境界線上に立つ(4)琉球独立論と日本社会 本紙企画連続対談

沖縄から日本を照射 未来志向の独立論議

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松島泰勝(龍谷大教授)VS下地真樹(阪南大准教授)

 沖縄・高江では、ヘリパッド建設に反対して座り込む住民・市民らのテント・バリケード車の強制撤去・重機搬入が危ぶまれ、緊張が続いている。参院選が終わったとたんに、県との和解を破り、辺野古基地建設工事を再開するという背信行為に加え、本土マスメディアが五輪報道に集中する期間に暴挙を狙う安倍政権の狡猾さが目にあまる。
 6月25日に行われた対談企画「琉球独立論」では、日本社会の有り様そのものが問われた。基地の押しつけは沖縄差別であり、こうした理不尽さへの抵抗として独立が浮上してきている。また、独立後の経済政策をはじめ、ナショナリズムと排外主義にも論議は及んだ。対談と質疑の要約を紹介する。(文責・編集部)

松島:沖縄は琉球弧の一つの島です。1879年までは、琉球は独立国でした。私は、大学進学で東京に行きましたが、「異邦人」と見なされ、「私は何者なのか?」を考えるようになりました。大学院を修了後、グアムとパラオに赴任し、属領と共和国の違いを学びました。グアムは、先住民族=チャモロ人の島ですが、16世紀頃からスペインに植民地統治され、1898年以降は米国の植民地=属領となっています。島の3分の1が米軍基地で、島の施政権は米国政府が握っています。
 パラオ共和国は人口2万人弱ですが、大統領・議会・裁判所を持ち近代国民国家の要素を備え、国連のメンバーです。独自の慣習法も生かして、基地もなく平和な独自の経済社会を築いています。
 これら諸島の現状を研究する中で『琉球独立への道』(2012年)を出版し、独立を真正面に据えた研究を続けています。世界には、琉球よりも少ない人口の独立国が平和裡に存在しています。

独立論の背景にある沖縄差別

 国連憲章や国際人権規約には、「民族の自己決定権」が明記され、保障されています。さらにILO169号条約の「先住民族」規定に基づけば、琉球民族は、過去・現在にわたり植民地支配の下にある先住民族であると言えます。しかし、琉球民族の範囲は、血統によるものではなく、政治的歴史的に形作られたアイデンティティによるものと考えています。世論調査によると、自己決定権の行使を求める人は8割を超え、琉球人やその文化に誇りをもっている人は9割を越えています。
 こうした世論の変化には、辺野古新基地建設が大きく関わっています。当時の鳩山首相が、全国知事会で在沖米軍基地の県外移設を呼びかけたところ、ほとんどの知事が拒否し、沖縄県民は、基地問題を「沖縄差別」の結果だと認識するようになりました。
 1879年以降、琉球は植民地なのですが、脱植民地化運動が行われてきました。米軍統治下の1962年には、米軍統治からの解放を求めた「2・1決議」があり、アジアアフリカ諸国民連帯会議は、4月28日を「琉球デー」と定めています。日本では、同日を「主権回復の日」としていますが、琉球では、屈辱の日となっています。
 国連は琉球の植民地状態について、日本政府に対して、5回の勧告を出しています。勧告は、琉球人を先住民族として土地の権利を認め、沖縄への基地の集中を「現代の差別」だとして改善を求めています。
 琉球併合は違法であったという世論も高まっています。
 その根拠となっている、1850年代に琉球国が米国・仏国・オランダ政府と結んだ修好条約の原本を琉球に戻せ、という運動も起こっています。この原本は現在、東京にある外交資料館に保存されています。これに対して、日本政府は国連勧告を認めず、琉球国が歴史的に存在したこと自体も否定しています。武力による琉球併合を認めてしまえば、謝罪と賠償が避けられないからです。
 沖縄返還協定(1972年)は、当事者である琉球政府を排除して決めたもので、かつ密約が含まれており、国際法上も不備だと考えます。復帰後には、さまざまな沖縄特別法が作られましたが、これらは琉球に基地を押しつけるための制度構築として機能しています。
 19世紀の軍事的併合は無論、20世紀の「復帰」の際にも、日米両政府の間でのみ決定され、琉球人は住民投票の機会を奪われてきましたので、今も植民地体制が続いていると言えます。

世界各地の独立運動

 グアムには、米国からの新しい政治的地位を獲得するための公的機関として脱植民地化委員会があり、今年11月の住民投票に向けた準備を進めています。住民投票の有権者は先住民であるチャモロ人ですが、新たな法律や制度を決める議論は、他の民族や移住者も含めて広く行われる予定です。
 フランスの植民地であるニューカレドニアでは、70年代から独立運動が盛んになり、1986年、国連・脱植民地化委員会で「非自治地域」に登録されました。それ以来国連の支援を得ながら、独立に向けた準備を進めています。
 仏領ポリネシアのタヒチでは、仏領ポリネシア議会が国連「非自治地域」への登録を求める決議を採択し、3年前に「非自治地域」に登録され、独立や自治権拡大への条件が整いつつあります。
 昨年、翁長知事は国連人権理事会で演説し、「(沖縄は)自己決定権が蔑ろにされている。基地の押しつけは人権問題である」と訴えました。日本政府は、基地問題は人権問題ではないと主張していますが、国連は植民地として扱っており、今後とも国連を味方につけた運動が進められていくでしょう。
 スコットランド独立も現実的です。現地では、英国軍の大陸間弾道ミサイルを積んだ潜水艦をなくす反基地運動が、長年取り組まれてきました。一昨年の住民投票では、独立は否決されたものの、独立を求める「スコットランド民族党」は、英議会で第3党に躍進しています。英国のEU離脱決定後には、スコットランドを独立させて、EUに再加入する、という動きも活発化しています。スコットランドは北欧型モデルを目指し、EU協調路線です。
 スペイン・カタルーニャ自治州にも独立運動があり、現在、同自治州議会の半分以上の議員は独立を主張しており、スペイン政府との間で独立を巡る話し合いが続いています。人口が約1万人のツバルやナウルも独立して国連に1票を持っていますが、大きな問題は発生していません。
 国際法で保証された自己決定権には2つあり、内的自己決定権が認められない場合には、外的自己決定権(独立)が認められています。いま、琉球は独立しかないという状況に置かれていますので、イデオロギーを越えて、抵抗主体としての琉球人、オール沖縄が建設されているのだと思います。
 そもそも、琉球は独立国として存在していました。したがって「独立」とは、もともとあった状態に戻るのです。ただし王政ではなく、民主主義国家としてです。安全保障政策は、非武装中立が望ましいと思っています。道州制議論もありますが、日本全国で盛り上がりを欠き、また政府・国会の動向に左右されます。州政府には安全保障権限がないので、基地が押しつけられると危惧しています。
 日本と琉球を対等な立場に立たせることが目的です。琉球人の声は、無視し続けられています。1995年に12歳の女性が米兵3人に暴行を受け、今回は、暴行のうえ殺され、死体は捨てられたのです。こうした事件がずっと続いているのに、日本政府は、日米地位協定を変えようとも言い出さない。これは、植民地体制そのものです。
 3年前に「琉球民族独立総合研究学会」が発足しました。この学会に対して、「排外主義」という批判がありますが、私たちは、民族の自己決定権の行使を求めているだけです。

抵抗としての独立

下地:僕は沖縄県那覇市出身で、阪南大学で教員をしています。松島さんの議論に対して強く共感する部分と、批判したいと思う部分の2つがあります。
 琉球独立論を日本社会は真剣に受け止めなければなりません。それだけの理不尽な状況がある。その点は松島さんに全面的に賛同しています。しかし一方で、懸念もあります。
 沖縄独立論の背景には、「琉球民族の歴史性や文化性といった独自性」が基盤になっていると思うのですが、一旦ニュートラルに見てみます。まず、前提として、「私たちが理不尽な目に遭わされた時には、その現実を変えなければならないし、変化を求める権利がある」ということ。これは、誰がどんな立場で、どんな社会に暮らしていようと、普遍的に了解されるべきことです。基本的人権に基づく権利です。だから、政治参加などを通して社会を変えていこう、と努力するわけです。しかし、何をやっても変わらない時には、「独立」という選択肢を真面目に考えざるをえません。
 私が近い事例として思い出すのは、福島第一原発事故後に、数人の友人たちが「この日本社会はありえない」と見切りをつけて海外移住したことです。日本社会と全く縁を切った方もいれば、原発問題に関わり続け、日本の運動と協力関係を築いている方もいます。しかし、いずれにせよ「社会を変えるのは困難」だと感じて、外に出ることを選ぶのは、一つの地域社会が独立する場合であれ、個人が離れる場合であれ、肯定されるべき選択肢です。つまり、沖縄独立論も、民族の歴史や文化よりも、理不尽に対する普遍的見地からの拒絶という基盤の上にあるべきと考えています。
 沖縄・琉球という言葉に迷うのですが、さしあたり沖縄という言葉を使っていくとすると、沖縄で独立論が力を持ち始めているのは、日本政府から理不尽な扱いを受けているからです。これは、沖縄の共通認識として強く自覚されるようになっています。
 僕の生まれ育った環境では、自民党支持者が多かったのですが、今は自民党に反対する人が目立ってきました。近年のひどい扱いが原因です。長年言われ続けている「米軍基地の負担軽減」にしても、未だに0.6%の土地に、74%の基地を押しつけられています。さらに、オスプレイ強行配備や殺人事件が起こっても、日本政府は米国政府に地位協定の改訂要求すらしない。その日本政府は、尖閣諸島問題への対応として、宮古島や先島諸島に自衛隊を配備し、島の軍事化を進めています。これも沖縄と日本社会で温度差のある問題です。理不尽な事態が加速され、安保法制や憲法改悪の動きなど、状況を変える可能性はますます小さくなってきています。
 また、刑事訴訟法と盗聴法が全面改悪されました。基地反対運動について、日本政府が「懸念」を持つだけで、誰でも盗聴の対象にできるのです。社会活動全般に対して、政府が弾圧しようと思ったらいつでも利用できます。共謀罪はまだ成立していませんが、もはや日本は警察国家として完成したと言っても過言ではありません。裁判所も非常に腐敗しています。他の先進国と比較してもとりわけ酷い。
 このように、国内の制度を通じて状況を変えるのは困難と感じる人が増えるだけの状況が生まれています。真摯に受け止めるべきですし、沖縄独立論が出てくるのは当然です。それだけでなく、原発立地地域をはじめとして、日本中のどの地域でも、「こんな中央政府と付き合ってられない、独立しよう」という声がもっとあってもいいと思います。

基地なくす手段としての独立

【質問】日本の憲法や法律に、独立に関するものはありません。どう進めるのですか?
松島:憲法や地方自治法に、独立を規定した条文はありません。政府も「憲法のもとでは、国内法に基づいて独立はできない」と答弁しています。しかし、これまで多くの植民地が国際法に基づいて独立をしてきました。国連の脱植民地化特別委員会での議論を経て、国連の監視下で住民投票を行い、過半数が賛成すれば独立を宣言し、世界各国から国家承認をしてもらい国連加盟することができます。国際法という別の法律から独立は可能なのです。
 米軍基地が押しつけられて、琉球で女性が殺されても、改善のための法改正すらしない。そのような状況を続けていいのでしょうか。琉球人を人間としてみないような国にいることで、琉球人の誇りや尊厳が失われていく。道州制が実現し、沖縄のみが「琉球州」となるのは、中央集権的な現在の日本政府の姿勢を考えると、きびしい話です。道州制において、中央政府が安全保障の権限を持ち続けることが前提となっている以上、独立しかない、と考えます。
下地:道州制については同意見です。基地をなくすには、権限が足りません。国内法では独立できないという話ですが、そもそもアメリカ独立戦争は革命です。独立とは、「既存の法秩序を否定する、なぜなら、それは理不尽で酷いものだから」というものなのです。ですから、逆に独立を規定する法律がある国なんてありません。
 独立後についてですが、かつて高校野球で米軍施政時代の代表校が甲子園に出場したことがありました。独立しても良い関係があれば、歴史的な経緯や言語の共通性から、甲子園に琉球国の代表チームが参加することは今まで通り認めてもいいよね、という話になってもいい。むしろ、「独立したから、お前たちは参加させない」と言うような国なら、縁を切ったほうがいいと思います。独立問題を考える時には、沖縄の選択をどう評価するかという問題よりも日本社会の側がNOを突きつけられていることをどう評価するかという観点からじっくり考えなければなりません。

【質問】琉球が独立するにあたって、日米政府は米軍基地をどうするのでしょうか?
松島:20歳の女性が米軍属に殺された事件を受けて、県民大会でも「まずは米軍基地を撤去せよ」「在沖海兵隊は出て行け」という声明が出されました。米軍基地の存在は、人権上の問題であるとともに、経済的な意味でも大きな阻害となっています。それは、これまでの基地跡地利用の経済効果で明確になっています。翁長さんが知事に選ばれた時に、琉球の産業界からも基地反対の声が上がったのは、基地返還による経済効果が確かだからです。
 「独立後、基地をどうやってなくすか」ですが、沖縄県知事が交渉を求めても、日本政府は聞く耳を持たず、無視しています。アメリカ政府や議会関係者へも訴えましたが、県知事は政治的ステータスが高くないこともあって、大統領や大臣と会って交渉することができませんでした。かつてフィリピンは、首脳会談を経て、スービック基地を撤去させました。独立後のほうが日本政府の圧力・妨害を受けずに交渉できるので、より有効だと考えています。
 琉球には沖縄戦、米軍基地押し付けの経験から「日本軍、米軍を含む軍隊は、住民を守らない」という教訓がありますので、独立後は一切の基地をなくすことが重要です。
 現在、宮古・八重山諸島や奄美諸島に自衛隊基地が建設されていますが、これは「島嶼防衛」という政策に則っています。いわゆる尖閣諸島で紛争が起きた時に対応できるような体制をつくっている。これは「再び沖縄戦をやっても構わない」というシグナルです。こんな琉球人を捨て石にする国の一部のままでいいのでしょうか。

独立後の経済政策とは

【質問】琉球独立後の経済政策についてお聞きしたい。
松島:琉球は基地経済に依存しておらず、産業界すら基地反対に立ち上がっています。島の経済の一番の問題は、製造業に関しては規模の経済が働かないということ。しかし今はIT時代。IT関連の企業の投資は増えています。物流関係のANAやヤマト運輸の投資もあり、いろいろな経済発展の芽があります。米軍基地の問題は、普天間基地など重要な平地を利用できないことです。そこが開放されれば、経済発展の基盤ができてます。西表島のように島の90%以上が森林のようなところでは、エコツーリズム、有機農業など、島の環境に合った経済をやっていくべきでしょう。
 「日本の補助金政策で沖縄が発展した」という見方がありますが、間違いです。日本政府による経済政策はほとんど失敗に終わっています。1990年台半ばからは米軍基地を押し付けるために補助金を増やしてきました。しかし沖縄県に投下される国の公的支出金の県民一人当たりでみると全国17位でしかなく、極端に依存しているわけでもない。基地跡地は税収効果もあるので、独立して基地をなくしたほうが経済発展できます。
下地:これは松島さんの本で学んだことですが、島嶼のような小規模な経済が外から支配されないようにするためには、「域外者の所有制限」を含む土地所有のルールを作ることがキーになると思いました。日本国の中の沖縄県という立場ではなく、主権国家になると、できることが増えるのは確かです。
松島:グアムはアメリカの植民地で、外国人の土地の所有が認められています。海浜近くの土地などは日本企業が買い占めていて、儲けた金は日本に返っていきます。一方、パラオなどの島国は、外国人の土地所有を禁止しています。ある種の保護主義ですが、それによって自分たちの生存基盤を守っているのです。独立するとそういうことができます。
編集部…フィリピン独立後、外資に経済支配される新植民地主義の状況が続いています。また、中国脅威論によって米軍の再駐留も起きています。この状況をどのようにみますか。
松島:フィリピン独立後、外資に経済支配されるという新植民地主義については、私も知っています。復帰前の琉球には、民族資本がけっこう存在していました。ところが復帰後は、日本企業が進出して、琉球企業は倒産ないし系列化させられていきました。これが失業率が高い構造的要因です。独立後は、琉球も新植民地主義にならないように経済政策を行う必要があります。パラオのように、外資を排除はしませんが、地元の雇用を守る形で、選択して外国企業の投資を認める、などです。
 前には祖国復帰運動が盛り上がりました。平和憲法がある国の一員になれば基地もなくなり、日本国民と同権になるのではないか、という期待があったからです。
 しかし日本国憲法の上に日米地位協定があり、憲法の理念が琉球では実現されない状態が、44年も続いてきたのです。県民大会で掲げられたプラカードのように、我慢の限界を超えたのです。しかし日本政府は、地位協定を変えようともしない。
 ヤマトの中で自治度を高めるべきじゃないかと言っても、日本政府は認めないと思うので、独立しかないと考えます。
下地:沖縄が独立した場合、米軍に全部出て行ってもらうかどうかについては、不透明なところがあります。ただ地位協定の改定や、海兵隊は出て行ってもらうといった、すぐに着手できる改善案は多いと思います。東アジアの国際関係は微妙ですが、その中でできることをひとつひとつやっていく。安保への支持も結構あるのが現状ですから、実際に基地をなくせるということにみんなが確信をもつには、時間がかかる。社会を変えるには時間がかかるということも事実だと思います。

琉球ナショナリズムについて

下地:支配者側のナショナリズムと、抑圧される側のナショナリズムは違う、とよく言われます。確かに文脈として区別しないといけないことは承知していますが、しかし、排外主義のようなものを分泌していくという点では全部同じだと思います。
 どこに原因があるかと言うと、民族的な単位は、歴史や文化を共有していることを共通認識として持っていることで成り立っています。それに対して政治的な単位は、たとえば沖縄について言えば「日本政府によって虐げられている」という、政治的な課題によって結びついている集団です。
 この二つは、必ずしも一致していません。沖縄に長いこと住んでいる県外出身者だって、虐げられているという点では同じなわけです。それに抵抗して新しい国を作るというときに、民族主義的なアイデンティティーをもとにして定義すると、どうしてもこぼれおちるものがあります。排除はしないまでも、異なるアイデンティティの間に上下関係がつくられていくと思います。そして衝突が起きた時に、下に置かれた側が排除される危険性があります。
 民族主義的なものを独立論におくと、長期的には日本ナショナリズムと同じ失敗を繰り返すと思っています。イスラエルだって、民族解放運動から始まっている。日本も、幕末に不平等条約を押し付けられたり、外からの要因によって民族主義を育んでいます。人々を結びつけるための手段として歴史的文化的なものを使っていく中で、だんだん侵略者になっていったのが日本の歴史だと思います。琉球独立学会についても、既にまずい現象は出ていると思います。
 私はナショナリズムは徹底的に警戒しなくてはならないという、強い危機感を持っており、はっきりと拒否しなければならないと思っています。拒否したうえで独立運動はできると思います。むしろそのほうが、理不尽への抵抗としての独立であるという点がはっきりします。

日本を変える努力も続ける

下地:ただし、国連は民族や先住民という概念を重要視していて、その枠に乗ったときに、独立を現実に獲得しやすいという状況はあると思います。沖縄が琉球民族としての独自性を主張して国連で訴えるという手法をとれているのは、ある種ラッキーなことだと思います。現実的対応として民族や文化の文脈を主張することも、一定やむをえないかもしれない。しかし、たとえば原発によって虐げられている福島の人たちが、理不尽の質は共通しているのですが、同じようなやり方をできるかというと難しい。この区別は理不尽ではないかと、個人的には思います。
 沖縄が日本社会にとどまる選択肢を捨てないことも、大事だと思います。仮に独立しても、隣人であるわけです。日本社会と関わることは、独立の有無にかかわらず続くこと。独立と両天秤にかけながら、とどまってもいいよと思える状態を一緒につくろう、ということをやめてはならないと思います。
 もうひとつは、琉球ナショナリズムの陰で、沖縄の人たちが日本社会に参加する中で加害側に立ったことに口をぬぐっている面があります。翁長さんを県知事に押し上げた運動については全面的に賛同しますが、その翁長さんが自民党の人間として、日米安保を含めていまの日本政府を形作る政策に関与してきたことは、まぎれもない事実です。彼は、そのことについての落とし前をどこかでつけなければならないと思います。

「ゆいまーる」の実践として民族共生国家

松島:一民族が一つの国家を支配統治するということを、琉球独立論者が求めているわけではありません。いろんな民族が共生し、助け合う、「ゆいまーる」の実践、多民族共生国家を構想しています。
 民族の自己決定権という人権の行使は世界的に認められ行使されているので、国連の支援を受けながら、国際法にもとづいて独立します。他に選択肢がない状況に、日本がなってしまったのです。
 琉球が日本社会のメンバーとして存在することの責任についてですが、まず考えて欲しいのは、琉球が望んで日本の一員になったわけではないということです。琉球処分で日本が植民地にして、復帰も同意に基づいたものではなかった。米軍基地があることによって加害者にさせられているが、無理やり日本の中に入れられたのです。そこまで琉球は責任を負わなくてはならないのでしょうか。
 ナショナリズムと排外主義について。自分が被害者であり、抵抗の主体であるという気持ちを持った人々が集まり、その変えるためのと議論をしています。自分たちの問題を自分たちで話し合い、方向性を決めているという、自己決定権行使の歩みを「排外主義」と日本人が言って批判するのは、自らが琉球の問題に介入し、支配できないからではないでしょうか。

根深い日本の支配者意識

松島:琉球独立学会が成立する前に何度か独立や自己決定権に関するシンポジウムを行った際に、日本人から何度も「琉球の言葉は分からないから、日本語で話せ!」と言われたり、FAX、ネット、手紙等を通じて嫌がらせを受けました。議論を静かな環境で、他から妨害されないで行うことも、独立学会設立の理由の一つになったのです。
 お互いに尊敬できる、琉球にルーツを持つ人、という意味で琉球人に限定した経緯がある。日本人が入れないのが排外主義だ、というふうに日本人から言われるのは、琉球のことに対して「自分こそは発言権がある」という、支配者意識の現れであり、逆に植民地主義ではないかと思います。独立学会は、現在でもオープンシンポジウムも何度も開催し、様々なルーツを持つ方の参加を歓迎しており、閉鎖的な議論をしているわけでもありません。
 私は、ナショナリズムを「独立運動」として考えています。世界をみると、スコットランド、カタルーニャ、バスク、ケベック等のマイノリティー・ナショナリズムを確認することができます。パレスチナは、イスラエルのマジョリティ・ナショナリズムによる植民地支配から脱却するために、マイノリティー・ナショナリズムにより自らの国を形成することが可能になりました。植民地からの脱却を求めて独立運動つまりマイノリティー・ナショナリズムを展開する権利を国連や国際法は認めていますし、琉球人もその権利を持っています。

植民地からの脱却と個人の責任

下地:琉球ナショナリズムが排外主義になりうる危険性について。すでに、基地反対の平和運動の中でも、「ヤマトンチュが大きな顔をしているから行きたくない」といった発言があることを伝え聞いていますし、これが真実だとすれば、既に懸念される状態はあると思います。
 「好きこのんで日本人になったわけではない」という主張についは、それを言ってしまうのはまずいのではないか。ぼくらは無色透明なところに生まれてくるのではなくて、ある状態の中で生まれ、それを引き受けていかざるをえません。やってきたことを引き受けなくては人間になれないと僕は感じます。たとえば、辺野古に反対するために10年間駅前に立って訴え続けてきた大阪の人と、その間ずっと賛成しつづけてきた翁長さんの間のギャップを、彼が琉球人というルーツを持っていることによって無にしてはならないと思います。
 いろんな人がいろいろな思いで社会に関わっていくときに、ポジショナリティ(立場や背景)の話は大事ですが、日本人対沖縄人の非対等性をきちんと確認したうえで、ひとりひとりの個人は、そこに多様な関わり方をしているというところに、まず戻らなければいけないと思います。

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