【くりりゅの哲学ノート】第3回不安や恐怖を 差別につなげないために 在野の哲学者・文筆業 栗田 隆子

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センターをめぐる運動内でも

 私はこの10年近く運動内の暴力(もちろん性暴力込み)について考えてきた。左派やリベラルとされる立場の人の振るう差別や暴力。それこそ最近では西成区の「あいりん労働福祉センター」が閉鎖されるに伴い、シャッター閉鎖に対する抗議運動が起きたが、そのなかでさえ性暴力があったという報告もあった。記憶に新しい人も多いだろう(下の画像参照)。  

そんな声がもみ消されず上がってくるだけましかもしれないが、それにしても運動の中での差別や暴力は枚挙にいとまがない。それは社会運動も社会のなかに存在しているという証左そのもので、釜ヶ崎が特段恐ろしい場所でもなければ、逆に解放区というわけでもない。ただ「社会」であることにすぎないのだと私は思っている。  

とはいえ運動内の差別というと、例えば日本人→外国人、男性→女性、あるいは支援者→当事者、という矢印に向かって差別が行われる構図に慣れ親しんでいた。それはフェミニズムにおいても例外ではないこともわかっていたつもりだった。  

しかし、ネットをにぎわす「トランスフォビア」に、愕然としてしまった。というのも、フォビアを担っていたのは、右翼や保守あるいはシスヘテロ(生まれて診断された性別と同じ性を生きてる状態で、かつ異性愛者)男性たちでもない、自分たちをフェミニストだと思っている女性たちだったからだ。  

トランスフォビアがネットをにぎわすきっかけになった事件は、お茶の水女子大学がトランスジェンダーの女性を受け入れたというニュースから始まる。それに対して百田尚樹氏らがツイッター上で「それなら女装して乗り込もうか」といった発言を行ったのだ。  

それに対して抗議をした人は大勢いたのだが、そのころから徐々に、「トランス女性が犯罪者として紛れていたらどうするのか」「犯罪者とトランス女性を見分けるのはどうしたらいいのか」「トランス女性が女性トイレを利用するのは怖い」といった発言が散見されるようになっていった。  

その背景には、彼女たちの性犯罪に対する不安や恐怖があると私は感じている。トイレや着替えや風呂に入る場所が安全ではなく、安心に過ごせないという恐怖と不安。そして、恐怖や不安を訴えても、理解されない経験、「女のことは後回し」とされてきた経験があるのだろう。そこで百田尚樹氏が脅したような性犯罪を行うためにのみ「女装した」男性が入ってきたとしたら……と考えると恐怖や不安を持つ人が現れることは(百田尚樹のような人がいる限り)想像できる。  

しかし、誰か特定の属性や外見の特徴の人を犯罪者予備軍と決めつけることは、とても危険だ。おまけにシス女性(生まれた性と同じ性を生きている人)は、「シス」という点においては「トランス」に対してマジョリティの立場でもある。  

フェミニストとは何か

トランス差別はおかしい、と語ってきたところ、かつてツイッターで私をフォローしていたフェミニスト的発言をするアカウントが、私をいつの間にかフォローから外し、私からそのアカウントを見られなくする操作(ブロックという)をしていた。この人たちは、右派でもなくどちらかといえば左派であり、それこそカトリックなどの宗教右派に対して批判しているアカウントさえあった。しかし、それがこのような事態に陥ったのである。  

私は、安心・安全を求める気持ちがヘイト、フォビア、差別につながらないようにするにはどうしたらいいのか、ということをもっともっと言葉にする必要があると痛切に感じる。自分が暴力を受けた経験を差別の根拠にしないために。そして、自分が受けた差別をちがう属性に対してそっくりそのままスライドしてしまわないために。安心とは何か、安全とは何か、人間関係のありよう、建築設計、などなど具体的に語っていきたい。

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