移民をタブー視する安倍政権
1月の論説委員会のテーマは「移民」。昨年、自民党が採決を強行し、入管法の改正を実行した。産業界に蔓延する人手不足の解消に迫られて、ついに単純労働の現場にまで「技能実習」「留学」を口実に外国人労働者を受け入れる道を開いた入管法改正の経緯は、本紙に4回連載された深見史氏の報告が的確に批判している。―労働力商品は欲しいが、労働する人間が日本社会で日本人と一緒に生活することは許さない。
日本政府が、頑なに「移民」を口にしない背景には、「万世一系」という幻想に囚われ、天皇制を中心とする強権国家を指向する勢力に、この政権が基礎を置いている事実がある。安倍首相が口にする「国際社会の普遍的価値」とか「民主主義国家として」とかいう枕詞が、常に中国や北朝鮮への感情的非難の言葉としてしか響かない背景には、この政権がそれとは真逆な国家像を指向する企みを奥深くに宿していることが直感されるからに他ならない。彼らにとって「移民」はタブーなのだ。
しかし、これまでこのタブーに真向から挑戦する試みがまったくなかったわけではない。2008年、自民党の中川秀直氏を会長とする「外国人材交流推進議員連盟」が「日本型移民政策の提言」を公表。当時の福田首相に日本の移民政策への転換を提言したことがあった。
自民党の中にも、グローバル社会が急速に進むなか、日本社会がその変化にどのように対応していくべきかを、正面から論議していた人たちもいたわけだ。しかし、その直後、自民党は下野。復活した第2次安倍政権となって、論議は霧散する。
その後自民党の劣化は著しい。日本の移民問題を真正面から論議し、政策、制度設計を模索する野党も見当たらない。課題と矛盾は次々と先き送りされ、現場の非鳴だけが続いている。
移動能力の格差生み出したグローバリズム
移民をめぐって、もう一つ論じなければならないテーマが、現代社会の移動能力の隔差という問題だ。
リビアの崩壊、シリア内戦の混迷の中でヨーロッパに流入する移民、中南米で生命の危機に直面し、アメリカとメキシコ国境へと行進を続ける移民。彼らは、このグローバル時代にあって、移動する能力を完全に奪われた結果、移民として生死を賭して移動せざるを得なくなった人たちだ。
他方で、いつでも、どこへでも、自由に移動し、住居を構え、生活を創ることが可能な人たちが存在する。例えば、今は移動不能の身になってしまったカルロス・ゴーン氏のように。この隔差を考えた時、移民はグローバル世界がつくり出した、不可避で解決することが出来ない現象のように見えてくる。
資本と権力を手にして、世界中を自由に飛びまわることができる人たちによって、近代国民国家の本来的機能が働かなくされてしまった結果、国民国家の礎ともいうべき、移動しない人たち、土地と自然と共に生きてきた人たちの生存が危機に直面している。その必然として、人は生き延びるために移動せざるを得なくなるのだ。
それは人類史が証明している。移民を阻止するために壁をつくると叫ぶトランプ大統領は、まったく無自覚だが、アメリカを前近代の城壁国家へとタイムスリップさせようとしているようだ。移民が入って来ないようにするためだけではなく、「アメリカ国民が逃げ出さないようにするために」―そういえば、トランプ大統領の先を既に走っているのがイスラエルという国家だ。壁は既に完成に近づいている。でも、国民の流出が止まらない。
欧州や米国に大量に流入する移民を、政治主体として位置づけ、彼らにグローバリズムから世界を解放する展望を求めることは、若干、飛躍がありすぎるように思う。しかし移民という現象は、間違いなく現代世界の今後を、近代国家という政治の枠組みの先を考えるうえで、極めて重要な、普遍的テーマであることは明らかだろう。