フリーター労組運動の10年 「この世界」から「別の世界」へ

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数センチ先、まだ見出されない方向に

フリーター全般労働組合 山口 素明

2000年代後半、「派遣切り」などが社会問題化し、フリーターの労働組合が全国で結成された。「生きさせろ!」「プレカリアート」「反貧困」を掲げて集会やデモも多数行われた。あれから10年。社会状況が悪化する中でも運動は続いている。同運動の草分け的存在である「フリーター全般労組」の山口さんに、運動は何を成し遂げ、何が課題か、を寄稿してもらった。(編集部)

 この世界には並行して「別の世界」が重ね置かれている。朝礼で押し殺すあくびと舌打ち、「っらっしゃいませ」と「ありあとやした」の声の乾き、出勤の群れが馴致できない無意識の命ずるサボタージュ。学校化された「この世界」の数センチ向こうにある「別の世界」に誰もが気づいている。
 それがフリーターの「世界」。役回りを演じることより自身の力を信じること、能力で人を並べ、その有無を問うのではなく人の尊厳を重んじること、蔑みよりもつながりに信を置くこと、資本の増殖にではなく私とあなたと彼/彼女らの幸福のため自らに潜在する力を用いること。労働の道徳ではなく人の倫理を生きる「世界」はすでにそこにある。
 つまり、「フリーター労組」は「この世界」の組織、まして特定の労働組合の名称などではない。それは「この世界」が「あの世界」に触れて生まれる火花だ。だから「フリーター労組」はいまこの瞬間にも各地で生起している。金持ちが大切に思うことに毒されず距離を置き、札ビラで顔をはたかれれば掠め取る。「能力」を服従の契機とせず連帯と逃走に用い、搾取と侮蔑にやり返す、パンと薔薇の引き換えを拒み、パンと薔薇すなわち「自由と生存」のいずれをも求める人の営為がその名に値する。首都圏で活動する私たち「フリーター全般労働組合」は、その発火点のひとつであろうとしている。労働道徳の再生産と能力選別による服従から遠ざかり、自治と自律において生じる無数の火花のひとつに。

「世界」を広げる2つの戦略

 そもそも始まりからそうだ。2004年8月に法政大学で活動していた無党派学生を中心に結成された労組準備会は、「まっとうな労働者」とはみなされていなかった者たち、「パート、アルバイト、外国人、フリーター」を結びつけるネットワークを構想した。ほぼ同時期に京都や福岡で生じた運動に刺激を受けながら、労働組合としての「フリーター全般労働組合」は、これらの人々が展開するさまざまな動きの結節点と位置づけていた。
 先行する地域合同労組の運動があった。特定企業内で組織される労務管理型の労働組合と一線を画し、地域争議団の共闘で「世界」を押し広げようとする戦略、個別労使紛争を梃子に集団的労使関係を形成し、「世界」を企業内に形成しようとする戦略。大きく分ければこの2つに集約される運動である。私たちも2006年6月以降、この2つの戦略を土台に取り組みを続けてきた。週40時間、無期という典型的雇用契約からはみ出したいわゆる非正規(非典型)雇用労働者が直面する解雇やパワハラ、未払いの問題の解決をサポートする組織体としての形式は、このころ備えられていった。
 だが地域合同労組をいわばプラットフォームとして活用した「フリーター全般労働組合」の取り組みは、その活用が否応なく求める運動の形式や発想との緊張に向き合うことになった。プラットフォームから抜け出る動きと、そこに立ち戻る動き。この2つに引き裂かれながら活動してきたのがこの10年だ。
 たとえば2005年からフリーター労組が呼び掛け開催されてきた「自由と生存のメーデー」は、労働問題の焦点化よりもそれ以外の論点、強く反戦運動などの社会的課題を取り上げることを課題としている。その過程で2008年10月に弾圧された「麻生邸リアリティツアー」の取り組み、同じく2009年4月に弾圧された在特会デモへのカウンター活動もあった。労働者運動が直面するメンタルヘルスや生活保護問題への取り組みもそうだ。
 私たちの組合では、これらの問題は労働組合活動の周辺に生じる問題ではない。生存問題に関心を深める組合員は月例の「生存部会」を形成し、新自由主義と労働社会への批判的討議を継続している。私たちは、むしろ積極的に自らを「労働と生存のための組合」と規定したのである。

組合で闘い方を獲得した人々が先へ進むプラットフォームへ

 一方で、合同労組運動への回帰圧力はいくつかの分裂をもたらした。ひとつは、労働組合を事業化する動きとの分裂である。フリーター全般労働組合が志向する自治・自律による連帯の形成は、キレイごとで進むものではない。争議の方針、差別問題など路線上の対立だけではない。功名心や嫉妬心、猜疑心などから生じる人格的な対立まで数々の問題が生じる。このひとつひとつに私たちはそれなりに真剣に向き合っている。
 その結果、組織の運営は「収益性」の観点からは非効率になる。ひとつひとつの事件の解決に、そもそも事件として取り上げるまでに、議論と時間を要することになるからだ。
 ひとつ例をあげる。とある清掃会社からの十数名の加入に、組合員から異議が出されたことがあった。曰く、かつて彼らのいじめによって自身が退職に追い込まれた、というものだ。当時の執行委員会はこの異議を取り上げ議論し、提起されたいじめ事件について対話が開始されるまで当組合への加入承認を保留すること、承認までの間、彼らが当組合の外で別途組合組織を作るよう支援すること、の2点を結論した。
 だがこの決定は、一部の人々から激しい攻撃の的になった。この判断は、加入申請してきた人々の問題解決を妨げるというのである。この攻撃の背景には、労働組合を事業として見る視点がある。だがそれも無理はない。多くの合同労組は、専従者を軸にした組織形成の果てにそのような性質を担わされているからだ。ときに専従者が100件近くの「案件を担当」して組合員が直面した問題の「解決」を図る。だがそのような組織では、専従者の活動を組合員がボランタリーに支えることが労働組合員の役割になる。つまり、組合員は労働運動に参加するのではなく、専従者を支える活動に参加することで専従者が提供するサービスを消費する者となるしかなくなる。彼らの批判は、サービス提供が不十分となるという批判だったのだ。
 実はこの組織形態は、とても理解しやすい。「この世界」で出会う組織のほとんどは、そのような形態でしかないからだ。企業がそうだし、NPOの活動も、ともすれば運動体のほとんどがそれを免れることができない。だがそれ故に、そのような組織は「この世界」にとどまる他はない。私たちが接触を求める「あの世界」との接点を限りなく遠ざけてしまう。だが「この世界」で事業を成功させたい人物はどこにでもいるもので、この事件を契機にそのような人々は組合を去っていった。
 ふたつめの分裂は、さらに深刻だ。労働組合の「この世界」での運動は、それなりの勝利を手にすることができる運動だ。いつも敗北し続けの政治運動や市民運動とは異なり、闘争と妥協と取引とによって得られる「解決」には一定の勝利がある。しかし、それはあたりまえのことだが完全の勝利ではない。部分的にパワハラをやめさせ、未払いを支払わせ、解雇を撤回させ、経営者の謝罪をかちとるだけだ。その勝利は灰色の「この世界」を変えることはない。
 しかも貧困者にとって、その道はとても険しい。私たちのような労働組合の活動に参加すれば、だいたい多くの場合、生活との両立に困難が生じる。「組合の取り組みで飯を食わないこと」を決意して活動を続けるのである。多くの合同労組のように中心的な活動家を専従させることで明確な役割分担を行い、サービス提供者と消費者との疑似的な関係を作り上げることをしない。それを拒否して自身がサービスの生産者であり消費者であるような組織を作り出そう、というのだ。そんなうまい話はあるのか、ということである。
 もちろん厳しい話ばかりではない。私たちは可能性を感じている。2009年のキャバクラユニオン結成以降、私たちの活動は、水商売の争議事件の取り組みに大きく傾斜している。成果主義、能力主義の最前線のような領域で踏ん張る人々が、いまや私たちの組合に参加する人々の9割を占めるのである。そしてときおり「いまみんなで店長を詰めているんですけど、どうしたらいいですか?」と電話がかかってくる。逃げた経営者の情報が匿名でもたらされる。
 昨年、9月に開催した大会で新しい役員体制が成立した。当組合の共同代表は3名。大学経験者は代表からいなくなった。加えて3名すべてキャバクラでの就労経験を持つ組合員である。私たちはもはや遠く「フリーター労組」の火花を夢想する位置にはいない。自身の生活と尊厳を獲得する人々の連帯の火花に手の届く場所にいる。
 合同労組運動をプラットフォームとして自己形成してきたフリーター全般労働組合は、いまも「一人でも入れる労働組合」だ。だが、いつまでもそこにとどまるわけにはいかない。組合を通じて闘い方、闘うことへの期待を獲得した人々が、さらにその先に進んでいくプラットフォームに自身を形成しなおす時期に来ている。フリーター全般労働組合は「一人でも出ていける労働組合」というのは、あまりうまい言い方ではないから考え直すが、少なくともあと数センチ、いまだ見出されてはいない方向へと進むことは確かだ。

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