「住み慣れた地域で自分らしい生活を最期まで送れるように、地域内でサポートし合うシステム」―現在の高齢社会では、誰もが聞き心地が良いだろう。厚労省が掲げる「地域包括ケアシステム」を説明する際に出てくるフレーズだ。今や医療介護の現場では、誰もがこれを無批判で受け入れてしまっている。
静かに進行する「地域包括ケアシステム」の世界とはこんな世界だ。独り(独居)で暮らすことを望む高齢者に対し、行政関係者や、医療や介護関係者、果ては簡易な研修を受講しただけの地域住民によるボランティアが、無条件に高齢者や家族、親類縁者の家に踏み込む。それは、個人情報を吸い上げて、「孤立しないよう」に、一方的に関わろうとするシステムだ。
例えば、赤外線センサーやGPS(位置情報計測システム)を、高齢者本人が望むかは別にして、自宅内の家電製品(電気ポットなど)や、水道の蛇口、衣服や靴などに装備させ、本人の動きを24時間「見守り」=監視する。加えて、携帯電話に内蔵されているGPSも監視に利用されかねない。孤立や事故のリスクを回避するためとはいえ、「高齢者だから」という理由で、尊厳やプライバシーを蔑ろにする、強制的な介入を許してはいけない。
また、高齢者の社会参加は、あくまで個々人の自発的な活動に留めるべきだ。制度や法律によって、強制的に「参加」させるものではない。まず経済的な保障や支援の見直しが優先されるべきだ。
行政に視点を移すと、行政が具体的な計画や支援の内容を明らかにしない場合も多い。例えば、人民新聞の事務所がある大阪府茨木市のホームページの記載を読んでみよう。「単身高齢者地域見守り事業」について、具体的な記述はない。ページ内にリンクがあったが、外部機関のものであった。地域包括ケアシステムは、その名前だけが先行して、各地域での実態が伴わなくなっているのだ。
地域包括ケアシステムの起こりは、介護保険制度の導入だ。既存の介護事業の努力や、わずかながら生まれつつあった新しい介護サービスの息吹を摘み取りながら今日に至っている。安倍政権はこの状況を見て、地域包括ケアシステムを利用した。
今年の介護保険制度の改定では、「地域包括ケアシステムの強化のための介護保険法等の一部を改正する法律」(地域包括システム強化法)が成立した。正に「現代の隣組」を完成しつつあるといえる。
問われているのは、高齢者が社会から離脱する構造の打開
私は地域で緩やかな連帯が生まれること自体は否定しない。しかし「連帯に強制力はなく、個々人が参加しない自由が保障される」ことが必要だ。
特に金銭により地域住民の参加を誘引し、低賃金で不当な労働を生じさせようと目論むことが許せない。一方では、営利を優先する企業により社会から隔絶されてしまった人々の問題がある。社会参加を希望しても果たすことができないままの人々の問題や、高齢者の孤独死の問題もある。いま社会が問われているのは、社会から離脱しやすい今の構造の打開と改善であると私は考えている。
それは、(1)地域住民の自治が国家により半ば強制的に奪われている、(2)不安定な雇用問題が従来の惨状よりさらに拡大している、(3)自由に意見を述べることが制限されはじめていることだ。本論から逸れるが、沖縄の基地問題もこうした地域参加の問題と同根だと考えている。
本当に必要とされる医療や介護の答えは困難だ。しかし、それ以上に地域住民個々の自由を奪い強制的に引きずり出す社会がさらに進むならば、いまの私たちにはどのような抵抗ができるのだろうか。正に、自宅の玄関や窓を開けても「顔なじみ」の隣人の顔が見えない時代に、見えない圧力を受け続ける生活など、誰も望まないだろう。
もしかすると、戦時下の「隣組」とは違い、隣人の顔を覚えることが、無分別で排他的な監視社会の実現を阻止する一歩になるのかもしれない。