「生きづらさから考える当事者研究会(づら研)」 社会学者 貴戸理恵さんに聞く・上

過酷な社会が不登校・非正規を生む

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 「生きづらさ」という言葉が、すっかり定着した日本社会だが、それは、様々な形態・要素・要因が重層的に絡み合う包括的で曖昧な言葉でもある。人民新聞では、10数年前から当事者インタビューなどを重ねてきたが、「生きづらさ」は、日本で世界でますます広がり、深まっている。しかも新自由主義のもとで「生きづらさ」は、社会批判としてではなく、自己責任に帰されてしまう傾向が強まり、解決から遠ざかりこじれていっているようにも見える。ご自身も不登校を経験した当事者として、同時に研究者として「生きづらさ」に向き合ってきた貴戸理恵さんに「生きづらさ」をめぐる当事者運動と社会の受け止めかたの変化を概括して頂いた。同氏は「共感の力こそが、生きづらさから抜けだし、自由を獲得する要素」と語る。   

(2回連載。文責・編集部)

病んだ学歴社会が生み出した不登校

 不登校運動の始まりは、「登校拒否を考える会」やフリースクール「東京シューレ」がスタートした1980年代半ばだと考えられます。
 当時は、「日本型移行システム」が比較的スムーズに機能していました。高い学力水準を広い範囲で子どもに要求していく学校と、長期雇用を前提に労働者にオン・ザ・ジョブトレーニングをほどこし家族給を支給する企業が、新卒一斉採用によって結びつく、というものですね。
 そこでは、きちんと学校に通っていれば安定した就職先を得られる見込みが高かった一方、学校に行かないと即、「社会から漏れ落ちた」と見なされることになります。中学の長期欠席の割合は、80年代は1%前後(現在は3~4%)と極めて低い状態でした。
 不登校は全く認められておらず、当時の文部省は、不登校は「子どもの性格や親の育て方の問題」だとしていました。入院・投薬治療まで行われていたんです。「何としても学校に戻す」という圧力が強い時代でした。そして戻った先の学校はといえば、校則が厳しく管理的で、体罰やイジメなどの社会問題を抱えていました。不登校運動は、これに対し「不登校は病気ではない、子どもの人生の選択だ」と主張しました。その主張は、学校外の居場所づくりという実践とセットで進んでいきました。フリースクールのようなオルタナティブな場所で、他の子どもたちと出会い、学び、共に育ちあうことが目ざされました。

病んでいるのは学校と社会

 当時の不登校運動が画期的だったのは、当事者や親の利益に沿って行動するだけではなく、社会批判と結びついていたことです。管理教育や過労死するまで働かねばならない企業社会。そういう社会の側の問題が不登校という形で表れているのであって、個人の不適応の問題ではない、としたのです。
 しかし、90年代の半ば以降、「きちんと学校に行っていればきちんとした職に就ける」という移行システムが揺らいでいきます。学校に行っても正規就労できないかもしれないし、働きづめになって過労死するかもしれない。また、新自由主義的な教育改革の流れのなかで、不登校生徒への対応も多様化・自由化していきます。すると、「不登校を選んでも良いですよ。でもその結果、非正規就労になっても、それはあなたの責任ですよ」と、不登校は社会の問題ではなく個人の問題とされる度合いが大きくなります。
 こうしたなか文部科学省は、2003年に「不登校は進路の問題」と定義します。不登校そのものは問題ではないけれども、個人の進路形成上のリスクだ、とされていきます。統計で見ると、中学のときに不登校を経験した人は、高校進学率が低く、20歳の時点で就学・就職していない割合が高まることがわかっています。
 それはそうかもしれませんが、「だから不登校はしない方が良い」という言い方では、不登校の子どもの生は否定されるばかりです。しかも新たな文脈では、「社会が悪い」と言いにくく、「自分の選択が間違っていた」と思わされるので、連帯の基盤が失われます。
 常野雄次郎さんは、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』という本のなかで、不登校運動の「選択」という言い方に警鐘を鳴らしています。「不登校を選択と見なすことで、差別的な社会構造が見えなくなっている」というのです。
 つまり、(1)学校に行った人は特権を持っている。(2)その特権は、低学歴や不登校を搾取することによって成り立っている。(3)こうした不平等や差別の構造を問わねばならない。これは、不登校問題に限定されない射程を持っていると思います。
(次号につづく)

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