[コラム] 栗田隆子/東日本大震災 平常心? ムリだよ、ムリだって
不安にならない、悲しくならない、怒らない…なんてムリ
「3・11」その数字を言うだけで、東北を中心とした東日本圏の人間には、大地の揺れ(4月4日現在も余震が続く)、津波、原子力発電所の爆発、亡くなってしまった人の姿、生き残った人の悲しみ、止まってしまった道路や電車、今後も汚れ続ける雨と水と土と空気、棚から消えた品物、今も東北地方の多くで復旧しないガス・電気・水道、という一連の出来事が覆いかぶさってくる。そして、略奪はないというマスコミ報道とは裏腹に、死者の服から財布を盗みとる羅生門的光景が存在していると、東北地方に住む知人からの話も聞いた。
国は放射能の基準値を急に上げたり、電力会社はタヌキが人を馬鹿すような会見を繰り返した。
こんなときに、不安にならない、悲しくならない、怒らない、なんてあるわけがない。なのに、冷静に、理性的に、個々人が過つことなく情報を処理し判断しろ、とマスコミは言う。「良心的」な人も、口を揃えて「日常に戻れ」という。
ムリだよ、ムリだって。
友人はこんなことを言っていた。
「仕事がない、住居が不安定、病気等々、放射能以外にも不安が山とある。それなのに、原発や地震でそれらの不安が隠されてくのもおかしい」。
そうだ。この地震によって割を食うのは、もともと「日常」の社会でも、割を食ってきた人たちだ。だからこそ、日々の不安を丁寧に伝え合うことが、とてもとても必要だと感じる。私の周囲では、このようなときだからこそ、集まって心を伝え合う営みを意識的に行おうとしている人たちが目立つ。別に地震や原発のことでなくても、雇用や生活の困ったことについて丁寧に語り合うことが必要なのだと思う。
ロックバンド・スピッツのボーカリスト・草野マサムネが倒れたというニュースがあったが、情報が交錯しわけがわからないなかで、衝撃的な光景の続くテレビを見てパニック障害になったり、気持が悪くなってしまった人も多い。普段は健康で、倒れるなんてめったにない人たちも、自分のなかの気持が言葉になる前にからだに出てしまっているのだろう。
情報はまったく交錯しているからこそ、感情に向き合って、感情から考えてみるということも、やはり大事なんじゃないかと思うのだ。感情に気がつかなければ、無意識に「安心」を求めて、仮に間違っていたとしても、安心を与えてくれるような情報にすがりついてしまうことだってあるだろうから。それは、別にこういう時だけのことではないとも思うけれど―。
私自身のもっとも強い感情は、罪悪感だった。原発の危険性も、原発で働くのは東電の社員ではなく下請けの労働者が集められてきたことも、知ってはいた。それなのに、どこまで本気で考えてきただろう、と思うと、頭が真っ白になった。なにより私は、東京電力を使っている首都圏の人間。福島の人々からすれば、加害的な立場の人間である。原発、それは実は貧困問題・労働問題・女性問題と、私がやってきたことのすべてに関わりながら、加害者の側であるということを突きつけられた出来事だった。それでも津波でやられた地域の人たちからすれば、原発ばかり気にするのは結局、首都圏の人間が自分のことばかり考えているからだ、という思いも出てくるだろう。
東北へと旅立つ人もいる中で、私はやはりいつもどおり大して動けやしない。そのもろもろの「罪悪感」を手がかりにして、その感情が教えてくれるところから、一歩足を踏み出したいと思う。