第1回 人命にかかわる灼熱下での強行
東京五輪開幕予定日まで1年を切った。福島事故の隠ぺいや数々の不正疑惑など、問題は数えきれない。日本への怒りのデモが続く韓国でも、放射能汚染への懸念が再燃し、ボイコットに世論の3分の2が賛成しているという。しかし、当の日本での五輪批判の声はまだ小さい。
日本でも反対の強化が必要だ。本紙6月15日、25日号で五輪を思想的・構造的に批判した小笠原博毅さんに、あらためて五輪返上論を連載していただく。(編集部)
真夏の五輪開催目的は金だ 最大の資金源米国TVへの忖度
「日陰がない。脱水になる可能性も大いにある。可能なら再考してほしい」、「選手はもちろん、観客にも酷なこと」。
男子20キロメートル競歩の世界記録保持者で、来年予定されている東京五輪でもメダル獲得が期待される鈴木雄介選手が、実際のレース・コースを試歩した後のコメントである。招致委員会が「温暖」で「理想的な気候」と表現した真夏の東京が、実は灼熱の「酷暑」であることは、おそらく2013年当時でも明らかだったはず。
「アスリート・ファースト」を掲げていたはずである。ボランティア希望者のやりがいに頼った運営になるはずである。しかし、多くの役員や観客も含めた人々の「人命」にかかわる環境の中で五輪が強行されようとしている。
実際、五輪の際にはプレスセンターになる予定の東京ビッグサイトの工事現場では、作業員が死亡した。突貫工事による心身疲労ではなく、熱中症の疑いがある。
真夏でなければいけない理由は、金だ。七月から8月にかけて枯渇するスポーツ・コンテンツを埋めたいアメリカのテレビ・ネットワークのための忖度だ。それは、IOC(国際オリンピック委員会)最大の資金源への配慮と言ってもいい。現場の人間たちではなく、遠くから現場を操る者たちの利益が優先されるのである。
都内の小中学校で五輪教育を施され、応援要員として動員される子どもたちはどうすればいいのだろう? 菅笠や打ち水で気候変動真っ只中の地球の猛威に対処できるなどとは、誰も真剣に思ってはいないだろう。
暑さによる事故に対して、一体誰が責任をとるのだろうか? そもそも、死のリスクを負ってまでやる意味がどこにあるのだろうか? と、近頃マス・メディアもやっと五輪開催時期と気候の問題を取り上げるようになった。
問題解決ならOKではなく 五輪そのものがダメなのだ
だが、このように書いてくると、「では真夏ではなく、64年のように秋空の下でならば開催してもいいのね?」という疑問が返ってくるだろう。
ミスト設備や遮熱性塗装のための工事を何千万円もかけて何キロにもわたって行わなくてもいいのなら、五輪を開催してもいいのだね?と。
全ては「タラレバ」の話になるのだが、福島第一原発の事故処理が済んでいたらいいのだね? 放射性物質が完全に制御されていればいいのだね? 東北の「復興」が成し遂げられればいいのだね? そもそも、東日本大震災が起きてなければいいのだね? 結局のところ、東京2020を取り巻く条件がクリアされれば、五輪自体はいいのだね? いっそ東京以外でやるなら、いいのだね?
いや違う、五輪そのものがダメなのだ、もうやってはいけないことなのだ。130年続けられてきた国際イヴェント自体を止めるべきなのだ。
役目を終えたから卒業ということではない。五輪は19世紀末のそもそものはじめから矛盾だらけのおかしなことだったし、そのおかしさを隠しきれないほど肥大化し複雑化したまま、「温暖」で「理想的」どころか、「放射能は制御されている」という嘘をまかり通す開き直りを必要とするほど、手のつけられないものになってしまった。
五輪は勝手にひとりでにやってくるわけではない。いまや、五輪そのものの是非を問うときである。