2017新年号 資本主義は先進諸国で内戦を生み出した  

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反権力の集合的共通感情を作り出す「場」の創出を!

龍谷大学名誉教授 杉村 昌昭さんインタビュー

 米国次期大統領にトランプ氏が選出されるという「事件」の衝撃が冷めやらぬまま2016年が暮れ、17年が明けた。新自由主義的グローバリズムへの反抗は、自国第1主義というナショナリズムの広がりとして欧米を席巻するかに見える。 しかし、例えばフランスでは、労働法改正案反対運動を発端に新しい社会運動が台頭し、フランス全土に広がりを見せた。この運動は、「ニュイ・ドゥブ」(「夜に立ち上がれ」あるいは「抵抗の夜」の意)と名づけられ、参加者は、パリの共和国広場を連夜占拠し、様々なテーマで討議した。討論のテーマに制限はなく、ベーシックインカム、遺伝子組み換え作物、新憲法など様々で、誰でも意見表明できるという。指導者をおかず、参加者の対等・平等を重んじる直接民主主義の実践だ。ニューヨークのウォール街占拠運動やスペインで躍進した左翼政党ポデモスを生んだ反緊縮財政運動の流れを汲む未来志向の運動だ。
 人民新聞では、新年特集として、「抵抗」をキーワードとして世界各地の社会運動・思想を紹介する。第1回目は、このニュイ・ドゥブ運動の事実上のスポークスマンで経済学者のフレデリック・ロルドンとも親交が深い杉村昌昭さんに、ヨーロッパの先鋭的思想家たちが、世界をどう捉えようとしているのか?を聞いた。
 次号以降、中国・米国・中東など各地の抵抗運動や世界認識について紹介していく。(文責・編集部)

杉村4

感情は社会構造によって作られる

 フレデリック・ロルドンは、もともと、新自由主義批判者として謹厳実直な経済学研究者だったのですが、フランスのニュイ・ドゥブ運動(※3月の労働法改悪反対運動をきっかけにパリの共和国広場をはじめ全土で大規模な占拠運動が半年間にわたり戦われた)の理論的指導者として注目されています。彼は、「感情の社会」(邦訳『私たちの感情と欲望は、いかに資本主義に偽造されてるか?─新自由主義社会における〈感情の構造〉』、作品社、杉村昌昭訳)で、感情がどのように作られるかを書いています。17世紀オランダの哲学者スピノザの著書『エチカ』で展開されている理論を使って現代を社会科学的に分析する、という手法を採っています。
 ポイントは、感情が社会を動かしているが、その感情は社会構造によって作られるということです。
 「新自由主義の哲学」は個人主体の形而上学で、デカルト的な個人主体が先験的に存在していてそれが社会を構築する、という考え方です。個人が最初にあるので、新自由主義お得意の「自己責任」が問われることになります。ロルドンは、これを批判して、その感情そのものは社会構造によって作られていることを自覚すべきだと説いています。個人主体よりも「共同性」が先にあって初めて人間生活が成り立つのであり、その過程で個人という概念が生まれてくるのだということです。ロルドンは「人間は感情を持ったロボットである」とまで言っていますが、ロボットと違う点は、「感情」があることであり、その感情が反転して社会を変えていく原動力にもなる、としています。たとえば従順な労働者であっても、我慢できない臨界点に達すると爆発して歴史は変わるという主張です。先日、電通で働くエリートとして嘱望されていた24才の女性が自殺しました。新自由主義の中で拡大する格差問題では、非正規などの底辺労働者に焦点が当たっていましたが、今やエリート層まで犠牲になる時代となりました。
 ロルドンは、「個人は共同体が生み出したものであって、共同性こそ前提にすべき概念であって、個人の先験的存在性を基礎に置く近代的な人間観を逆転させなくてはならない」という考えです。個人は社会によって作られているので、社会構造を変えない限り個人も変わり得ないという主張です。
Frederic Lordon1

絶対資本主義

 ロルドンは、「新自由主義の労働政策は、労働を楽しくさせることだ」と言います。近代的フォーディズムは、映画「モダンタイムス」に描かれたように、「労働は苦役だが、消費欲望をかき立てて消費を楽しませる」というものでした。ところが、これが限界点に突き当たり、新たな資本蓄積のためには喜びを労働に内在化させて、労働そのものを楽しませなくてはならないという政策です。しかし、それは必ずしもうまくいってはいない。
 たとえば電通社員の自殺は、エリート社員ですら労働に耐えられなくなっているという矛盾が吹き出たという、象徴的な事件だと思います。ところが問題は、これが反抗ではなく「自殺」という結末を迎えていることです。マスメディアは、この事件を報道するときもっぱら電通の企業体質の問題に還元し、これを新自由主義企業にとどまらず新自由主義社会そのものの構造的問題として捉えようとする志向が全く見えません。新自由主義のメカニズムはマスメディアをも組み込んで構造化されたものなので、その弊害は構造を変えないかぎり解消され得ないものなのです。
 欧米では、こうした新自由主義の弊害がテロリズムとして表出しています。他人を殺して自分も死ぬという自殺テロリズムです。「イスラム国」(とくに欧米からの参加組)も、そうした現象の一つです。こうした分析を行っているのが、私が親しくしているイタリアの思想家フランコ・ベラルディの『ヒーローズ―絶対資本主義時代における大量殺人と自殺』という本です(邦訳を今年拙訳にて刊行予定)。
 インターネット空間でバーチャルな世界に浸っている若者が増えています。彼らの最後の存在証明が、テロ映像を残して死ぬことです。その映像を「生」の証としているという分析です。フランコは、これは資本主義が絶対的前提となった社会が生み出した逆説的「ヒーロー」だ、と述べています。相模原の殺人事件などもこの一種でしょう。
 ヘイトスピーチや極右ネオファシストが増大しているのは、現実生活の中でのコミュニケーションができず、ネット空間で存在を確認する若者が増えているからです。
ニュイドゥブ1

内戦状態をどう闘うか?

 これまた友人のエリック・アリエーズとマウリツィオ・ラッツァラートが昨年『戦争と資本』という大著を共著で刊行しましたが、これは1968年から半世紀にわたる社会状況の総括の試みです。彼らは「資本主義はあらゆる先進諸国で内戦を生み出した」と述べています。階級的内戦、フェミニズムの内戦、民族差別の内戦、文明の内戦等々、あらゆる次元で内戦が起きていて、この内戦をどう闘うかが今後の最大のテーマだと述べています。
 ロルドンもフランコもエリックもマウリツィオも現代資本主義に対する批判的姿勢は似通っていますが、分析の角度はそれぞれに異なっています。エリックとマウリツィオは、「新自由主義は68年革命から体制維持のために多くを学び現代資本主義を創りあげてきたのだが、その過程で多くの社会問題を引きおこし、その結果として反体制派と社会的諸次元で内戦状態に突入している」という共通認識です。
 フランスで起きた「ニュイ・ドゥブ」(夜、立ち上がれ)の運動も、そうしたネオリベへの反抗の一つです。テロに対する怒りからイスラム排斥・民族差別が起き、これへの批判が労働法改悪反対運動と結びついて、大きな盛り上がりを見せました。さまざまな職種・階層の人々が、パリの共和国広場に集まって夜通し議論し、郊外からも若者が集まり、直接民主主義の実践として注目を集めました。
 ロルドンはこの運動の理論的支柱ですが、彼は「ニュイ・ドゥブ運動」をネオリベ資本主義を根底から批判する実践として位置づけ、「大銀行や国際金融組織を査察せよ!」と訴えています。彼はまた、こうした運動を反資本主義、反権力的な共通感情を作り出す「場」としても意義づけています。
 この直接民主主義を求める運動は、スペインの怒れる者たちの運動から始まり、ウォールストリート占拠へと引き継がれました。「アラブの春」は中東全域に広がり、チリやケベックでも若者の運動が盛り上がっています。2015年ギリシャでは反債務運動が起こり、トルコでも広場占拠がありました。ニュイドゥブも一連の流れを受け継いでいます。
 日本でも内戦状態になっているのですが、潜在化しているだけです。日本の場合は、矛先が内向化し、自殺や引きこもりという形で自分に向かっています。フランコ・ベラルディは、これも反資本主義の一例だと分析し「働くな。引きこもれ!」と言っていますが、これも内戦の一つでしょう。ヨーロッパ諸国では、イスラム国への共感やテロリズムとして内戦が顕在化しています。一方で、ネオファシズム運動としても拡大しています。国家に対するさまざまな反乱はあちこちで散発的かつ恒常的に起きており、「これから内戦は激化する」と予言しています。

近代的前提の崩壊

 こうした内戦の激化の背景として、議会政治の機能不全があります。議会制度は選挙で成り立っているわけですが、選挙そのものが近代の擬制であって、民意を正確に反映しているわけではありません。米国の大統領選挙を見れば明らかです。投票率は低く、得票総数ではクリントンが勝っているのに、トランプが当選しました。総人口から言えば、せいぜい5割程度の選挙民が投票しただけで、しかもそのうちの半分以下がトランプを支持しただけで、世界に圧倒的影響力を行使する米国大統領が選ばれてしまうのです。議会の勢力図は、実際の社会的意識の分布図と大きくずれてしまっています。潜在的な意識も含めればもっとずれています。議会がさまざまな社会勢力をそのまま反映しているとは到底言い難い状態です。
 ギリシャの左翼政党シリザは政権党になりましたが、結局、債務返済を押しつけられてしまいました。スペインのポデモス運動も議会に大きく進出しましたが、今では当時の勢いはなくなっています。結局、議会主義で政権を取っても、新自由主義権力と彼らの金融主導の世界政治には勝てないということがはっきりしてきました。フランス社会党がいい例です。政権を担っていながら、完全にネオリベになっています。
 つまり、選挙そのものの擬制を暴き、直接民主主義の回路を切り開くことこそが、状況を変える唯一の方法でしょう。しかし、その具体的方法は誰にもわかっていない、という混迷の時代です。最も先進的な民意は、オキュパイ(占拠運動)のような直接行動から出てきていますが、多くの人は選挙が唯一の民主主義の鍵のように思い込んでいるのです。民主主義を「新しい社会に向かう直接的な革新運動」と考えれば、選挙はむしろ非民主主義的な現状維持装置であり、一部の保守的な層が政治権力を握るための道具に過ぎないことが、世界的にもますます明らかになってきています(選挙の不条理性についての私の考えは、友人たちとともに昨年刊行した『既成概念をぶち壊せ』[晃洋書房]の「選挙」という項目に説明してあります)。
 

集合的共通感情

 選挙に意味があるとすれば、民衆の反体制的な共通感情を作り出す実践的装置として、です。選挙運動を通じて人々に、何が問題かを明らかにして、反資本主義の意識を作っていく過程としての活用です。それ以上の意義はほとんどないと思います。
 逆に言うなら、現在選挙でいかなる政権ができても、反政権=選挙運動をますます強めていかねばならないのです。そういう状態に世界が陥っているということです。
 IMFや世界銀行といった国家の上に立つ世界組織、あるいは国際的大銀行や投資銀行など金融マフィアが、各国の重要施策を決定的に規定していて、彼らに抗える政権などないのです。これが現代金融資本主義の実態です。
 国益を守ることを口実に極右ナショナリズムが各国で台頭しているのも、そのためです。自由・平等・民主主義(選挙)といったあらゆる近代的前提が実態として崩れ、その虚構性が露わになっているのに、その前提を無批判に受け入れ、議論や運動を組み立てても意味がないのです。たとえばマスメディアでは、誰も選挙制度そのものへの批判や疑問を口にしません。
 日本では、天皇制もタブーの一つです。憲法第1条では、「天皇は国家の象徴であり国民統合の象徴」と書かれていますが、国家や国民統合の象徴が「生身の人間」であること自体が基本的におかしいのです。それなのに第1条を問題にする憲法学者がほとんどいないことは異常と言わねばなりません。
 天皇制の存続が自明の前提になっていて、誰も疑いを差し挟まないのです。天皇アキヒトが「生前退位」を口にしている今こそ、憲法1条を問題にすべき時です。付言するなら、天皇制の問題が単に「生前退位」うんぬんという狭隘な次元の話にとどまらず重要なのは、天皇制が廃絶されないかぎり(少なくともその機運が高まらないかぎり)階級差別や身分差別や民族差別や性差別など主要な差別が根本的に解消されえないことは自明の理だからです(天皇制の根源的問題性については、5面掲載の小論を参照してください)。
 日本も潜在的には内戦状態にあるのにそう見えないのは(沖縄の反基地闘争は内戦として顕在化してきていると見るべき)、近現代史の中で自明の前提とされてきた制度的擬制を疑わないからです。おまけに政権やマスメディアによって民衆が個々ばらばらに分断され、社会問題も相互関連がなおざりにされて全体的つながりを見えなくさせられているために、怒りが個人的に内向し、多くの人が矛先を自分に向けてしまうのです。沖縄と並んで、もうひとつ「内戦的様相」が顕在化しつつあるのが、原発事故および再稼働を巡る状況です。原発事故は明らかに「社会責任」(企業責任=国家責任)であるにもかかわらず、現政権はさまざまな口実を使って「自己責任」を被災者にとどまらず国民全体に拡散させ、責任の所在を曖昧にしようとしています。そして、その延長上で再稼働を推し進めています。
 日本にかぎりませんが、現状に即した政治体制や資本主義のラディカルな分析が停滞していて、どうしても選挙による改良という幻想に向かうところに現代世界の最大の問題があるのですが、選挙によって、ネオリベ資本主義を倒すことはもちろん「改良」することも至難のわざでしょう。

コナトゥス(自己保存本能) とメディア

 ロルドンは、感情を理解する場合、スピノザ哲学の主要概念である「コナトゥス」の機能に注目しています。これは「自己保存本能」とか「自存力」と訳されていますが、自分の命を守ろうとする根源的本能です。通常は、保守的に社会への順応を求めていきますが、限界にぶち当たると、逆に自己を保存するために蜂起するという革新性もあり、そうした両義的本能と言えます。さらには、自己保存のための共生的なものも含んでいます。
 「空気を読む」というのは、コナトゥスの典型的な順応的反応です。ところが「私はこれを言わないと生きていけない」という限界に突きあたると革新性へと反転します。管理職の過労死や過労自殺は、コナトゥスが革新的・反乱的に機能していない危機的状態で、ネオリベ資本主義が生み出した不幸の一つと言えます。ところがメディアは、これを個人的・断片的に解釈するばかりで、集合的共通感情を作り出す障害になっています。
 フランコ・ベラルディは、新自由主義社会が生み出した得体の知れないさまざまな現象を「理解しようとする努力をやめないことが大事だ」と言っています。
 新自由主義は、ミクロな生活や感情に影響して個々人の生活や信条に深く入り込んでいます。生まれたときから新自由主義社会で育った若者が、新自由主義的価値観を内面化しているのは当然と言えば当然です。しかし、人は個々に異なった人生の軌道を描くのであり、同じ社会に育ったからといって同じ精神生活を営むわけではありません。これも当然と言えば当然のことです。
 個々人の心の中で起きていることと、世の中で起きていることの結びつき方は多様かつ特異的でもあるのですが、そこに共通の傾向性もあるという点に注目する必要があります。だから個々人の精神生活とグローバルな現象をつなげて理解することが重要なのですが、このミクロとマクロをつなぐ回路の中に感情が占めるウェイトはかなり重いということです。
 今や底辺層だけでなくエリート層の中にも、矛盾を感じている人はたくさんいます。その矛盾を節合して反体制的な社会的共通感情にまで高める契機や装置を作らないと、世の中をひっくり返す集合的共通感情はできません。労働組合のようなギルド団体の閉鎖性の壁を打ち破り、さまざまな反体制的運動の横断的つながりを作る「場」の創造が求められています。こうした反権力の集合的共通感情をいかに創りだしていくか? これこそがネオリベ資本主義を越えていく鍵だと思います。

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