【バリアのない街】医療介護の世界での外国人受け入れの現実 遙矢当(はやと)@Hayato_barrier

介護保険制度 失政の尻拭いを外国人介護士に押し付ける日本

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 「ハヤトさん、7番にお客さまから外線が入っています」―その声は、日本人より流暢で正確な日本語を発音する。今、私の会社では、外国人介護士受け入れの準備としてベトナム人女性を受け入れている。

 彼女は、ベトナム在住時代に優秀だったため、日本の大学へ留学し、日本が気に入ったので、帰国せず日本で働くことにしたという。彼女は、昨今話題の外国人介護士受け入れの問題を私へ突きつけている。

 日本の外国人介護士受け入れは、日インドネシア経済連携協定(2012年)にさかのぼる。以前に行われたFTA(自由貿易協定)、EPA(経済連携協定)の頃からの議論を含めれば、10年は過ぎているが遅々として進まない。

 外国人介護士受け入れの問題点は以下の3つだ。
(1)旧入管法による専門職受け入れのハードルの高さ
(2)外国人介護士のスキル(特に日本語と介護技術)
(3)日本人の外国人に対する偏見だ。

 とは言うものの、発端は、外国人介護士の受け入れ問題ではなく、00年から始まった、介護保険制度の準備過程における無計画な介護人材の確保と育成に尽きる。介護保険制度は、介護事業者に事業の効率化を強く求めた結果、人ありきの事業であるにもかかわらず、社会保障の財政難という大義名分により「人材切り捨て」を余儀なくさせた。そして、派遣法改悪を進めた小泉構造改革も現在の遠因になっている。

 重労働で待遇が悪く、すぐ切り捨てられる。そんなイメージが定着してしまった介護業界に、日本人の介護士は戻らない。こうした失政の「尻拭い」を外国人介護士にさせようとしている、と言っていい。

「日本の価値観に合わせろ」と外国人に強要する時代錯誤

 外国人介護士の受け入れにあたり、介護事業者はアジア各国の介護士に対し次のような評価があるという。高飛車で生意気な態度だが、以下私が見聞したものを挙げてみる。

 まず、一番人気がないのがインド人だ。香辛料の強い食生活と衛生習慣の違いによって体臭がきつく、身体の接触が多い介護現場では、要介護者がその体臭に耐え兼ね、受け入れないという。人口規模で中国と1、2位を争う国と疎遠になるのは、文化交流はもちろん、経済交流の機会損失になっている。

 中国人は、国民性もある程度知られており、受け入れの検討をしやすいという。しかし中国自体が超高齢化社会になり介護スタッフを手放せなくなっているのと、雇用契約が信頼性を確保しにくいという理由で、こちらも人気が伸びない。

 インドネシア人は、日本人に気質が近くて人気があるが、大多数がイスラム教徒であることを懸念する向きも少なくない。イスラム教徒を受け入れる環境(特に礼拝のスケジュールと礼拝堂)の整備が煩雑でもあり、2000年代のテロ活動による偏見が根強い。現地の人材紹介会社には、日本の介護事業者から「イスラム教徒ではないインドネシア出身者がいないか?」という眉をひそめたくなるような話も出るという。

 ベトナムからの外国人介護士は増え続けている。ベトナム人介護士の獲得は、ドイツなどヨーロッパで高齢化が進む国々や、香港など外国人労働者の受け入れで実績を持つ国々と競争になっていて、日本は出遅れている。

 ここでも諸外国に比べて日本は人気がない。理由は特異なナショナリズムの蔓延と、排他的な移民政策、亡命者を受け入れないスタンスに他ならないという。

 介護業界が慢性的な人材不足で、外国人介護士にスポットが当てられ続けているが、違う問題が露呈し始めている。

 介護士は、介護士講習の中で「高齢者(利用者)の生活歴や価値基準を大切にする」という職業倫理と価値観を必ず教わる。介護士としての「人」の捉え方が繰り返し説かれるのだが、これは高齢者に限らず、人とのコミュニケーションにおいて欠かせないことだろう。

 にもかかわらず、介護事業者は外国人介護士に対すると、「価値観をこちら=日本人に合わせろ」というみっともない態度を示す。それはなぜか?

外国語・食生活を学ばない介護事業者の傲慢

 介護事業者が介護現場に外国人介護士を受け入れる際、まず懸念するのが、介護サービスの記録の作成だという。自治体が、介護記録の整備を強く求めるからだ。このため、介護事業者は「事業者が望む日本語のレベルで、サービスの記録を残すことができるか」に高い関心を持つ。

 それを見越した外国人介護士紹介を取り扱う人材会社は、日本語のレベル向上にこだわった育成を続ける。そして、介護事業者には「受け入れ準備の負担が軽い」とアピールする。それはまるで、日本人のフリができる外国人介護士を求めているようで、許せない。

 異文化を受け入れるのに、何の準備もしないで受け入れようとする。これは、東京五輪の開会準備にも通じる、日本のみっともない面がよく出ている。

 日本人は外国人を受け入れるうえで、語学を学ばず、異文化、特に食生活を受け入れない。私は仕事現場で、この2つについて各々訊ねてみた。

 介護現場の記録は、IT化(紙媒体から電子記録化)が進んでいる。介護記録用のソフト会社に、「ベトナム語やインドネシア語から日本語への翻訳は容易じゃないか?」と聞いてみた。会社は、「記録ソフトに翻訳機能を入れたりしたら、コストがかかりすぎて商品が売れません」とにべもない。無駄に国から補助金を受けているが、日本人が使うことしか考えていないのが、介護業界のIT化だ。

 食事については、介護、医療専門の食材会社に、「ハラール」(イスラム教による食事のルール)の対応について聞いた。外国人介護士も増えてきたが、外国人の要介護者も増えているからだ。

 食材会社の回答は冷淡だ。「ハラールに取り組むなら、食材コストの計算ができません。別注でハラールの食材を発注すれば、通常の2倍を超えます」と答え、「そんな話はしないでほしい」という態度だ。これでは、日本で暮らす外国人は、死んでも死にきれない生活を余儀なくされる。

 こんな態度で考える国民のいる国に、住みたいと思う外国人はいるだろうか? そんな無様な姿を差し置いて、外国人を受け入れ、介護業務で働いてほしいと懇願する。私はその神経が分からない。外国人介護士を考える以前に、介護を、人を考えない社会が続くことに危機感を覚える。

外国人介護士を受け入れながら人とともに暮らすことを目指す

 2019年は、映画「ブレードランナー」(フィリップ・K・ディック監督)が描いた世界と同じ時間軸になる。映画の舞台は、新宿歌舞伎町をモチーフにした街だった。そこは、多様な世代と国籍出身の人々、人造人間が猥雑に暮らす街であった。映画の中で印象的なのは、相手の文化やバックグラウンドを理解していなくとも、相手を受け入れる姿勢がある街として描かれていたことだ。

 だが現在の日本は、これと全く異なる国だ。現実の日本は、「人とともに暮らすこと」に関心を持とうとしない。それは、身近な「人」に関心を持たない姿だ。今年は、外国人介護士を受け入れながら、さまざまな「人」とともに暮らすことをめざしたい。介護が「介護」であることを失わないように守る戦いが始まる。

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