん改革」(鈴木亘)も差別と排除
大企業の利潤や「国益」のためにこそインフラを建設するという論理は、いまに始まったことではない。本間義人が『土木国家の思想』(日本経済評論社 1996)で論じたように、この国は「殖産興業」や「富国強兵」をスローガンとした明治政府の時点からすでに土建国家であり、それは戦前戦後をつらぬいて受け継がれてきた体質である。
それゆえこの国の権力構造の中枢には、つねにゼネコンや財閥が居座ってきた。辺野古の海の軍事開発工事も、新国立競技場建設工事も、受注したのは同じ大成建設である。いま東京渋谷の宮下公園再開発に手を伸ばそうとしている三井系財閥に関しては、かつて炭鉱を開発しては使い棄てにし、列島改造論の時代には、「むつ小川原開発計画」のもとに土地を買い占めた過去を、忘れてはならない。
とはいえ、土建国家が時代によって多様な顔をみせてきたことも確かである。とりわけ2000年代以降は、市場原理を信奉する自称「改革者」たちが増殖していった。
かれらは、あるときには政治家として、あるときには企業家として、さまざまな土地に現われる。釜ヶ崎において「西成特区構想」を導いた鈴木亘氏も、そのひとりだろう。
鈴木氏の書物『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』(東洋経済新報社 2016)の副題には、「あいりん改革3年8ヵ月の全記録」との文言が華々しく記される。西成特区構想に関し、鈴木氏は、「地域の人々がみずから政策立案・政策決定できるのであれば、ジェントリフィケーション(都市を再開発して比較的裕福な人々が流入することで、そこに元から住んでいた貧困層が排除されること)など起こるわけがない」と断言する(同上 352頁)。
残念ながら、この言葉を信用するわけにはいかない。ほかならぬ本書の記述のなかに、ジェントリフィケーションの論理が組み込まれているからだ。
たとえば鈴木氏は釜ヶ崎の「いまそこにある危機」を、「今後の急速な経済衰退、地価下落が予想されるなかでは、将来に向けての投資はますます減少し、せっかく現存するまちの人的資源・社会資源も大きく失われることになりかねない」(同上 224頁)と述べる。ここで問題とされているのは、地価であり、投資機会である(「現存する人的・社会資源」は、多くの場合は地価が上昇することで失われるものであり、「危機」というのであればそれをこそ指摘すべきだろう)。
また別の箇所では、「ホームレス」とは、「外部不経済」をもたらす存在だと、ためらいもなく断じる。その存在により、「周辺環境は悪化し、地価や賃貸料が下がる」のだという(同上 11頁)。このように、ジェントリフィケーションの経済的本質ともいうべき論理が、当の「経済学者」の手によって記されているのだ。
さらに、なぜジェントリフィケーションがマイノリティに対する差別を助長させ、排除をもたらすのかも、おのずと理解されよう。
「改革者」気取る開発業者
鈴木氏のメッセージは、同じようなマインドを持った者の心をわしづかみにしたのだろう。次にやってきたのも、やはり改革者であった。売りに出された新今宮駅北側の公有地――西成特区構想に隣接する土地――を「星野リゾート」が買収し、高級ホテルを建設する案が進行しつつある。「難しいところに行くからこそ、チャンスがある」―進出への意気込みを語る社長の言葉には、やはり改革者のマインドが滲み出ている。
「私が1980年代、コーネル大学にいたとき、ニューヨークやシカゴ、ロサンゼルスなどにも危ないエリアはあった。そうしたエリアは再開発をきっかけにどんどん変わっていくことがある」(「星野リゾート、大阪新今宮ホテル進出の真意」東洋経済オンライン、2017年4月5日)。口にこそしていないが、これは間違いなくジェントリフィケーションだ。
改革者の現われるところ、ジェントリフィケーションがやってくる。関東に目を向ければ、宮下公園をNIKEの宣伝広告の舞台へと代え、さらには三井不動産主導のホテル建設へと供しようとする渋谷区長・長谷部健もまた、「ベンチャーの街渋谷からの挑戦」を謳っているではないか。
かれらは、田中角栄という旧態依然としたイメージからは、かけ離れた存在であるようにみえるかもしれない。だが土建国家の本質とは、土地を操作することで企業の利潤獲得の可能性をこじ開ける、という点にある。
そのやり口は、時代によって変化するものだ。とりわけ1980年代の中曽根政権以降、「民活」や「アーバン・ルネッサンス」のスローガンのもと、規制緩和と私営化(Privatization)という新戦略が考案された。そして小泉政権でいっそう大々的に展開されていった。
本間義人によれば、これらの新戦略の本質にあるのは、あいもかわらぬ土建国家の構造である。「なぜ、行政側が…かくも容易に「民活」の途を開くのに懸命になったのか…政・官・財界が相互補完しあって、今日の政治経済的権力を構成していることと無縁ではない」(本間・同上 19頁)。
そう考えるなら、(ネオ)リベラルな改革者の顔と、土建国家の顔とは、矛盾するものではない。ふたつの顔は、たがいに補い合って権力を構成している。改革者がどれほど「旧体制の打破」を口にしようと、かれらのバックには土建国家という親玉が控えている。
「略奪による蓄積」暴力行使をためらわない国家
地球上を見渡せば、現在、開発とそれに伴う暴力が蔓延している。たとえば、オリンピックの開催地とされたリオデジャネイロで巻き起こった立ち退きと警察の蛮行。たとえば、北米において石油パイプラインを建設するために、先住民の土地を汚そうとする暴力。沖縄の軍事開発への抗議に対する弾圧や、明治公園や宮下公園における商業地開発に関する弾圧は、タガが外れた国家の暴力を、まざまざ
と私たちに見せつけている。 こうした地球的状況は、地理学者のデヴィッド・ハーヴェイが「略奪による蓄積」と名づけたものだ。かつて囲い込みによって農民を土地から引き剥がし、かれらを都市の貧民へと追いやった本源的蓄積の過程が、大々的に再現されつつある。
マルクスが「彼らの収奪の歴史は、血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書きこまれている」と書き記したように、その過程はあられもない暴力に満ち溢れている。
現在のネオリベラル土建国家と、田中角栄に象徴される高度経済成長期のそれとは、この暴力に違いがある。グローバル資本主義の後押しを受けた土建国家は、直接的な暴力を行使することになんのためらいもないのだ。
ただし、土地によって暴力の発現の仕方はさまざまであり、釜ヶ崎での進展は、あたかも説得と合意にもとづいているかのようにみえる。だが鈴木氏の書物では、いかにあの手この手で抗議者を黙らせ、締め出したのかが、かなりのページを割き、しかも得意げに語られている。この過程が民主的な話し合いと合意形成にもとづくものだと強調するのだが、その主張は疑わしい。運動つぶしに快感を見いだす報復的な感性を随所でひけらかしているのだから。
抗議者たちに対してふるわれる暴力や弾圧は、土地への支配と開発利益がこの国の権力にとっていかに中心的なものであるかを、はっきりと示している。言い換えれば、各地の抗議者たちがその身をかけて暴き出したものこそ、この国の権力の本質なのだ。かれらを決して孤立させるようなことがあってはならない。
研究者の責任も重大である。本間義人による次の言葉を、深く胸に刻むべきだろう。「わが国には都市と関わりの深い学会が多数あるが、民活が都市にどのようなインパクトをもたらすのか、それらの学会が警告を発することもなかった。むしろ、ここでも政権党と官僚、財界に迎合し、民活推進に一役買った学者・研究者がいないでもなかったのである」(同上 26頁)。
いまでもこの体質は変わらない。研究者は「ジェントリフィケーション」という言葉を使うことをためらって、「都市再生」という柔和な言葉で済ませようとする。だからこそ、それを批判的に捉える研究の蓄積が驚くほど少なく、私たちを取り巻く言葉自体が、すでにもう権力に奪われてしまっている。
奪われた言葉奪い返す感覚
たとえば「privatization」という言葉がそうだ。字義通りに解釈すれば、公共空間を企業へと売り渡すこと、つまり民衆から土地を略奪することを意味するはずだ。ところがこの言葉は「民営化」と訳されて、そのまま定着してしまっている。あたかも土地が、民衆の自主管理に託されるかのような語の響きである。あるいは鈴木亘氏や星野リゾートの社長が、「ジェントリフィケーション」という言葉を必死に否認するのはなぜか。この言葉が、資本主義と権力の冷徹な論理を読み解くためのカギとなりうるからだ。奪われてしまった言葉を取り戻し、自分たちの武器へと転化させていかなければならない。
土建国家やジェントリフィケーションは土地によってさまざまな顔をみせるがために、各地の闘争はばらばらに切り離されがちである。現在の釜ヶ崎で進行しつつある過程は、10年前の靭・大阪城公園や長居公園の行政代執行とは事情が違うとか、宮下公園ほど暴力的でないといった言葉が飛び交う。そのような見方にからめ取られると、各地の闘争をますます引き離してしまうことになるだろう。
まずは、自分たちが共通の土地で闘っているという感覚を確かめ、同じ権力と向き合っているという認識を共にすることからはじめよう。言葉を奪い返すことは、そのための重要な一歩となるはずだ。