[コラム] 遙矢当/元に戻す「復興」では、犠牲者の思い報われぬ
ビル倒壊の恐怖 25キロ徒歩帰宅
3月11日の14時46分。私は、東京駅八重洲口前にある介護事業所の本部にいました。介護保険制度の改正案が決まり、さらに《石原慎太郎の都知事選出馬》のニュースを聞いて、うな垂れていた午後のことです。
古びた雑居ビルが、突然横揺れでガタガタとガラスが揺れ始めると、次の瞬間、床から一気に突き上げるような振動がオフィスを襲いました。「まずは外に出よう!」─社員の誰かが叫ぶと、皆で5階から一斉に駆け下りました。
ビルの外に出ても揺れが止まる気配はなく、足がすくみそうなほどの横揺れが襲いました。八重洲オフィス街の人々は、ビル倒壊を恐れ、広い場所を求めて、車の往来が止まらない東京駅前の通りまで飛び出しました。5分ほどの揺れが収まってオフィスに引き返すと、散乱した書類や落下したパソコン、割れた接客用の皿が目に飛び込み、顔から血の気が引きました。
「すぐサービス事業所に電話しろ!」と、怒号に近い指示が飛び交いました。私は、ネットで地震速報を確認すると「三陸沖で震度7」のニュースが飛び込んできて、「これはとんでもないことが始まった…!」との思いが迫りました。
介護サービス事業所へ電話連絡を取り、安否を確認している最中の15時過ぎ、再び激しい横揺れが襲いました。もう一度、階段を駆け下りて、ビルの外に出ました。この時は、オフィス街の人々は、ヘルメットを被り防災用具を手にし、本気で逃げる体制でした。目の前の東京駅ビルは、揺れが止まりません。「ここで37年の人生は最期か」と、覚悟を決めました。
2回目の揺れが収まると、幸い八重洲のオフィス街に倒壊はなく、皆、自分の職場に引き返して行きました。すぐにテレビを用意しました。余震が収まらず、揺れながら見つめたテレビが映し出したのが、東北の港町を飲み込む「波」とは思えないような大津波、そして自信のない枝野官房長官の答弁でした。
あらゆる交通機関が停止し、オフィスに完全に缶詰になったのです。新潟出身者の会社の役員は、2004年に被災した経験を思い出し、覚悟を決め始めていました。彼らは「3月は日が落ちるのが早い。寒いし、これからの時間帯が怖い」とつぶやくと、「また余震が来る。仕事はもういいから、すぐ帰りなさい」と指示しました。
サービス事業所は、概ね無事だと確認できたので、ひとまず安堵していましたが、帰ろうにも帰れません。今思うと、帰る勇気が出なかったというのが本音だったかもしれません。
帰るには、歩くか、バスに乗るか、タクシーに乗るしかありません。独身ならオフィスに泊まるという選択もできますが、私は妻の安否も確認したく、東京駅から自宅のある調布市(約25km)まで歩く覚悟を決めました。
価値観大転換余儀なくされた大地震
東京駅では、新幹線の改札口で途方に暮れる人々が座り込み、バス・タクシー待ちの人々でごった返していました。また、量販店で購入したのか、自転車の列もでき始めていました。
歩いて帰ろうとする人々が、地図を片手に静かな行進を始めていたので、私も列に加わりました。産経新聞が号外を配布していましたが、この一大事に広告を多用し、扇情的な報道姿勢に怒りが湧いてきました。
霞ヶ関から国会議事堂、民主党本部を通り、青山通りから赤坂に入る手前で、幸い国会関係者が乗り捨てたタクシーを止めました。ドライバーは、「あんたら一般人乗せても、一時間に1qも進まないよ」と捨て台詞を吐かれ、扉を閉め返しました。歩くこと2時間、ようやく新宿までたどり着いたのです。
新宿の店舗群は全て営業を中止し、不気味な静粛が街を覆っていました。辛うじて営業していたラーメン屋で食事を済ませると、再び歩き始めました。微かな望みで京王線の改札を覗くと、大勢の寡黙な人々による巨大な人の波が待ち構えていたのです。私は異様なその姿が正視できなくなり、逃げ出すように離れました。
道の途中では、「トイレ貸します」「帰宅途中の方、休憩ご利用下さい」の張り紙を目にするようになります。しかし、併設されたテレビでは、東北地方での津波と火の海が写し出されていました。
世田谷の手前で、並列する京王線から踏み切りの音が聞こえてきました。復旧して、乗車無料で開放されたのでした。何時間歩いたか分からないほど歩き続けて部屋に戻った私は、緊急連絡に備えて寝巻きに着替えることもできず、テレビを付けっ放しにして、床に就きました。
日付が変わった明け方の4時、テレビからの一際大きな警戒音に起こされると、長野を震源とする新たな地震が襲いかかっていました。呆然としながら、次に何をして良いのか分からなくなっていました。それは、巨大地震によって、私自身の価値観も転換を余儀なくされている、と思い知った瞬間でもありました。
人とのつながり作り直す
この国では、いずれ地震が起きることが国づくりの前提になっていたはずです。しかし、その中心となる東京という街は、阪神大震災(95年)や、新潟県中越震災(04年)の重い教訓を活かさず、あらゆる機能の一極集中の街づくりへと突き進んでしまったのです。
今回起きた有史以来最大の震災は、街づくり・国づくりを誤ったまま進めてきた所産でもあるだろう、と私は思っています。「復興」という希望の言葉すらかき消されそうな今の惨状は、もはや日本人だけの力では到底取り戻せないものでしょう。諸外国への排他的な態度を改め、新しい文化や知恵を積極的に受け入れる。虚飾と飽食の生活スタイルを転換し、人の繋がりをもう一度見直す。そんな新しい社会が望まれるべきです。
再び地震を迎えても、この誤りを繰り返すようなことがあってはなりません。また「同じ街」へと元に戻すような復興では、被災した犠牲者の方々の思いが報われません。
私は、「新しい街」が生まれるために、再び立ち上がりたいと決意しています。