今年は三一運動百周年だ。日本の植民地支配に根本的否定を突きつけた朝鮮民衆のデモは、3月1日の動きに留まらず4月、5月と朝鮮各地に拡大し、また中国東北地方、ソ連沿海州、日本でも動きのあった東アジア的なものであった。独立宣言に署名した民族代表の宗教者・知識人に留まらず、各地で立ち上がった無数の民衆の力があったからこそ、日本官憲は暴圧的に弾圧したのだ▼1910年以前の東アジアには王制国家のみ存在したが、1910年代になると、中国とロシアが共和制への革命を成就し、三一運動も共和制を志向した。独立の意味はこの点で強調されるべきだ▼同時期の日本民衆の力の発現は、米騒動があるが、1923年の関東大震災の朝鮮人虐殺において最悪の形で発現した▼現在、ポピュリズムに対する議論がなされている。一般的には大衆迎合や反知性がその意味だが、ラクラウによると人民を構築する政治であるという。朝鮮人虐殺という日本の経験を含めて、百年前の東アジアにおける多様な民衆の力の発現が参照されるべきだ。この文脈で、天皇家についての直接的言及がある映画「金子文子と朴烈」の意味を議論したい。(K)