五輪開催向け 戦時状態に突入する日本社会
日本社会にはいま、二重の軛がある。一方では、福島第1原発からダダ漏れの放射性物質による市民生活への被害が「常態」であることを示す「原子力緊急事態宣言」によって。他方で、今夏に予定の東京オリンピック/パラリンピック(以下、東京五輪)へのカウントダウンによって。
東京五輪は、通常の市民生活では起きることのない事態や起こす必要のない施策などのさまざまな「例外」を、「そういうもんだよね」という「常態」へと変異させながら、開催へと加速している。
新国立競技場建設のために霞ヶ丘住宅の住民を強制移動させたこと。全国紙が五輪スポンサーになり、NHKから系列のキー局までマス・メディアが全て五輪への同調・礼賛番組を放映するようになったこと。招致段階から5倍にも膨れ上がった開催経費、五輪後の経済危機や先行き不透明な施設維持の見通しにいたることなど。不透明な疑問点がスルーされ、時計の針だけが進んでいる。
これはもはや、日本社会が戦時状態にあり、目前の戦争を迎え入れるための準備が整いつつあるということではないか。通常の法規的措置が棚上げされ、合法/違法/脱法の境界が曖昧になり、目的のために市民社会のシステムが一旦宙吊りにされる。「桜を見る会」のうやむや、ボランティアをすれば大学の単位がもらえる、五輪期間中の公共交通や企業活動の制限、監視強化やセキュリティの上昇は、確実にプライバシーを脅かす。
こうした事態に対し、五輪「ファシズム」や「翼賛」報道と呼び、酷暑になる開催期間のボランティアの自発的「動員」を「インパール作戦」に見立てるなど、五輪前の状況に1930年代から戦時中との類似性を見てとる人は多い。「歴史を繰り返してはいけない」と。
批判と異端を許さないナショナリズム高揚の気配は類似してはいるが、歴史事例から現状を批判しても、「今回の東京は大丈夫」という幻想を補強するだけではないか。直近の歴史もそうだ。「7万とも言われる市民の強制移住を強いたリオとは違う。せっかく作った施設を維持できないブラジルとは違う」。東京はそうした反省に立って「うまくやる」という、五輪の推進言説に絡め取られてしまう。
「五輪はナショナリズムを高揚させ排外的な空気を作り出す」という批判には、「日本代表は多様な出自からなる選手たちによって、肌の色や宗教は関係なく組織されているから、戦前のウルトラ・ナショナリズムにはならない」という答えが用意されてしまった。過去のマイナス要素は全て今回克服されるべき達成目標になり(しかし決して達成はされない)、だから五輪の「やり方」を変えようとしているんだ、となる。開催を前提に開催の根拠にさえされてしまう。
選手・役員・ボランティア・沿道の観客・聖火ランナーから、福島原発で日夜作業に従事する原発労働者たちまでが、この戦時体制の兵士だ。「ワンチーム」、銃後も前線もない。「少しでも復興した姿を世界に見てもらうために」、高線量の現場で過酷なシフトを戦い抜いている姿は、最近多くのテレビ番組で映されている。
そして「復興」の象徴として、聖火は楢葉町と広野町にまたがるJビレッジからスタートする。廃炉作業は「まだ」続いているのに、「復興」の象徴として聖火が走る。大きな矛盾が、鮮やかに儀礼的に同一化される瞬間が、もう半年後に訪れようとしている。
終わらない廃炉作業の中でJビレッジから聖歌がスタート
同時に戦争は、恍惚、陶酔、快楽を産みさえする。耽溺し、盛り上がってしまう。「どうせやるなら勝て/どうせやるならがんばれ」。多様な手法を駆使し、感情を合理的に活用しながら、2週間という時間の後に何が待っているかを推測させないよう時間を短く区切る。競技ごと、メダル獲得ごと、惜しくも敗れ去った選手が「いい話」の主役になるごとに、イメージの圧力は上げられていく。
恍惚と陶酔にはきっかけが必要だ。64年の東京五輪は、開催直前まで全く盛り上がっていなかった。それがギリシャから聖火が運ばれ、日本中をリレーされる姿がテレビやラジオで紹介されるにつれて、五輪への関心が芽生えていったという。36年に史上初めて五輪での聖火リレーを実施させたヒトラーの先見の明だ。
五輪はスポーツの魅力を広める等価器の役目を果たしてきた面もあるかもしれない。でもいまの五輪は完全に、既得権益を持つ五輪貴族やグローバル・エリート階級、見世物としてのスポーツから利益を貪るメディア・コングロマリット、ジェンダーを制度が決めること、メダルを獲得できるアスリートを養成できる資金と資源と施設のある国々のためのものだ。
民族や階級やジェンダーを超えた、「フェア・プレー」による「人間讃歌」という謳い文句は、結果的に「スポーツ・ウォッシュ」にしかならない。社会矛盾や人為的な不平等が、スポーツの名のもとにまるで洗い流されているかのようだ。実際洗い流されているのは、賄賂、犠牲者、公金の無駄遣い、復興事業の置き去り、「原子力緊急事態宣言」という、決してサッとひと拭きになどできない現実だ。