ナクバから70年目の5月に──パレスチナ難民の「帰還の権利」実現を 重信房子

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 1、2018年 米・イスラエル政府の思惑

 今、1948年5月14日イスラエル建国から70年目、パレスチナのナクバ・「大破局」の日と定めた5月15日から70年目の5月を迎えています。また1972年リッダ闘争から46年目の5月でもあります。

パレスチナは今、ネタニヤフ政権と米トランプ政権によるかつてない弾圧──政治的、軍事的、経済的弾圧──に直面しています。米国は、トランプ政権になって、シオニスト右派政策がそのまま衣装を変えて「米政権政策」として登場してきました。その基本は「現状のイスラエル占領の合法化」であり、東エルサレムも西岸入植地もイスラエルの望む通りにイスラエルへと併合し、それを合法化するための「和平案」をパレスチナ側に押し付けることにあります。

 すでにリークされてきた何度かの情報と、これまでの「オスロ合意」以来のイスラエルの「最終的地位交渉」の絵図ではイスラエル側は第一に東エルサレムと西岸の重要入植地、水源、戦略的要所は併合する。第二にパレスチナ難民の「帰還の権利」は認めない。第三にイスラエルの安全保障上必要とあらば、いつでもパレスチナ側に対する陸・海・空の支配を行うというものです。

この実現に向けて米・イスラエルは中東におけるイスラエルの安全保障上の「最大の危険要因」と主張して、イランに対する包囲制圧戦略を企てています。イランがシオニスト国家を違法として認めないからです。シーア派イラン政権は、79年イラン革命以来「シオニスト国家」を許さず、パレスチナ解放を訴えまた支援を続けており、イスラエルにとって脅威です。イランはまたレバノン人民勢力やシーア派勢力の後ろ盾であり、パレスチナのスンニー派、イスラーム勢力のハマースやPLOの反アッバース勢力の支援国でもあるからです。形式上は今もエジプト、ヨルダンを除いてアラブ諸国はイスラエルと外交関係は存在せず、イスラエル国家を認めないとしつつ、「イラン脅威」を主張するサウジや湾岸諸国、王政国家群は米の仲介のもとでイスラエルとの非公式な共同を築いてきました。

トランプ時代に入って、「イラン合意」を作り上げたオバマ時代を否定し、米・イスラエルの反イラン中東戦略は劇的に復活を遂げています。イスラエルのパレスチナ占領併合戦略と対イラン戦略は、中東におけるイスラエルの合法化(大半の占領地併合のまま、アラブ諸国との関係正常化を実現すること)と一つの戦略をなしています。パレスチナの土地と人民を犠牲に、イスラエルの現状を国際社会、中東世界に認めさせようとする戦略です。2018年トランプ政権は更にシオニスト戦略と一体に動いています。

 2017年12月4日のトランプ大統領の「エルサレムはイスラエルの首都」宣言はそれを顕著に示しました。この宣言に対しヒズブッラーのリーダー、ハサン・ナスラッラー師は「第2のバルフォア宣言だ」と非難し、ネタニヤフ首相は「かつてのバルフォア宣言のよう」と称賛しています。

12月21日193ヵ国の出席した国連総会は、米国に対し「エルサレム首都宣言」の撤回を求める決議を賛成128、反対9で採択しました。米国政府は採択前に米政策に反対する国には援助停止を示唆する露骨な新しいやり方を表明しました。その後実際パレスチナに対して国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の拠出金の凍結に踏み出しました。一方ヨルダンに対しては「囲い込み」を決め援助を増額し、2022年までの5年間に年間12億7500万ドル(約1360億円)の経済・軍事援助を行うことを2月15日に表明しました。ヨルダンは「エルサレム首都問題」に反対を表明しても、イスラエルと国交を維持し友好的である限りの「報奨金」であり、ヨルダン側がイスラエルにとって不穏な動きをすればいつでも凍結するつもりです。

 2018年3月13日には、米ホワイトハウス主催で、「ガザの経済苦境を改善する会合」を開いています。「エルサレム問題」に抗議し、パレスチナ側は参加を拒否したにもかかわらず、トランプの娘婿のクシュナーや中東特使のグリーン・ブラッドらは強行し、イスラエルとサウジアラビア、バーレン、UAE、カタール、エジプト、ヨルダンを参加させ、ロシア、EU、英国、日本など19か国代表によって、電力、水、下水、保健に関するプロジェクトを話し合いました。トランプ政権とイスラエルは、パレスチナ側当事者ぬきに反対しようとも、パレスチナ問題を進めるという考えを明確にしました。

 金満国家サウジアラビアもまた反イラン戦略でパレスチナやレバノンなどに様々な支援の凍結をちらつかせて、米・イスラエルと共同しているのが現実です。レバノンのハリリ首相が2017年11月3日イランの最高指導者ハメナイ師の最高顧問アリアクバル・ベラヤティ率いる代表団とベイルートで会談し友好を示したことに、サウジのムハンマド皇太子は怒り、即刻ハリリ首相(サウジ国籍を持ち、サウジにビジネス利権を持つ)をリヤドに呼びつけ首相辞任を求めたようです。11月4日、ハリリは首相辞任を表明せざるをえませんでした。ハリリは「レバノンで自分の身に危険があったのでリヤドへ避難したのだ」と辞任を表明しました。レバノンからサウジの金融資本を引き揚げるというサウジ側の脅しもあります。後にこのハリリの慌てた対応はサウジの茶番として知られ、ハリリも辞任を撤回しました。しかし、またイスラエルによる反イラン・反ヒズボッラーのレバノンへの戦争挑発の危険も深まっています。2018年反イランの乱暴な米・イスラエル・サウジの動きが中東危機を煽っています。

 

2、パレスチナの現実

 トランプの「エルサレム首都宣言」にパレスチナの人々は民族的怒りを新たにしつつ、その不正義・不条理にも拘わらず、対抗しきれていないもどかしさの中で闘い続けています。PFLPは「トランプの決定はパレスチナ人民とその権利に対する宣戦布告であり、パレスチナ人の権利とその土地に対するシオニストの犯罪の共犯である」と非難し、この現実に基づいた闘いの必要性を訴え「二国解決」や「和平プロセス」と名付けられた幻想に対し「パレスチナ指導部が『オスロ合意』とそれに付随する全ての義務から撤収し、シオニストの存在の承認撤回を表明することを求める。」と声明を発しています。

2018年1月15日パレスチナ中央評議会(PCC)(国会にあたるパレスチナ国民会議PNCに準じた次のPNCまでの決定機関)は、PCCとして米国が仲介する和平交渉は拒否すると決定しました。そしてトランプの「エルサレム首都宣言」への対抗措置として「1967年の境界に基づくパレスチナ国家をイスラエルが承認しない限り、イスラエルの承認は取り消す」と決めました。そして2月3日PLOは国連安保理に1967年を境界とするパレスチナ国家の承認申請を行うことや、パレスチナ自治政府(PA)に対しイスラエルとの治安協力、経済・政治協力を解消する方策を立案するよう求める決定を行っています。

 とは言っても、この決定をアッパース大統領らPAが実行するかは疑問です。

1993年の「オスロ合意」はすべてに亘ってイスラエルとの共同協議が謳われていますが、実際には力の弱いPA、PLO側が何をやるにもパレスチナ人自身の自治区への入国すらもイスラエルの許可を受けてしか行いえないものなのです。また「オスロ合意」に基づいて1994年パリで「パレスチナ支援国会議」が開かれ「パリ・プロトコール」を決定して来ました。この決定による財政支援でPAの行政がまかなわれてきたし、イスラエルはこの仕組みの一つであるパレスチナ人の関税や税金の代理徴収を利用し、気に入らなければPAに支払うべきパレスチナ人の税金をPAに渡さずストップして締めつけの武器としてきました。PAはPCC決議を実行しようにも身動きが取れないのです。イスラエル経済に組み込まれたパレスチナ経済やPAの行政執行の財政的裏付けも支援国会議の拠出金に頼っていて、それを変革できずに来たからです。PAを牛耳るファタハは既得権を失いたくないのです。

 さらにトランプは米大使館のエルサレム移転を5月のイスラエル建国70周年のプレゼントとして行うことを表明し、米国連ペイリー大使は「パレスチナのリーダー達が不愉快なのは知っているが決定は変わらない」と反対するパレスチナには財政的締め付けを更に主張しています。その上トランプは3月6日、5月14日の米大使館移転式典参加を表明してネタニヤフとの会談に入りました。こうした中でアッバース大統領は米国の拠出金凍結によって危機にあるUNRWAへの拠出金の増額を国際社会に求め、国連を中心とする和平交渉の仕切り直しで「二国解決」を目指すとしています。これまでの繰り返しにすぎません。

 イスラエルは「譲歩なき和平交渉」のみ応じる立場にあります。米国もイスラエルに同調している以上「パレスチナ国家」が国家として成立するはずがありえません。たとえ政治的形として成立しても、イスラエルがパレスチナ人を忌避するために放棄したい今のPAの統治地域(西岸地区の20%にあたる)とPAが行政のみ担当している20%などを集めて「パレスチナ国家」と呼ばせようとするものです。これは西岸地区に点在する陸の孤島の集まりであり「バンツースタン国家」です。しかもバンツースタン国家よりたちが悪いのは、境界はいつでもイスラエルの意のままに閉じたままに出来、労働力として必要な時に開けるというにすぎないのです。こうした現実の中で日本のニュースに大きく出ることはありませんが、ガザ地区ばかりか西岸地区では毎日のようにパレスチナ人の抗議や、闘いを恐れたイスラエルによる予防拘束という名の逮捕拘留が繰り返されているのが現実です。アッバースらPAのようにこれまでの延長上に国際社会に支援を乞う方法は幻想と敗北を再び準備する道です。戦略の再検証こそ行うべきでしょう。

 今ナクバから70年、イスラエル建国以前の1947年11月29日のパレスチナ分割案が可決され、二つの国をパレスチナに作る決定が下されながら、なぜイスラエルだけ建国したのか、なぜパレスチナ国が葬られたのかを振り返りつつ、何よりもナクバからずっと70年間難民生活を強いられて生き続けている国連登録数だけでも587万人を超える「パレスチナ難民問題」の解決こそ焦点が当てられる必要があります。国連決議194の「パレスチナ人の帰還の権利」を含むパレスチナ人の難民問題はイスラエルの拒否とタブーのテーマでありながら新しい局面を開くチャンスでありPLO、PA、ハマース、ファタハ、自治区に限らない在アラブ各国のパレスチナ難民を含めて、パレスチナの未来を問う機会とする必要があるはずです。これ以上の難民問題の「現状維持」は許されないし「難民の世紀」と化した21世紀の難民問題の中にパレスチナの難民問題を解消させてはならないはずです。

この難民問題を、歴史的に振り返ってみる必要があります。

 

3、パレスチナ難民の発生

 パレスチナ人民の不幸・不条理はシオニストがパレスチナの地を自分たちのもの「ユダヤ民族国家」にしようと入植を始めた時からはじまりました。シオニストはパレスチナ人を「野蛮」として認めず、もっぱらパレスチナの土地の取得はトルコのスルタンや英・独など帝国政府権力との協力によって進めます。「英バルフォア宣言」のお墨付きを得て、英の中東における植民地支配の先兵として、「野蛮に対する文明の前哨基地」としてパレスチナ侵略で成長していきます。「サイクス・ピコ協定」を経た「サンレモ会議」によって英・仏のアラブ植民地支配が決定されると、英・シオニスト共同によるパレスチナ支配「ユダヤ国家」づくりが始まります。パレスチナ人を追放する計画は「ユダヤ国家」を描いた時から始まっています。なぜならどう頑張ってもユダヤ人口はパレスチナ人口に及ばないからです。「ユダヤ国家化」のためにはパレスチナ人口を減らすという作戦がすでに1930年代から立案されていきます。

 ナチのユダヤ人虐殺はシオニストに有利に作用し、シオニストはナチと取引しながら労働力となる、または有為なユダヤ人のパレスチナへの移民を促進しましたが、多くは米国へと移民していきます。ユダヤ人虐殺は欧州の問題でありながら植民地パレスチナにシオニストの望みを叶えることで、ユダヤ人問題を解決しようとした米英の思惑によって、第二次大戦後現実化していきました。

 米トルーマン政権の強いシオニスト支援によって1947年11月29日国連決議181(パレスチナ分割決議)が採択されます。これまでパレスチナ・アラブ人の土地占有率は93%、ユダヤ人側の土地占有率は7%に過ぎませんでした。ところが、国連決議181によるとパレスチナ国家には42%のパレスチナ領土に減り、81万8000人のパレスチナ人と1万人のユダヤ人が住むことになります。そして56%の肥沃な土地はユダヤ国家になり49万9000人のユダヤ人が43万8000人のパレスチナ人と共に住むことになるのです。また、国際管理となるエルサレムには20万人のうち半数以上のパレスチナ人が住むことになる予定でした。あまりにパレスチナ・アラブ側に不公平だったためにパレスチナ・アラブ側は分割決議の受け入れを拒否しました。イスラエル側は、ベングリオンの指揮のもと国際社会には決議181の受け入れを表明しつつ、その裏で実は着々とパレスチナ追放作戦の民族浄化計画を1947年12月から実行し始めます。(注:「ナクバ」についてパレスチナでも時として「民族浄化」という言葉も使われましたが、1947年の国連決議181を利用したイスラエルによるパレスチナ人追放・虐殺に対して、イスラエル側の歴史資料に基づいて「民族浄化」と概念化して論証したのはイスラエル人のイラン・パペです。)パぺによると、すでに「民族浄化」を狙って1930年代から調査・計画してきたので、パレスチナの町村の詳細を把握しており、戦争浄化を一方的に進めます。普通の農民主体の牧歌的なパレスチナ人はまさか自分の領土を乗っ取られるとは考えていず、これまでも戦争で支配者が変わってもまたいつか落ち着くと構えていた訳です。それが故郷から追放されるのです。

 このベングリオンの計画を決定的に勝利させたのは、ヨルダン・アブダッラー王との密約です。ベングリオンは「二つの国」ではなく「ユダヤ国家」の創設のみを望み、アブダッラー王もエルサレムからヨルダン川西岸地域は自分の領土とするために「国連181決議」をなくし、お互いにパレスチナ領土を分け合うことに秘密合意します。こうしたアブダッラー王をまきこんだベングリオン戦略は奏功し、パレスチナ人は11月29日の決議以降12月から民族浄化で何十万人も追放されます。その上イスラエル建国宣言翌日にアラブ軍が参戦した第一次中東戦争ではアブダッラー王がアラブ軍の総司令官に就いたのです。まやかしの戦争となりパレスチナ西岸と東エルサレムをヨルダン軍が確保すると、ヨルダンへと併合してしまったのです(1950年)。

また第一次中東戦争でイスラエル側が圧倒的な兵站力を持ちえたのは、イスラエル共産党の活躍にあります。反ファッショ統一戦線からシオニストとも共同していたソ連は、反英反アラブ王制で、イスラエル建国を後押ししたばかりか、イスラエル共産党と共にソ連の武器をチェコ経由で売り、シオニストを助けました。このように米欧・ソ連までもシオニストのユダヤ国家建設を支援しました。一方、イスラエルとヨルダンは、英国の仲介のもとで、イスラエルとパレスチナ領土を割譲しあうことで「パレスチナ問題」を終わらせようとすることが秘密合意されていたのです。

この「民族浄化」と占領をもたらした第一次中東戦争によって国連発表で72万6000人、パレスチナ側の発表で84万9000人のパレスチナ難民が発生しました。

 

4.国連決議194

国連は、第一次中東戦争を休戦に持ち込み、パレスチナ問題を解決するために、1948年12月11日、国連総会決議194を採択しました。この決議の中で、パレスチナ難民について次のように謳っています。「故郷に帰って隣人と平和に暮らしたいと望む難民たちが、早く実現可能な時期にそうできるように、また難民たちが戻らないことを選ぶ場合には、その財産を補償すべきである」と。

決議194は、また、エルサレムの非軍事化と国際化を求め、3か国(仏・トルコ・米)構成の国連パレスチナ調停委員会(PCC)を設置することを決めました。この国連決議194を採決する前日、国連総会は「世界人権宣言」を採択しています。「何人も各国境界内において自由に移動及び居住する権利を有する」と、そこにも宣言されています。決議194は、まさに「世界人権宣言」の精神を受け継いで採択されています。PCCの下で戦争当事国が領土の確定、難民の問題、エルサレム問題の解決を目指すことになりました。

この決議194の構想は、スエーデンのフォルケ・ベルナドッテ伯爵によって作られていたものです。彼は国際赤十字で、ユダヤ人に対するナチの迫害・虐殺と闘い、国連のパレスチナ問題の調停官として、第一次中東戦争休戦中の1948年9月に「二国家案」を策定しました。これは、パレスチナ分割決議181よりも、1937年の、英ピール委員会によって初めて分割案が作られた時のように、人口数を勘案して、アラブ領土を大きくしたものです。

この二国家案は、アラブ側にとって受け入れやすいものでした。しかし、シオニストのリーダーで、初代首相となるベングリオンや、のちの首相となる、当時のテロ組織のリーダー、メナハム・ベギンやイツハク・シャミールは、ベルナドッテ伯の調停に危機感を持ち、ベルナドッテ案の抹殺を企みます。第二次休戦中に、ユダヤ人テロリスト組織、シュテルンによって、ベルナドッテ伯は1948年9月17日にエルサレムで暗殺されてしまったのです。

しかし、国連は彼の意志と構想を生かして、死後の12月に決議194を採択しました。これに対してイスラエルは、全力を挙げて決議194の破壊に動きます。決議194に基づくローザンヌ会議では、アラブ諸国は難民の帰還が会議の第一歩だと、譲りませんでした。イスラエルは、「アラブ住民側が勝手に出て行ったので、イスラエル側に責任はない」として、帰還を認めず、イスラエル側の強硬な主張で、パレスチナ人の帰還は実現しませんでした。

結局、ベングリオンとアブダッラー王のために、難民問題、エルサレム問題、決議181のパレスチナ国にも言及することがならないままPCCは、52年に「決議194の履行は、当事者たちの態度が本質的に変化するかどうかにかかっている」という報告後、役割は解消されてしまい、国連に戻されました。その結果、「パレスチナ難民の帰還の権利」については、1948年12月の決議以来、事実上、毎年国連総会で再確認されて現在に至っています。つまり、ベルナドッテ伯の遺産である決議194は生き続けているのです。

当時、米国は決議194の採択に賛成し、1949年5月まで米国務省は「難民の帰還が和平の前提条件」という強い声明をイスラエルに送ったりしたそうです。(イラン・パペ著「パレスチナ民族浄化」314p)イスラエルは、もともとパレスチナ人追放が計画だったので、あれこれの理由をつけて拒否しますが、米国はイスラエルに制裁をほのめかし、約束した借款も取り下げたのです。そこでイスラエルは、7万5千人の難民を引き受ける他、2万5千人の家族呼び寄せも許す、と提案します。それでも米側は、それを不足として、住民9万人と難民20万人のいるガザ地区を、まとめて引き受けるよう求めます。ところが交渉中、何故か国務省の人事異動によって、米のパレスチナ政策は方針転換して、難民問題は隅に追いやられたと、イラン・パペが語っています。ここにもシオニストの工作が窺われます。

しかし、国際社会の決定的犯罪行為は、ことに米国・英国・ソ連ですが、決議194の決着なしに、49年5月11日イスラエルの国連への加盟を認めてしまったことです。イスラエルの国連加盟に際し、その前提条件として、48年12月の決議194の実行を求め、それと引き換えるべきだったのです。国連決議を実行しない以上、国連への加盟を許すべきではありませんでした。世界的なホロコーストへの同情とシオニストの宣伝によって、イスラエルはパレスチナ人を犠牲にして、パレスチナ人を追放したまま、すべての土地、個人のものも、イスラームの聖地やワクフ制度に属していた土地建物財産も、すべて強奪してしまいました。

 

5.非政治案件化された難民問題-UNRWA

パレスチナ人は国を奪われ、「帰還の権利」を持ちながら、イスラエルによって帰国が拒まれ、結局UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に命を委ねざるを得なくなっていったのです。

PCCの進展がないまま、パレスチナ難民の支援のため、UNRWAが創設されます。アラブ側はこのUNRWAの措置が「帰還の権利」をなし崩しにさせ、難民の永続化につながることを警戒しました。また、イスラエルは「帰還の権利」を求める国際難民機関(IRO)の関与を妨害しました。IROはまず「帰還権」を政治的に明確に推奨する機関だからです。その結果、政治的権威のない、パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が1949年12月、国連総会決議302として成立しました。UNRWAの任務は、難民の滞在国の難民を統合しながら、生存の日常的な要求に対応する人道的な機関として、1950年から活動を開始しました。難民の「帰還の権利は」パレスチナ・アラブ諸国から求められながら、イスラエルに加担する米によって置き去りにされていきました。ことに米・英の戦後の反共・反ソ戦略が露わになりはじめると、イスラエルとソ連の対立は深まり、その分イスラエルは、米・英の戦略的同盟国のように保護されていきます。一方、アラブ諸国は、反英植民地解放闘争が激化し、シオニズムに対しては、その先兵として対立を深めます。ことに、第一次中東戦争の親英王制国家群の敗北と腐敗に民衆は怒り、アラブ民族主義運動は、ガマル・アブドル・ナセルのクーデターによって、新しい段階を向かえていきます。

 一方、米・イスラエルは、決議194を無視し、新しい解決法として「難民の滞在国への同化」を求めるようになります。シオニスト戦略を、米が後押しし始めたのです。シオニストと組んで米国は、難民の状況を調査することを決定し、52年、使節団を送り、調査の上、報告書を作成しています。この調査報告では、「パレスチナ難民をかかえているアラブ諸国が難民の責任を負うべきだ」と述べ、UNRWAに充てられている拠出金は、パレスチナ難民をその国に同化させるために使用させるべきだ、と結論付けたのです。米国務長官ダレスは53年、その報告を奨励し、「ほとんどのパレスチナ難民は隣接諸国に容易に収容できる。定住は、年長者が死亡していき、若者は忘れていくという論理からも遂行可能である」と声明で述べています。以来、「同化政策」という、アラブの犠牲の上にパレスチナ問題を葬ろうとする、イスラエル・米の企ては、機会を見つけては登場していくのです。イスラエルが責任を負って、故郷に帰るべき難民を受け入れる義務、国連決議194がないがしろにされようとしていました。「人道的見地」という口実で、劣悪な難民の生活を改善し、滞在国の国籍を与えることによって、「パレスチナ問題」を各国国籍の中に解消させてしまおうとする動きが繰り返されます。

その為、パレスチナを併合してヨルダン国籍を与えたヨルダン王政を除くアラブ諸国は、パレスチナの解放と祖国への帰還を支持して、パレスチナ人に自国の国籍を与えませんでした。ナセルの民族主義が盛んな1965年には、アラブ連盟は、「カサブランカ協定」を採択しています。「アラブ諸国はパレスチナへの難民の『帰還の権利』という難民の地位を維持するために、市民権を認めないよう」求め、同時に「難民ホスト国の国民と同じ権利を与えるよう」求めたのです。しかし実際にはレバノンなどではこの決定を悪用し、パレスチナ難民に対して、レバノン国民と同等の権利は認められず、厳しい制約に晒されて、UNRWAがパレスチナ難民の命綱となって、今日に至っています。ちなみに、587万人超のパレスチナ難民に対する2016年のUNRWAへの拠出金は、12億4千万ドルで、そのうち3割に当たる3億6千万ドル超を米国が拠出してきました。この米の拠出は「帰還の権利」を押し止めるイスラエル支援の意味でもあったのです。1月17日、トランプ政権は、この拠出額の半分を凍結すると表明し、パレスチナへの経済弾圧を示してきました。

 

6.PLOの登場と77年キャンプデービッド合意

「帰還の権利」が奪われたまま、難民キャンプの人口は何倍にも増大し、エジプトで、ナセル大統領の支援とイニシアティブで、パレスチナ解放に向けた政治的闘いの場として、1964年、パレスチナ人を代表する機関として「パレスチナ解放機構」(PLO)が設立されました。この時の最も重要な点は、非同盟諸国運動の力強い支援の下に、パレスチナの「帰還の権利」を求め、パレスチナを解放することにありました。しかし、アラブ諸国の力をもってすれば、パレスチナ解放は成功すると考えていたパレスチナ難民は、67年第三次中東戦争で、イスラエルの先制攻撃によるあっけないアラブ諸国の敗北に衝撃をうけます。そして、自らの力でパレスチナを解放する道へと踏み出したのです。これまで、アラブ諸国の軍事力と政治力にパレスチナ解放を託してきたパレスチナ難民自身が、立ち上がりました。そして、これまでのアラブ連盟の付属機関のような位置にあったPLOを、68年、真に武装闘争を主要闘争形態として、パレスチナを解放する機関へと変革しました。パレスチナ解放を求めてパレスチナ難民が立ち上がり、フェダイーン(犠牲を厭わない者たちの意・戦士のこと)として、占領されたパレスチナで、また、占領されたパレスチナの北部・東部・南部国境からの闘いを開始しました。

ところが国際社会は、67年戦争を「国家間戦争」として処理する安保理決議242を採択しました。決議242とは、ヨルダンに併合されていたヨルダン川西岸地区や、シリア・ゴラン高原・エジプト・シナイ半島について、「占領地」としてイスラエルが返還することを求め、同時にアラブ諸国に、イスラエルを国家として認めるよう求める内容で、パレスチナ人をただ「難民」としてのみ扱い、何の権利も謳われませんでした。この決議242に反対し、パレスチナ独立国家建設を目指し、反シオニズム・パレスチナ解放闘争を活発化していくのは、第三次中東戦争以降から70年代です。PLOの政治的主張の基本は、パレスチナ人の「帰還の権利」であり、パレスチナ占領地の解放であり、民主パレスチナ国家の建設です。

74年の第四次中東戦争を経て、米の仲介の下、決議242を基本原則として、「中東和平」が目指されます。米欧国際社会は、アラブ・イスラエルの戦争状態を終わらせ、中東にイスラエルの「生存の権利」を作り出し、安定させることを狙いました。

エジプト・サダト大統領は、1977年、国内の経済的困難を抜け出すために、米の巨額の援助と引き換えに、アラブ諸国で初めてイスラエルとの単独和平交渉へと舵を切りました。これが、78年「キャンプデービッド合意」として、米の仲介で、エジプト・イスラエルが合意した内容です。この「キャンプデービッド合意」が、パレスチナ人に対する、以降のイスラエルの扱いの原型となっています。

イスラエルの政策の基本は、領土の返還なしにパレスチナ人を支配する「自治」の誘いです。リクード党のベギン首相は、大イスラエル主義で、占領した西岸地区も東エルサレムも、勿論返却する考えはありませんでした。それでは交渉は進みません。それに知恵をつけたのが、ダヤン国防相で、領土の手権はイスラエルのものとすることを前提とし、パレスチナ人の自治を認める内容を提案し、それをベギンが取り入れたのです。ベギンの主張は明快で、第一に領土は返さない、第二にパレスチナ人の帰還は認めない、第三にエルサレムはイスラエルの首都で返さない、第四にパレスチナ国家建設は認めない、第五にPLOを認めない、という内容です。この「キャンプデービッド合意」では、「暫定自治を経て、将来のパレスチナを決定する」という方向では、のちの「オスロ合意」と同じですが、この時には、PLOを排除し、ヨルダンとイスラエルの管理する「パレスチナ自治」が描かれていました。

 

7.「オスロ合意」の罠

ソ連東欧崩壊から、第一次湾岸戦争を経て1991年「マドリッド和平国際会議」が開催され、そこでもPLO排除の中で交渉が始まりました。この会議は、PLO排除を主張するイスラエルに応じてPLOを排し占領下のパレスチナ人代表を、ヨルダンの代表団の一部として参加させることから始まりました。また、この会議に「多国間交渉」の場を設けて、「難民問題の解決」もアジェンダとしました。ヨルダン代表団の一部とされたパレスチナ代表団は、機会あるごとに「自分たちはPLOと不可分であり、PLOの指導下で闘っている」と公言し、まずイスラエルの入植活動の停止を求めました。そして「自治」におしとどめようとするイスラエルに対して、パレスチナ国家建設を展望し「帰還の権利」を訴え続けました。勇気あるこのリーダーたちは、ハイダル・アブドルシャフィ、ハナン・アシュラウィらです。

このリーダーたちの原則的闘いの裏で、彼らに内緒で、イスラエルと秘密交渉に入ったのは、アラファトの指示のもと右腕だった官僚のアブ・マーゼンこと、アッバース現大統領でした。アッバースらとイスラエル労働党のヨシ・ベイリンの努力をへて93年9月「オスロ合意」が結ばれました。西側では大々的にそれを讃えましたが、アラブ諸国、とくにパレスチナでは、反対と糾弾の嵐が続きました。この合意は、87年以来の反占領独立パレスチナ戦争を闘っている最中の第一次インティファーダに手を焼いたイスラエルが、すでに辞任の危機にみまわれていたアラファト指導部を使って、インティファーダを終らせるためのものである、という批判です。PLO政治局長カッドウーミやエドワード・サイード、マフムード・ダルウィーシュら知識人、アブドルシャフィや、アシュラウイら和平交渉のリーダーたち、もちろんファタハ内部を含むパレスチナ解放組織は、こぞって「オスロ合意」に反対しました。なぜなら、「オスロ合意」は、占領者イスラエルが変化したのではなく、PLOがパレスチナ国会も開かず、昨日までの主張を180度変えてしまったからです。

「オスロ合意」では、入植地・入植活動も、パレスチナ難民の「帰還の権利」も、「エルサレム問題」も、パレスチナ国境・国家の問題も棚上げにしてしまったからです。「オスロ合意」では難民問題は、67年に西岸地区やガザ地区に発生した難民についてのみふれつつ、1948年の難民の「帰還の権利」は拒まれたのです。67年難民はイスラエル領内に戻る人々ではありません。つまり、ユダヤ人国家をつくる為に、虐殺・追放したパレスチナ人の帰還は認めないという建国以来の立場をイスラエルは断固貫いてうまくやったわけです。「帰還の権利」の大義から出発した筈のPLOは、その旗を降ろし妥協しました。ヨルダンの併合していたヨルダン川西岸、ガザ地区(パレスチナ全土の22%)にパレスチナ国を作ることを優先し、確証もないまま幻想にのせられて一歩ふみだしたのです。イスラエルと和解し共存するためにPLOは代価を払いました。アラファトは当時、「パレスチナ人の帰還を望む者はすべて帰れる。まず67年難民が戻り、つづいて48年難民も戻る。それまでアラブ諸国はパレスチナ人の滞在をこれまで通り協力してほしい」と幻想をふりまきました。しかし、イスラエルはそのつもりはなかったのです。

「オスロ合意」によれば、5年の暫定自治期間を経て、おそくとも3年目の始めまでに、パレスチナの最終地位に関する交渉が、イスラエルとパレスチナ人代表の間で開始されると合意されています。つまり「棚上げ」にした話は、それからはじまるはずでした。1994年5月に暫定自治が開始され、1996年5月に最終地位交渉がはじまり、1999年にはパレスチナは難民の権利を含め解決し、パレスチナ国家が誕生するという見通しにPLOアラファトらは、たっていました。

このPLOによる単独のパレスチナ・イスラエル和平、「オスロ合意」の結果これまで包括的にアラブが一つになって交渉する道は崩れました。そして、多国間協議で扱われるはずの「難民問題」もなくなり「オスロ合意」に委ねる道をひらきました。将来の最終地位交渉を想定した枠組は95年にオスロ合意交渉者であったアッバースとイスラエル側はヨシ・ベイリンのもとで非公式に草案作りが続いていました。95年ラビン首相暗殺の直前にまとめられた「アブマーゼン・ベイリンプラン」では、アッバース(アブ・マーゼン)は、早くも「帰還の権利」について、放棄していました。そこでは、法的・道義的にも難民の責任をみとめないイスラエルがそれを認めること、帰還は現実的にはムリで、パレスチナ独立国側への帰還と難民への補償、象徴的にイスラエル領内への帰還に留めることで合意しています。「オスロ合意」を主導したイツハク・ラビン首相が95年11月暗殺されると、イスラエルは益々「オスロ合意」で返還する一部の西岸地区すら惜しくなってきました。

2000年7月アラファトPLO議長の参加した最後のキャンプデービットで「最終地位交渉」においては、アラファトの描いた全パレスチナの22%の独立国家も、パレスチナの「帰還の権利」も、エルサレムの首都も認められない内容だった為、合意には至りませんでした。ところが、この会議の決裂は、あたかもアラファトに非があったと米欧メディアは大合唱したばかりか、アラファトがイスラエルに従うことがないと判断して排除にのりだします。シャロン(のちの首相)は、東エルサレムのイスラームの聖地ハラム・アルシャリーフに軍靴で1000人の兵士と共にのりこみ、挑発しここに第二インティファーダが再びはじまりました。2000年9月28日のことです。そして2001年には、暴力を煽ったシャロンが公選で首相になると、あらゆる暴力を駆使してすでに「自治区」とされたパレスチナ全土を蹂躙しアラファト執務室のあるラマッラー大統領府を破壊しつづけます。シャロンは丁度起きた「9・11事件」を利用し、PLOを軍事政治的に追い詰め、米ブッシュ大統領もまた、シャロンの要請に応えてアラファト排除にのりだします。

一方2004年「オスロ合意」に尽力支持した人々や、PLOアブドルラボやヨシ・ベイリンイスラエル元副外相、カーター米元大統領らを含めて、パレスチナ・イスラエル紛争解決のための「ジュネーブ合意」が二国共存にむけて作成されました。この中で難民の最終的解決を求め国際会議の設置などをめざしていました。しかし、その合意の中では「国連決議194」には言及されず、「難民は5年以内に定住地の選択・決定・移行を行い、この手続きに従わないものは、難民としての地位を失うし、その他いかなる形の賠償請求も認められない」という内容で、「現実的解決」としてイスラエルに歯止めをかける一方で「決議194」の有効性をみとめない実質となっていました。その為、アラファトをはじめ、この「ジュネーブ合意」を認めなかった為に、合意の効力は価値のないものとなりました。イスラエルシャロン側はもちろん相手にもしませんでした。

こうした中で、イスラエルはモサドら情報機関と、シャロン首相の保安会議で、パレスチナのリーダー暗殺政策を確定します。この時モサド長官だったエフライム・ハレヴィ自身が「イスラエル秘密外交」の自著の中で記述していることですが、モサドはアラファトの大衆的人気から排除は難しいと考え、「首相職」を新しく作らせアラファトを権力のない元首とさせ、首相に権力を移行させるための案を米ブッシュ大統領案として発表させました。イスラエルはアラファトに代わる代表として、アッバースに期待を寄せていましたが、それはPLOの中で、官僚アッバースが「帰還の権利」に対して「現実的対応」、つまり「帰還の権利」を放棄することの出来る人物とふんでいたからでしょう。それはすでに95年に、「アブ・マーゼン・ベイリン計画」で検証済みであり、アッバースが武装闘争に反対の立場に立ってきたことを知っていた為です。しかしアラファトPLO議長を葬り、アッバース議長になっても問題は一向に解決されず、むしろハマースの勝利によって、ファタハの人民からの不信任が示されたのです。以来、米・イスラエルは、アッバースを「オスロ合意」共同の名で抱き込み、米・イスラエルとの共同を強いてきました。

 

8.「オスロ合意」の破産

 シャロンから、ネタニヤフ時代に入ると「大イスラエル主義」を明確にし、西岸地区の返還は拒否し占領の「現状維持」を合法化する方向へ更に進めてきました。「帰還の権利」など、考えることすら拒否しています。そして入植地を拡大しそれを認めさせた上での直接和平交渉を求めるようになりました。入植活動停止が交渉の前提であるとするアッバースらPLOの最低の要求も、オバマ時代にはしぶしぶ受け入れる時もありましたが、ネタニヤフ政権が西岸地区併合を考えてきたのは数々に示されていました。

 イスラエルのリベラル紙「ハアツ」の2018年1月11日の記事では、オバマ政権の高官4人の話しによると2014年頃オバマ大統領に対し、ネタニヤフ首相は西岸地区の大部分を併合し、その代償にエジプトのシナイ半島北部をパレスチナ側に割譲させる案を打診していたのです。それはオバマ大統領とケリー国務長官が直接ネタニヤフから聞いた話で将来のパレスチナ国家を西岸の一部とガザ及びエジプトにシナイ半島北部で構成するというものでした。ホワイトハウスから打診を受けたとされるサウジとアッバースは拒否したとの話しです。当然でしょう。しかし、ネタニヤフが西岸地区を併合しその上で、アラブ諸国との正常化、外交関係樹立をもくろむ構想が益々明らかになっています。2017年12月31日ネタニヤフの党リクードの中央委員会は、公式に西岸重要部分併合を求める決議を採択しました。トランプ政権の登場によってネタニヤフ首相や、更に右の「イスラエルわが家」の党首のリーベルマン国防相や、「ユダヤの家」の党首で教育相のナフタリ・ベネットらのような西岸地区征服を求める入植拡大論者が勢いづいています。

 1995年「オスロ合意Ⅱ」によれば、1999年までにパレスチナ側に引き渡すために、当時区分したA・B・C地域(Aはパレスチナ自治政府(PA)による行政・警察統治地域、BはPAの行政権とイスラエルの治安管理地域、Cは行政・治安ともイスラエル軍政下地域)は、徐々にA地域へとすべて移管される計画だったのです。しかし、今ではA地域(PAの管理地区)にも日常的にイスラエル軍・警察が検問・捜索・逮捕を繰り返しています。ナフタリは、C地域(今も西岸地区の60%にあたる)は、早くイスラエルに併合すべきだと主張しています。C地域にはユダヤ入植地、軍施設、水源などの重要資源、ヨルダン渓谷などの戦略防衛地域を含んでおり、20万人のパレスチナが住んでいます。今後は「帰還の権利」どころか「トランスファー」(移送)つまり、イスラエル内に住む20%を占める1948年戦争時追放を免れたパレスチナイスラエル人を追放しようとする右翼の主張があります。
 こうしたパレスチナ人を犠牲にした排外主義と先端技術によって、イスラエルの軍事国家化はオスロ合意以来発展を遂げてきました。イスラエルは、軍産複合による中東地域の経済の中心として君臨することを目指しています。

 こうしたやり方を苦々しく思うアラブ諸国は、経済的には米国の資金に頼り軍事的にはイスラエルの力に劣るために、「パレスチナ問題」は「アラブの大義」という恰好をつけながら何とかパレスチナ側が事を収めるように望んでおり、アラブ諸国は当事者性をすでに失っています。これはアラファト路線がアラブ諸国の介入を嫌い、パレスチナ問題はアラブ問題としつつもパレスチナ人当事者だけで決めようとして数々のまさつを生んだ上で、「オスロ合意」を行ったことも作用しています。これまでのアラブ諸国による包括的な中東和平交渉を崩壊させ各国、個別の直接的中東和平へと舵を切ったことに一因があります。アラファトPLOがパレスチナの当事者性「専権事項」としてイスラエルと和解し米国に依存する道へと歩んだ結果、この「オスロ合意」によって外交関係を樹立していなかった多くの国々がイスラエルと国交を結び、「アラブボイコット」(イスラエルと商取引のある企業は、アラブで商業活動ができない規定)を形骸化させ、イスラエルの政治・経済を向上させました。しかし、イスラエルはパレスチナとの「オスロ合意」の約束さえ反故にして現在に至っています。「帰還の権利」は、ナクバから70年の今日、国際社会、アラブ社会、パレスチナ指導部さえ根本的に解決へと最重点化しきれずにいます。「不可能」として放置して良い筈がありません。

 

9.「帰還の権利」を要とする新しい戦略を

 こうした現実と当面の展望の悲観的成り行きを考えた時、すでに崩壊している「オスロ合意」にしがみついても、何の見通しも開きえないことは目に見えています。しかしまた、PLOが「オスロ合意」を破棄することをイスラエル・シオニストが待ち望んでいるのも事実です。現政権の右翼政党は、一貫して「オスロ合意」に反対してきたし、パレスチナ側が「破棄宣言」すれば、併合を益々進めうるからです。「オスロ合意」破棄宣言をすればPAを相手にせず、PLOとの和平交渉も応じず、好き勝手にやろうと考えるでしょう。ただし、イスラエルは、反イラン戦略を共同する上でも親米アラブ諸国の意向を考慮しつつ進めざるを得ません。

 PLO・PAは、まず戦略的に全民族的な動員体制にむけて結束を強めることを最重点化する転換こそをとわれています。イスラエル内や自治区内外占領下のパレスチナの運命を、初心に戻り解決する道を開くことです。ファタハやハマースの権力闘争や、米・イスラエルと組んで「反テロ」の名でPAがハマースやイスラム聖戦を弾圧している場合ではないからです。

 まずもって「決議194」の「パレスチナ人の帰還の権利」にたちもどりアラブ諸国を再動員し、国連による国際会議と、現地パレスチナ人の実態調査を含めPLOをパレスチナ側の代表として、587万人を越えるパレスチナ難民問題に関する恒久的解決こそ先行させるべきなのです。

 すでに70年の辛苦の時を終えて、かつて米・ダレス国務長官が言ったように、「年長者は死亡していった」けれど「若者は忘れていくこと」はなく、むしろパレスチナへの解放とシオニスト・イスラエルに対する激しい憎悪を拡大させ続けました。これは、イスラエルの昔と変わらぬ弾圧が生んだ現実なのです。中東の様々な危機、不安定の歴史的根拠は侵略国家イスラエルが人工的に移植されたことにあります。

パレスチナを追放された80余万人は苦難を生き延び、すでに587万人以上に増大しています。

 ハマースをはじめPFLPらも「帰還の権利は譲ることのできない自然権」であり「人権の根本」ととらえ、解放闘争の土台にすえています。ファタハ指導部は「現実的」に「帰還権」放棄とひきかえにエルサレム問題などの解決を秘密交渉にしてきたこともあります。

 この70年の経過の現実の中で、多くのイスラエル人が育ってきたし、かつてのように「原状復帰」の「帰還の権利」の実現が難しくなっているのもまた事実です。パレスチナ難民たちの意向もまた、人種主義の強権国家イスラエルへの帰還を望むよりも賠償を公正に受け、パレスチナの地や、アラブのまたは世界の他の地域で住むことを望む人々も多くいます。「決議194」が示す通り難民自身に選択の権利があります。何よりも1948年以来毎年形式的に国連のアジェンダとされている「帰還の権利」に、真剣に取り組み解決することこそ最優先させるべきです。

 そこから新しいパレスチナの未来の国民的合意を国民投票によって作り出すことを戦略に据えた、パレスチナ民族再生の戦いを新しいチャプターとして拓く必要があります。

 この「難民問題の解決」は、国際社会、イスラエル内の市民社会、アラブ諸国の共同と団結によって、シオニズムと政治的に戦う道でもあります。圧倒的な軍事力の差の中で、武装闘争を担えば担うほどイスラエルによる数倍の軍事暴力によって、無辜のパレスチナ住民が殺され続けます。パレスチナ人虐殺と民族浄化を辞さないシオニズムの属性をとらえるならば、武装闘争の権利は当然としても非暴力直接行動の多様な戦い方こそ有効性を持ちうると思えるのです。そうすれば、ハマースを口実とした弾圧や、ハマースを口実とするユヤダイスラエル人への虚偽のシオニストプロパガンダを超えたイスラエル市民、世界のユダヤ人とも新しい共同を育てる道もまた、開かれるでしょう。

 パレスチナの地から「BDS運動」(国際法に反する西岸占領地で作られた商品や企業に対し、ボイコット、投資引き揚げ、制裁を呼びかける運動)はすでに、世界の人々との連帯を育て、政治的・経済的にイスラエル現政権のあり方に有効な反対を表明しています。こうした現実をふまえて、パレスチナ指導部自身がこのナクバの70年目、真剣に、パレスチナ人口の半分以上を占めるパレスチナ難民の「帰還の権利」を解決する戦略にたって、全国民と再び新しい時代を切りひらいて欲しいと願っています。「オスロ合意」の国家幻想にしがみつき、「二国家共存」の取引とされて片隅に置かれた「帰還の権利」ではなく、すべての問題を「帰還の権利」を実行するために国際社会、アラブ社会、パレスチナ社会を再編すべき時です。

 そうした戦いは、この70年の間に虐殺された、あるいは祖国解放のために命を捧げた数えきれない人民、戦士の犠牲に報いる道でありまた、パレスチナの子供たちに未来を提供する道でもあります。

 リッダ闘争によって、パレスチナの大義を共にしたバーシム奥平、サラーハ安田、アハマド岡本の熱い願いを心に再び刻みつつナクバの70年目、パレスチナ解放の新しい変革を心から望んでいます。(3月18日脱稿)

 

3月31日 追記

 ガザの境界無人地帯に、パレスチナ難民の「帰還の権利」の実行を求める「帰還の行進」のためのテント村が3月30日土地の日からナクバの5月15日まで開かれ、非暴力抗議が始まっています。イスラエルは非暴力のデモに実弾で虐殺し始めています。しかし、パレスチナ人は「帰還の権利」を主張し、決議194に基づいて、難民問題の恒久的解決まで闘い続けるでしょう。パレスチナ人に連帯し、「帰還の権利」の復権とその実現具体化を願ってやみません。

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