危ない時代に入ってしまった。しかし、どこから反撃するかの地点はたくさん見つかった。なにより「新しい政治勢力の台頭」といえる若い世代の政治的表現が増えた。240万人の18〜19歳の新有権者への影響力が一番大きいのは、間違いなくシールズであろう。彼らの来年の参議院選挙にむけた違憲議員落選運動のスタイルを見守りたい◆ 国民が権力者をコントロールするために憲法がある、ということが知れ渡った。その脈略で「立憲主義ってなんだ!」という言葉が学生のスローガンとなったが、その表現方法は新しい時代にふさわしいものだった。国会正門前で、リズム感が価値観につながることを知った。膝でリズムをとりながらの「民主主義ってなんだ!」というシュプレヒコールは、演歌世代には想定外だった◆ 香港の若者たちのデモで「私たちは香港だ」がスローガンになった。「中国ではない」とは言わない。これが新しい局面を切り開いている。他者を否定する力が強い人が主導権を握った運動スタイルを卒業し、肯定する力こそが主導権を持つ、と流れは変わった◆ 常総市駅前にボランティアの列が続く。このボランタリズムの流れと、町から村へ向かう若者の田舎暮らし志向と、国会前に呼応した全国の無数の政治グループの登場、これらの要素が自立した個々人のなかに生まれている。これが反撃の出発点であろう。(I)
3月31日、在特会が鶴橋(大阪市・生野区)で情宣活動をするというので見に行った。道路の北側に30人ぐらいの集団が、日の丸やのぼりを立ててがなっている。いくつものハンドマイクを使い、しゃべる人間はいろいろと変わるが、怒鳴ってる、がなってる、罵る、嘲るというような感じ▼全体に若い人が多いのと、戦闘服がほとんどないところが、旧来の右翼と違うところだろうか。ところが、彼らに異議を申し立てる人間の多さにびっくりしたのか、盛んに興奮し始めた。特に、釜ヶ崎からのメンバーに対して、ハンドマイクで、「釜のゴミ」とか「働いていない労働組合」とか言いだしてびっくり。在特会の活動に異議申し立てをするグループはいっぱいいるのに、この「叫び」は何なのだろう▼野宿者を襲う中高生の多くが、エリートではなく、「落ちこぼれ」と言われる存在であることが多い。おそらく彼らも中流以下で、その苛立ちを上に向けるのではなく、下と思いたい人々を差別することで発散しようとしてるのではないかと思った▼暴力的対立を避けて彼らへの反対意思表示をしようという、こちら側の申し合わせもあって、道を挟んでの意見表明はおもしろい体験となった。在特会の存在を批判しつつ、暴力的に排除しないというのは、かつてない左翼運動の一つの進歩だと実感した。(A)
野田政権が、福井県・大飯原発再稼働に向けたレールを走り出した。5月初めで、現在、唯一稼働中の北海道・泊原発が定期検査に入る。日本で稼働原発がゼロとなる事態を避けるべく、突っ走り始めたというわけだ◆彼の政権を突き動かす動機は何か。原発推進政策が打ち立てられてきた基礎にある、既得権益を死守せんとする支配層の意向に従うことで政権維持を図る狙い以外にない◆消費税増税。大型土木工事の全面解禁。米軍の意向に沿った沖縄米軍基地固定化。TPP交渉への積極的参加。米国と財務省の意向に従順であることだけが民主党・野田政権の政治方針となった◆ヒドイ話だ。あの政権交代の末路がこれとは。目先の計算ばかりが長けた政治屋ゴロ共に、わずかとはいえ期待を持った己を恥じるのみ◆小浜市の中嶌哲演和尚が、福井県下の原発の地元は京阪神都市部だ、と指摘されていた。電力受給者の居住地域こそが地元であり、受益者なのだ、と。地元住民として、大飯原発再稼働を許すのか。私たちが問われている◆原発立地の過疎地域に多額の金をバラまいてきた電力会社と政府は、彼らが被害者である、という認識を最初から持っていたということだ。フクシマは、その正しさの悲惨な証明となってしまった◆野田、前原、枝野。こんな連中と一緒に何をしようとしているのですか、辻元さん。あなたの姿が、どんどん見えなくなってしまいます。(M)
「原状回復」という言葉が通用しない放射能拡散が、福島を中心に未曾有の規模で続いている。この現実を前に、誰がすっきりした認識や見通しを持ちえるだろうか。政府の原発政策への違和は広く共有されているが、その内部にも様々な違和がある▼「オールジャパン」を連呼する体制に呼応するように、運動の側が「オール反原発」を連呼して内部にある違和を恐れてしまっては、運動は本当の力を持ち得ないだろう。体験したことのない現実が目の前にあるときに、スッキリし過ぎた言説が吐かれることこそ警戒すべきなのかもしれない▼迷い、不安を抱き、ビビることは、恥じるべきことではない。恥じるべきなのは、自分の迷い、不安、恐れを隠蔽、抑圧し、そのために何か外部にある情報源や知的権威に依存することだ。そのような態度は、自分の内なる思いと同時に他者の声をも抑圧する。たとえば科学や生物学の専門知が絶対の根拠であるように考えることは、「あの日」以降にも暴露され続けた専門家と官僚の愚を繰り返すことだ▼私たちは、放射能の生物学的影響を調べるための実験台でも「歩くガイガーカウンター」でもなく、どこまでも自分の言葉を介して自然や他者とかかわりあう主体であるはずだ。一人一人が自分の言葉を吐くことこそが、「民衆知」とでも呼べるものの基盤となる。民衆知に媒介されない専門知は、またぞろ国家や官僚の支配の道具となるだけだ。(O)
吉本隆明とは私にとってなんだったのか、訃報を聞いてそう言ってみたくなった。例えば、思想というものがカッコ良いという認識を与えた人だった。こうした場合に思想を〈思想〉と表記することを教えた人だった。革命が起きた時、急いでどぶにはまって死ぬことと、戦闘の中で死ぬこととは等価であることについて、納得させる言葉を発する人だった。〈大衆の原像〉にこだわることによって既成左翼を批判する立ち位置を提供した人だった▼『共同幻想論』は、国家と共同体の関係を、私に考えさせる契機を与えた。それは未だに切実な課題として私の中にある。「個の観念から逆立して国家が生まれる」、何だこれは!という驚きの与え方が岡本太郎風だった。『カール・マルクス』は、自然哲学をベースにしたマルクスを私に教えた。マルクス〈主義者〉に対する違和感を、言語にして表現する方法を教わった。同時に類的存在としての人間と自然との関係を総体としてとらえる、という枠組みは、今日まで私の中に生きている▼親戚の葬式ですれ違っただけの関係だったが、9・11にまつわる発言は、よかった。人質を道づれにビルにつっこんぢゃ駄目でしょ、江戸っ子だった。彼は3・11について「公のことが優先で、個は捨てよ」という言説がまかり通らない〈復興〉が必要だと語った。これが私に対する遺言だった。(I)
イギリスの経済学者・E.F.シューマッハーは、『宴のあとの経済学』(ちくま学芸文庫)で、まともなことを言っている。彼は、「技術というものは、いったん成立するとその初期の目的から離れて、独自の法則と原理で発展し、加速化し、巨大化し、コントロールできなくなり、悪をもたらす」という▼原発について、「いかに経済がそれで繁栄するからといって、…何千年、何万年の間、ありとあらゆる生物に測り知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量に貯めこんでよいというものではない。そんなことをするのは、生命そのものに対する冒涜であり、その罪は、かつて人間のおかしたどんな罪より数段重い。文明がそのような罪の上に成りたつと考えるのは、倫理的にも精神的にも、また形而上学的にいっても、化物じみている」と述べている▼彼の主張の背景には、宗教的な感覚がある。《成長を続けないと機能できないようになっているおかしさ》に、深いところで気づき、自然の法則、身の丈にあった身体感覚を重視している。金もうけや経済成長や消費や競争・暴力に囚われる「宴の経済学」のおかしさに気づく人は一部だ。気づくためには、対抗的なスピリチュアルな視線が必要である▼まずは、自然界の均衡に耳をすまし、自分の生活を根本から見直し、非暴力にすることである。ところで、『宴のあとの経済学』の内容が話されたのは、1970年代半ばであった。この40年、人類は何をしてきたのか。(H)
12月に福島市に行った。放射能から子どもを守る活動をしている友人を訪ねた。友人は線量計を手に、あちこち連れていってくれた。そして、「除染なんかしても意味がない。自然が全部汚染されているのだから、家や庭を除染しても、一雨降れば、山から流れてきて元の木阿弥だ。子どもは福島から逃げるしかない」と言った◆『チェルノブイリは女たちを変えた』(社会思想社)という本を読むと、ドイツでも、チェルノブイリの後、福島と同じことが起きていたと述べられている◆「男性たちは命のことを考えない。彼らはどんな犠牲を払おうと、自然や敵を征服することしか考えない」という、モスクワからドイツにやってきた女性の言葉を引用して、「男性の領分は技術、女性の領分は生活。男性は戦争をするが、女性は生活を再び立て直す役目なのだ」と述べる。放射能汚染も「機械のような男性なら、格別気にならないかもしれない。どのみち、彼らの官能は後退して、機械的に反応するだけになってしまっているのだから」、大したことはないと証明するために、「公開の場でレタスを食べる儀式」をしたという◆何と、今の日本の政治家が同じことをしている。左翼も右翼も関係ない。自然と共存するのか、支配しようとするのか、の違いなのだ。ドイツは保守政権だが、原発を廃止する方向に向かっている。さて、日本は?(A)
内閣府原子力安全委員会の新大綱策定会議に所属する田中知(東大)、山口彰(阪大)、山名元(京大)の3委員に原発関連企業・団体からこの5年間で1800万円超の寄付が行われていることがわかった。同会議には5人の原子力専門家がいるが、3人は今でも「事故で安全性は向上した」とか「高速炉継続を」などと発言している▼これらのお金は寄付金だから、使う側には勝手がいい。どうせきれいな女性を私設秘書で雇ったり、海外での学会の際に遊興費などとして使われているに違いない。業界に貢献してくれているセンセイたちへのお小遣いだ▼ドイツでは倫理委員会が「原発利用に倫理的根拠はない」との報告書を出した。他にどんな委員会があるのか知らないが、少なくともこの国では、原発は単に経済問題、環境問題などではなく、倫理の問題として考えられている。福島第1原発の事故に際してメルケル首相が、「原爆の被害にあった日本が、なぜこんなにも原発に依存しているのか理解できない」と語っていたのが印象に残る。彼らにとって原爆も原発も同じもので、その使用は人間の倫理にもとることなのだ。平和利用とか再処理とか増殖炉とか、ことばで誤魔化しているわが国と違う。ドイツが核武装を放棄しているからこそ、脱原発に歩を進められる▼翻って、日本の3人のセンセイ。倫理などと高尚なことは要求しないが、せめて、こういうことは非常に恥ずかしい行いだと知って欲しい。(や)
「私の心の中にあるものは外に向かって出なければいけない。だから私は作曲する」(ベートーベン)▼この「心の中にあるもの」はそもそもベートーベンという個人を越えたところにある。それが個人の思惑や想像力を超えた高次元の秩序や法則を体現するがゆえに、彼の音楽は私たちをも動かす。モーツァルトやベートーベンのような「天才」は音楽という高次元の秩序と私たちとを媒介するメディアである。天才として評価されるのはほんの一握りの人間だけだが、誰にとっても生きるということは、どこかしら個人には手に負えない大きな存在や力との関わりでもある▼かつての「一揆」は、非日常的(神的)な高次の秩序を前提した「契約」に根拠付けられており、単に目の前の困難に対して衝動的に立ち上がった個人の集合ではなかった。だからこそ、あらゆる禁止や統制にもかかわらず、いざというときに人々は「神の名において」暴力を発動しえた▼もはや「神」を共有しないバラバラな私たちも、一人一人の手には負えない大きな存在を共有している。それはたとえば「都市」である。デモが私たちの「一揆」だとすれば、真に国家の支配を脅かすデモを発動させるためには、国家には管理しきれない「都市」の力、すなわちバラバラな人間が作り出す空間の「手に負えなさ」、たとえばあの天王寺公園の「青空カラオケ」のような「手に負えなさ」を手放してはならない。(O)
ギリシャの労働者が賃金切り下げ、年金カットなどに対して抗議のデモを行っているニュースをみながら、なぜか、「世界同時革命」という昔の言葉を思い出した。ギリシャが破たんし、その国債が紙切れになれば、欧州の銀行が破たんする。そうならないようにギリシャ政府への融資を続ける以外にない。しかし、ギリシャ労働者階級が断固として自己の利益を主張しつづけたなら、メルトダウンした炉心のように、いくらつぎ込んでも制御不可能になる▼その結果、ユーロの信用がなくなり、アメリカに波及してドルが暴落し、中国の経済成長は輸出先を失って失速する。こうして始まる世界恐慌は、資本主義の制度を機能不全とし、「世界同時革命」のリアリティがみえてくる。人類史上、初めての局面である▼日本には、政治的な変化を求める人々が増えている。しかし、どこに向かって変革していくのかが、みえていない。お金の秩序が崩壊したとき、どんな暮らしを営むか、そのイメージトレーニングを始めておくのがよい。たべものとエネルギーをどうやって身近で調達できるのか、誰と協力して調達するのか、それだけが手がかりである▼若者が農村をめざしている。間違いなくその潮流があらわれている。生きるすべが都会になくなっていくから、それは当たり前の現象だろう。モノの豊かさからヒトの幸せへ発想の転換を。地域で自給と協同をはじめよう。(I)
滋賀県の伊吹山は、わが国で最高の積雪記録をもっている。積雪というと新潟県や北海道が思い浮かぶから、意外な感がするかもしれない。地図を見ていただくとわかるが、若狭湾から伊勢湾にかけて、日本列島は大きくくびれている。しかもさほど高い山もない。北極を南下した寒気は、ヒマラヤ山脈に突き当たり、偏西風に乗って東へと流れ、日本海の上でたっぷりと湿気を含み、日本列島へと達する。そして、若狭湾から伊勢湾へと一気に吹き抜け、伊吹山やそのふもとの関ヶ原・米原に雪をもたらす。放射能も同じこと▼琵琶湖は周囲を山で囲まれていて、滋賀県に降った雨は、全て琵琶湖に流れ込むようにできている。そして、南の端にある瀬田川から流れ出て、宇治川・淀川と続き、大阪湾へと注ぐ。京都へは疎水を通じて流れ込む。京都・大阪の住民ばかりでなく、神戸市の上水道まで琵琶湖の水でまかなっている。もし琵琶湖が放射能で汚染されたとしたら…▼若狭湾に原発があること自体が悪夢である。今のところ福井県知事は、停止中の原発の再稼働を認めないようだ。一方政府は、というよりは官僚たちは、北陸新幹線の金沢─敦賀間新規着工予算をエサとして用意した。敦賀に新幹線が来るのが早いのか、敦賀が死の街になるのが早いのか、これも悪夢に違いない。(や)
私は左翼だが、新しい潮流に影響を受け変化し続けている左翼的な人だと思う。だから今現在の段階では、消費主義的な主流秩序を変革することこそが大事だと考えている▼たとえば、石油依存、原発依存を減らすために、できるだけ自動車に乗らず、エアコンの使用を控え、高い外食やスーパーのできあいのものの利用を減らす。有益と思える活動をするために長時間労働をせず、代償なしに与える活動を組み込み、家のローンに追われないよう家を買わず、子どもをエリートにしようとしない。できるとこから忙しい生活を見直し、自然を感じる時間をもち、人にやさしくする、人と生身でかかわる、所有よりシェアに比重を移し、フードマイレージを意識し、ため込まず、モノを極力買わない…▼ところがそういうことは、重要ではないと考え、じつは主流秩序にのってしまった生活スタイルを送っている「左翼・革新派」は多い。そして対抗していないのに対抗していると思っているだけ▼だが世界は、動いている。それを知るために、マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』 を読んでみればいい。従来の左翼とは違う感覚で新しい社会づくりが始まっていることがわかる。それはまともな思想と運動の系譜に位置づけることができる。世界中から共感の声が押し寄せ、フリーエコノミー的に生きようとするネットワークが広がっている。「自分が変化になりなさい」(ガンジー)(H)
1月14日、引退棋士の米長邦雄(元名人、将棋連盟会長)がコンピュータと将棋で対局する。その結果がどうあれ、現役の名人が電算機に負ける日は来る。人間の能力を電算機と競うような発想のままその日を迎えれば、「人間の敗北」を認めたくない心理的抵抗の拠り所を失った者は、無力感に襲われるだけだ◆しかし、盤面を数値化したデータを処理するだけで対局相手の存在など関知しない電算機の「孤独」な営みは、将棋盤という宇宙の中で2人の異質な人間同士が向き合う面白さを侵食するわけではない。「孤独」な電算機に負けるのを過度に恐れることは、複数の人間が織り成す世界への不信の表れである◆米長は、かつて天皇と会見した際に、国旗国歌を児童に強制しようとする持論を天皇にたしなめられたが、かつての名人も複数の異質な人間同士が共存する世界を恐れる、孤独な保守オヤジに過ぎないのか◆かつてコンピュータに敗北したチェスの元世界チャンピオンであるガルリ・カスパロフは現在、ロシアの民主化を掲げる野党のリーダーとしてプーチンと闘っている。「政治とチェスの違いは?」と問われたカスパロフは「チェスにはルールがあるが、ロシアの政治にはない」と答えた◆米長は「同じルール、平等な条件の下で他者と対峙する」将棋というゲームから重要なことを学び損ねてしまったのだろうか。(O)
昨年暮れ、友人がてんかん性発作で入院した。年明け、彼に3.11を覚えているか?と問うた時、彼の答えは「いや。それ、どこで起こったの」◆福島県の農民の自殺が後を絶たない。仮設住宅での孤独死も続いている。誰一人として、原発事故の責任を引き受けない国で、全く、いわれなき人々が今も死んでいる◆人の意識と人々が直面している現実。その相関をあれこれ考えているうちに、今年の正月休みも早々に過ぎてしまった◆3.11を契機として、人々の心の受容度が変わり始めた。大きなうねりとしてはいまだに見えないけれど、どんどん深く広がっている。そして、時代は世界資本主義の終末期◆志を確かめ、動き始める時だ。体を動かし、非日常に踏み出す時だ。そうして、関係を広げ、新しい関係を日常に組み直していく時だ◆閉塞を呪うことをやめろ、自らの不遇を呪うな。壊す快感に酔って、観客席で拍手することをやめろ。そうして今いる人との繋がりを、未来の人々との繋がりにまで拡げていこう◆長く、暗い、戦争の危機が続く21世紀に備えるために、学ぶことから始めよう。人類の積み重ねてきた英知を。人々が暮らしのなかで育ててきた知恵に◆3.11を機に、新たな胎動を始めた日本の地から、世界各地の圧制下、今年も獄中で新年を迎えた同志たちに、連帯のエールを!(M)
“派遣村”で見えかけた“貧困”がまた見えにくくなっている。見える野宿者が減少し、生活保護者の増加ばかりが大きく報道されている。生活保護費の生活費は、家賃を除くと8万円前後(地域差がある)だ。そのぐらいの生活費で生活している20代前半の男性は、同世代の4分の1にもなるという。彼らは集中して住まないため、見えにくい。繁華街に行くと着飾った若者ばかりが目立つ。野宿者になる若者はまだまだ少ない。少子化のせいか、実家におれるのだろうか?◆1950年代から集団就職とかで家におれない若者は都会に集中し、成功しなかった者は、ドヤ街、スラム街に流れ着いた。帰る家を持たない彼らが年老いて職を失った時、野宿者となり、大量にテント小屋ができ、マスコミの注目を浴びた。生活保護に移行できた人も多いが、より見えにくい所へ移行した人も多い。ネットカフェなどに泊まっている人たちは、ドヤ街と違って世間に見えにくい◆ひきこもりもあいかわらず多いが、人の目に触れないので大きな話題になりにくい。派遣で働き全国を流動している人びとは、より見えにくい。秋葉原事件はちょっと見える形にしてくれたが、寄せ場暴動のような形にはならなかった◆貧乏人はもっと群れて生活し、情報を交換し、助け合わなければ、ますます孤立、隠蔽されてしまう。集中して住めば力になる。(A)
TPPへの参加にむけた協議が始まっている。これがアメリカの対中国戦略であるとわかっており、それに加担をするかどうかの選択である。参加を選択した時に引き起こされる様々な現象は、すでに出尽くしている。農業の壊滅、農村の崩壊、健保制度への格差導入、資本投資の自由度強化等々が指摘されている◆私は、もっと根本的なところで失うものがあるという感覚がある。紅葉が今年は12月に入ってきれいに色づいた。この色づきを日本人は好きだ。なぜ、好きなのか。それは、紅葉する木の下には、腐葉土が生まれているからだ。生命系の進化を支えてきた《いのち》の源がここにある。だから、紅葉をめでる価値観がずっと昔から、私たちの世代にまで受け継がれてきた。鳥のさえずりを心地よく聞く、という風習がある。これは、鳥が嬉しげに鳴くところに、必ずおいしい木の実があるということを、先祖の人たちは知っていたからだ◆風土にもとづく価値観には、必ず生きるための知恵が埋め込まれている。国境を守ることを国家が忘れた時、風土に依拠した知恵、この文化が失われていく。TPPは、後戻りできないプロセスの始まりであるように思える。土を忘れた人間集団が、集団自殺の道を歩み始めている。いまなら、まだ間に合うのではないか。東日本大震災の体験を生かさねばならない。(I)
大阪ダブル選挙で橋下の大阪維新が圧勝した。ひどくなっていく一里塚。今こそ、こんな暗黒社会へ向かう状況でどう生きるのかが問われる。戦争の時代が近づく時に、個々人の姿勢が問われるように▼私は、前からひどい社会と思っていたので、ひどい社会状況でどう生きるかを考えてきた。その結論は、社会の主流秩序(多くの人の考えや組織や制度)から距離をとったり抵抗する個々人の実践はできる(外部的存在になる)というものだ▼権力ゲーム(政治、システムの話)が大事だと言って、同じ土俵に乗って結局負けていくだけでいいとは思わない。大情況的には厳しくとも、個別的な生き方において、別の闘いとしての、脱秩序、逸脱、部分的解放、秩序への抵抗、スクウォット、新しい価値、新しい世界、新しい関係性、新たな思考を追求することはできる▼量的に多数でなくても、永続的制度的=安定的でなくてもいい。多数(世間、組織、時流)に屈しない強い個人になっていくしかない。遠い先の理想や傍観者的分析など大きなことを語るだけより、いまここでの部分的な実践の方が手ごたえがある。軍隊の中にいても、自分に何ができるかを考えた鶴見俊輔のように▼たとえば、身近な人との関係を非暴力的なものにしていくことはできる。あきらめて長いものにまかれるのは、沈黙による現状肯定にすぎない。(H)
年老いてエサをとれなくなったライオンを救うために、ウサギが自らの身を投げ出す、という仏教の説話がある。野田首相がTPPへの参加を決めた。仏教としてはいい話かもしれないが、外交でこんなことをされてはたまったものではない◆おそらく、農業部門では米作と畜産が壊滅的ダメージを受けるだろう。この際、兼業農家をつぶして、一気に土地を集約し、あわよくば株式会社の農地取得もできるようにしよう、という魂胆だ。「災害資本主義」とはよく言ったものだ。日本の米作は、ため池、川の堰、水路、そして、しっかりした畦に囲まれた田んぼなどの総合的なシステムの上で営まれてきた。讃岐平野では弘法大師・空海が作ったため池が今も活きている◆およそ400年前、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を「発見」した。それまでにそこに住んでいた人々は、自然と共生し、穏やかに暮らしていた。土地を私有する、などという卑しい気持ちも思想も持ち合わせていなかった。これらの人々をほとんどジェノサイドし、土地を略奪した。こういう歴史がなければ成り立たないような農産物と自由に競争することに何の意味があるのか◆食糧危機は近いうちに、必ずやってくる。日本列島は、地球的規模で見て、驚くほど農業生産に適している。この地の農業、特に米作を滅ぼすことは、グローバルな損失である。(や)
TPP、普天間基地移設、次期戦闘機選定、牛肉の輸入基準、消費税導入。日米首脳会議で迫られた懸案を全て受け入れる民主党野田政権。まてよ。少し見方を変えれば、外務省、財務省、防衛省の言いなりということか…▼民主党が掲げた「政治主導」とはこんなことだったのか。そう言えば、菅内閣の総務大臣だった片山氏も、「野田さんは財務省の言いなりだった」と書いていたっけ▼そんな民主党に無事入党を果たされた辻元清美さん。先日、高槻市郊外のお祭りでバッタリ。「この国難の折、こんな所に来ていていいの」と声をかけると、「私、毎年来てるもん」とそっけない返事。マァ、こっちの声にも少々トゲがあったのだけれど▼ただし、「政権中枢に喰い込まなければ仕事はできない」という彼女の主張は、彼女を支持して来た大多数の期待を裏切るものだ。彼女もまた、信ずるのは己の能力。人々の力は票で数えるだけの政治屋に変質したということか▼政治が空中戦となるのは不可避。地べたで、日々の暮らしのあれこれを組み換えていく仕事の積み重ねだけで、社会変革が実現するというのは楽観にすぎると思う。けれど、地面に根を下ろす人間の力が中心だ。その確信がないから権力にすり寄っていく▼信ずるのは己の能力だけ。人々は票。このどうしょうもない錯誤が、橋下を大阪市長選へとかり立てた。サテ、結果は。選挙結果の予想はいつもこっちの敗北だったけど…。(M)
『テザ・慟哭の大地』というエチオピア映画を見た。ドイツに留学していたエチオピア医師が、革命後のエチオピアに帰り、祖国再生につくそうとする。ところが、アルバニアを志向する軍部指導者とソ連志向のインテリとの対立にまきこまれ、親友が殺される。ドイツにもどると、ネオナチ的な若者に襲撃され、半死に一生を得る、といった私にとってはとてもしんどい映画だった▼松本清張が「北の詩人」という小説で、革命後の北朝鮮に帰った在日朝鮮人革命家が、党を批判するとスパイ扱いされ、死んでいくことを書いていたが、それとも重なる▼そうしたところへ、「無言歌」という中国映画があらわれた。1956年の「反右派闘争」で作られた強制収容所の実態をあばいた問題作▼ボスニアでは、旧ユーゴスラビア時代のチトーが作った強制収容所「裸の島」の実態調査も始まり、映画化が検討されている▼反対派を粛清したり、強制収容所に送ったりするのは、スターリンの専売特許ではない。アナーキストによると、トロツキーも赤軍司令官時代、大量のアナーキストを、殺したという▼今、アメリカの資本主義が堕落したのは、ソ連という強力な競争相手がいなくなったからだという説がある。反対派の存在は大切だ。粛清や収容所封じ込めでなく、言論で闘わなければ、かつての連合赤軍と一緒だと思った。(A)
「真似」と「盗作」はしばしば泰然とは区別しがたく、盗作か応用かをめぐって法的な争いも起こるが、コンピューター時代においては、他人の作品を「パクる」のとは少し性格の異なる知的不誠実も存在する。他人の文章を「切って貼る」だけの「盗作」も横行しているが、そこに針と糸ではぎれを縫い合わせる労働が介在するならば、まだ断片同士を配置・整合する過程に人間の能力は必要だ◆しかし、私たちはすでに文章作成支援ソフトウェアのようなものを使えば、ほとんど自分自身の思考能力を使わずとも文章をコンピューターに書かせることすらできる。世に溢れている文章の多くが、既にどこかで公開された情報をあるパターンで組み合わせて全体の整合性をとっただけの代物に近づいていないか。そこで問題となるのは他人の労働の成果を自分のこととして盗むことだけでなく、人間がコンピューターを手伝っているだけという事態の不健全さである◆私たちは言葉を単なる情報伝達のための手段としか考えず、言葉が対象を「命名」する力の行使でもあることを忘れつつある。言葉を力として行使することを通じて、私たちははじめて書き、話す主体となり、そうして書かれ話された力強い言葉だけが他者を動かし、社会を変えてゆくだろう。ひ弱な反復労働から人間の労働を取り戻さなければならない。(O)
ニューヨークに端を発した反貧困・反格差のデモが全米、そして欧州に広がっている。国境措置が低くなれば地域に根ざした経済は崩壊し、社会は不安定になる。地域とは、自然と生命が基礎にある人間の関係性である。その地域を失った人々は根無し草となり、お金の量で貧困を意識し、格差に怒りを覚えざるを得ない▼TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)といわれる23分野におよぶ関税撤廃と国内制度の変更が進められようとしている。アメリカの覇権を、成長センターである東アジアに確立するための集まりである。ポイントは投資の自由化とその保護である。国家間協定によって崩壊局面にある金融システムを補強する側面もみえる。協定に参加すれば、日本でもさらに格差が拡大し、貧困層が増大することはみえている▼経済成長に依存した文明は終わりを告げようとしている。東日本大震災は、科学技術が大災害に無力である事、巨大科学技術の原発が、厄災を生み出す事を私たちに教えた。震災復興の方向性は、地域経済の復興以外にない。ここでは、自給経済が再建される。この豊かさが経済としてカウントされると、貧困にたいする意識は相当に変化するだろう。協同経済の再建は、それをベースに進められる。私たちの暮らし方が未来を創り出す。そんな反貧困・反TPPであって欲しい。(I)
毎年変わる日本の首相と、すっかり落ち目の米大統領の会談。ニュースにもならない首脳外交で唯一注目を集めたのは、沖縄の米軍基地の問題だった▼原発の事故対応の教訓を掲げて国連総会に臨んだ野田首相は、あらためて核武装と原発開発の同根性を強く思い知らされたに違いない▼みすず書房から出版された『福島の原発事故をめぐって』と題する山本義隆氏の原発告発の書は、原発依存社会からの脱却は、「核抑止力による世界平和維持」という虚構の打破と一体であると主張している。氏曰く「日本における原発建設の推進は、国際政治の中で核武装を放棄した日本が、潜在的に核を持ちうる『大国』たらんとした自民党政権による国家主導だった」▼つまり、選択の根拠がエネルギーにあったわけではなかったし、まして、安全性を問う意識などまったくなかった、というのが歴史的真実なのだ▼沖縄からの米軍基地の全面撤退という沖縄県民の願いは、極東における核抑止力の論理を打ち破らないかぎり実現しない。同じように、原発依存からの全面脱却は、日本国家の潜在的核武装という支配層の狙いを打ち破ること抜きには、実現できない▼米軍基地の存在に苦しみ、闘い続けて来た沖縄の人々のように、原発事故による放射能汚染に苦しめられる多くの人々の闘いが、日本の戦後政治への骨格を揺さぶり、変革へとよりあげられうるのか。私たちにつきつけられた課題は重い。(M)
東日本震災ボランティアに行ってきた。6月と8月。10日間を2回。小さな避難所への支援物資配送の手伝いと、お寺の墓場のガレキ撤去、食品工場の泥さらえ、小さな漁村でのカキ養殖の種付けなど、色々させてもらった▼高速道路のインターチェンジで大阪最大の人夫出し業者=渥美組の大看板を見かけた。駅で配られている無料の求人情報誌を見ると、渥美組は、食事3食付、寮費無料で復興工事に500人募集(その後300人に変更)を出している。他にも大量の片付け仕事の求人が出ている。大半が寮付きとなっている。一方で関東や名古屋方面から自動車関連の期間工の求人がすごい数で出ている▼地震、津波で仕事や家を失った人が大量にいることを見込んでの寮付き仕事の求人に、地元の人はどう反応するのだろうか。ハローワークによると、震災特例法で若者は10月まで失業保険が支給されるが、高齢者は来年1月までという。寮付きの仕事は一見生活が保障されるようにみえるが、3年前のリーマンショックで派遣村ができたように、いつ首を切られるかわからない。大阪や名古屋から復興工事目当てで東北に行く労働者の流れもある。新聞によると労働者の4割が非正規雇用になったという。残念ながら仙台で非正規雇用労働者の相談に乗る運動体に出会えなかった。新たな労働市場の動きに早急な対応を考えたい。(A)
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