【バリアのない街】水分の強制摂取は介護ファシズムでは 遙矢当@Hayato_barrier

介護現場に空前の「水ブーム」

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 「水を飲めば、高齢者の認知症が進まないし、場合によっては治ることもあるのですか?」―最近、プライベートでこんな質問を受ける機会が増え、恐ろしくなってきている。民間伝承の類であれば、サラリと説明して改めていただくところだが、これが介護現場の第一人者からの質問だとするなら話は別だ。水だけで万病の治療が進むなどという話はさすがにあり得ない。言わば「介護のファシズム」とも言えよう。

 2017年頃より、介護現場には空前の「水」ブームが起きている。テレビで俳優の布施博氏の実母や女優の梅宮アンナ氏が「水分の強制摂取」により認知症が改善されたと伝えられたことが影響しているようだ。

 このブームの火付け役というべき存在は、竹内孝仁氏(国際医療福祉大学教授)だろう。竹内氏には全国的に介護現場の職員のファンがおり、「竹内式」とも呼ばれる氏の介護メソッドを取り入れはじめている介護現場は、ここ1~2年増え続けている。

 元来、高齢者の水分摂取量は健康管理の一環で、1日に必要な水分量を把握し、必要に応じ高齢者に水分の摂取を促す。これは、家庭であれ介護現場であれ、介護の基本である。本紙の読者諸氏もご存じのとおり、人間の身体の相当量は水分が占める。このため水分の不足は、死を意味する。

 ただし、高齢者に必要な水分量は、内臓の疾患などに応じて個別に決められるべきで、医師の判断が必要になっていることも、忘れてはならない。水分をとり過ぎると、心不全、肺水腫、高血圧などをおこしかねないからだ。

 ところが、どこで何を違えてきているのか、一定量の「水」を半ば強制的に摂取すれば、あたかも高齢者の健康管理にとって万能であるかのような言説がまかり通り始めている。前述の竹内氏の影響だと言って良い。特に、特別養護老人ホームを運営する社会福祉法人が多く所属する全国老人福祉施設協議会では、2017年以降、講習会を開催して「水分の強制摂取」を啓発しているという。

 私はそもそも、独立した自意識と自我のある成人に対し、しかるべき水分量が摂取できていないからといって、強制的に水分摂取を行わせるという介護について、一体どのような意味があるのかと思う。仮に水分の自己摂取量を本人が決めるとしても、医師も含め誰にも止めることはできない。本人の主体的な判断に委ねるしかないからだ。

 それは、憲法13条(公共の福祉/幸福追求権)に則って尊重されるべきとも言えよう。憲法上では、喫煙や飲酒と同様の対処に過ぎないのだ。

介護における医療のあり方が問われる

 介護の世界で言う「医学的見地」という言葉は、往々にして妥当性に欠く場合が多い。「水分の強制摂取」の一件にしても、実際の検証不足である感は否めない。それは介護という行為の性格上、医療者の経験則や暗黙知によるものがほとんどで、むしろ介護における医療のあり方の再検討が急がれている。さらに、この状況を黙過する厚生労働省には、正しい高齢者介護の啓発という意味で、厚生行政の怠慢があるとも言って良い。

 「日本の介護は世界に誇るべきホスピタリティのあるサービスである」として、日本の介護メソッドを海外に広めようとする介護関係者が増えている。日本国内で介護保険制度の持続可能性が隘路に入り、介護職員の不足を外国人介護士の労力に頼ろうとしているひっ迫した状況であるにもかかわらずだ。

 そんな中、多角的な検証をされていない介護メソッドが、医療インフラがまだ確立されていない国々にまで伝播される可能性がある現状が、私には空恐ろしい。日本人にとって水分の摂取は当たり前で気軽にできるものだが、医療はおろか上下水のインフラが整わない地域にも向かって広まる話であるなら、もっと真摯に向き合うべきであろう。

 介護を通じて得る苦痛を少しでも軽減したいという多くの人々の気持ちは私にも分かる。竹内氏も、そうした苦痛を少しでも軽減させたいと願うからこそ、メソッドの開発を試みたのであろう。しかし「~さえすれば」という短絡的な発想は、介護に限らず対人関係の構築において安易な発想であろう。根拠の有無以前に問われて良い。

 「水分の強制摂取」という介護のファシズムは、猛暑で終わろうとしている2018年に発症した社会の熱中症によるファンタジーであってほしいと願う。

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