【2018新春インタビュー】前編 勃興するポピュリズムと安倍政権 

市民の国境を越えた交流と力が必要

Pocket

田畑 稔さん(哲学者、季報『唯物論研究』編集長)

激動する世界の中で、人民主義の本質を問う

 2017年は森友・加計学園疑獄が大きく問題化したが、安倍政権は続き、朝鮮への攻撃を煽り、共謀罪も強硬可決した。本紙も創刊50年目で初めて編集長が不当逮捕・起訴・勾留されての新年となった。私たちはよく安倍政治を「戦前の日本と同じファシズムだ」と批判するが、より思想的・構造的な批判が必要ではないか。

 そこで新年にあたり、哲学者の田畑稔さんに話を聞いた。田畑さんは「安倍政権はファシズムというより、今の中露などと似た権威主義体制を目指している。自由や多様性を狭い枠内に制限するが、単一イデオロギーや総動員体制を伴わない政治体制だ」と指摘する。ある程度の政治的・経済的自由を与えながら、その枠を超えて体制批判をする者は徹底的に弾圧し体制を維持する。アベノミクス幻想を謳う一方で、共謀罪を作り、本紙を弾圧したことがそうだろう。

 田畑さんは「官僚や資本家の少数者支配に対抗し、人民自身が政治を創ることが本来のポピュリズム=人民主義。トランプの悪しき右翼ポピュリズムではなく、真の人民主義を創ろう」と訴える。本紙も編集長を取り戻し、国家と資本主義の変革へ闘い続ける。ともに闘いましょう、2018年もよろしくお願いします。(編集部)


田畑稔さん

 昨年はロシア革命100年でしたが、今年は明治維新150年です。もちろん100とか150といった数字が問題なのではない。現在、世界でも日本でも大きく複雑な歴史変動が生じており、これを見極める作業なしには、肝心の進路は定まらない。歴史や現状の巨視的再認識が必要である根本はここにあります。

 周知のとおり日本では、対抗勢力の弱体化が危険水位に達しています。沖縄や反原発、集団的自衛権や共謀罪、在特会や森友学園、そして米朝戦争挑発や安倍改憲など、まずは直面する課題で行動調整を重ねつつ、多様な力を結集して「球際の競り合い」をしっかりやる。このことからすべては始まります。そのためにも、歴史の大きく複雑な変動を見極めるための議論が重要でしょう。私なりに書物紹介を兼ねて、いくつか問題提起をしてみたい。

本来ポピュリズムは「人民主義」 その堕落形態が「大衆迎合主義」

 トランプ大統領の登場以来、ポピュリズムはほとんど「大衆迎合主義」と訳されています。しかしこれまで「人民主義」とも訳されてきました。英文日本国憲法には「主権は人民にある」と宣言したうえで、「政府の諸権力は人民の代表たちにより行使される」と書いてあります。

 代表制民主主義の構造的欠陥は、2世、3世の首相や議員、エリート官僚など人民の代表である政治エリートたちが実質上、人民から自立して独自の利害・思考・行動様式を構築し、「代表」選挙はエリート側主導の形式的信任手続きになってしまうことです。

 この事態が深刻化すると、政治エリートたちに対する激しい攻撃を行いつつ、人民の一部から、あるいは支配集団の少数派から「我々こそ人民を真に代表するのだ」という政治運動が台頭する。これがポピュリズムです。

 この根本を見ないで、その堕落形態や手法だけ見るのは大問題です。「政治は政治エリートにしかできない」と主張するに等しいからです。

 排外感情を煽り、事実も嘘も政治効果次第というトランプ大統領らの思想(「ポスト・トゥルースの時代」の思想)の危険性を過小評価してはいけない。しかしヨーロッパでもアメリカでも、「右翼ポピュリズム」と「左翼ポピュリズム」(サンダースやポデモスなど)の対抗があることも忘れてはなりません。この点はラクラウ『資本主義・ファシズム・ポピュリズム』(原1977、横越英一監訳、柘植書房)が参考になります。

単一イデオロギーを伴わない「権威主義体制」との攻防

 集団的自衛権行使容認や共謀罪など、安倍内閣の暴走に「ファシズムだ」と非難する人を多く見かけました。戦後の例だと創価学会や全共闘なども一時期「ファシズムだ」と警戒された。警戒心の吐露としては理解できますが、政治体制認識としてはまったくの的外れでしょう。

 現在、世界には200ほどの国家がありますが、英国エコノミスト誌系の研究所の2014年調査では、「完全な民主主義体制」は14%、「欠陥ある民主主義体制」を加えても45%にすぎず、非民主主義体制の国のほうが多いのです。政治体制認識でも現実に即し、多様性、混合形態、移行動態に注意することが必要です。

 ナチス・ドイツやスターリン体制や日本の戦時体制のような「全体主義体制」は、単一イデオロギーと国民総動員型の政治体制です。

 これと区別して、リンス『全体主義体制と権威主義体制』(原1975年、高橋進監訳、法律文化社)は、スペインのフランコ体制をモデルに、権力を独占し、自由や多様性を狭い枠内に制限するものの、単一イデオロギーや総動員体制を伴わない政治体制を「権威主義体制(オーソリタリアン・レジーム)」として類型化しています。現在の中露やその他の指導者支配や、軍人支配の諸国家も、むしろ「権威主義体制」と見るべきでしょう。

 「アラブの春」の民主化と挫折もありました。東アジアでも民主化が問われ(成功例は韓国、台湾、課題としては中国、ミャンマーなど)、逆に脱民主化の脅威にも直面しています(香港、フィリピンなど)。どの場合も根本は権威主義体制との攻防が問われているのです。ナチス・モデルだけで批判を済ますのも、ぼつぼつ卒業するべきでしょう。

資本主義を「超える」ために「ソ連型社会主義」の失敗の総括を

 ロシア革命から100年、ソ連崩壊からも四半世紀が経過しました。中露はともに資本主義発展を遂げ、大国ナショナリズムを思想統合のベースに、領域的ヘゲモニー国家としての道を歩んでいます。しかし権威主義体制や一党専制は堅持したままです。資本主義の不均等発展という点では中国が注目されますが、内外に衝突を抱えながら、言論、集会、結社(アソシエーション)の自由は拒まれたままです。だから知的文化的な世界ヘゲモニーの空間では、中露は依然として後進の位置を脱却できずにいます。

 民主主義やその諸制度は資本主義に自動的に随伴するものと見るのは、大いなる誤認であって、政治的歴史過程で権力者集団から人民が闘い取り、再生産するためにも闘い続けねばならないものです。このことが改めて確認されるべきでしょう。

 社会主義についてはどうでしょうか。マルクスは目指すべきポスト資本主義社会をアソシエーション型の社会と見ていました。これは発達した資本主義の下での労働者たちのアソシエーション運動の展開の先に展望されるものでした。周辺部ロシアで戦時下に起こったロシア革命は「『資本論』に反する革命」(グラムシ)でした。

 レーニンは過渡期で死に(1924年)、1930年代にスターリン主導でいわゆる「ソ連型社会主義」の経済体制が確立します。この体制はマルクスの資本概念に即する限り、「国家資本主義」と見るべきだという有力な見解は、かなり早くから提出されていました。

 この立場に立つチャトパデイアイ『ソ連国家資本主義論』(原1994、大谷禎之介ほか訳、大月書店)は、マルクス『資本論』に内在した本格的研究です。この本を読めば、ソ連崩壊や「経済開放政策への転換」という「断絶」の背後に、総体的国家資本の段階を脱却する資本主義発達としての連続性があったことも見えてきます。

 歴史には光と闇が伴うので、ロシア革命100年を「黒一色に塗りつぶす」ことなど論外であり、何の役にも立ちません。20世紀の「ソ連型社会主義」運動の失敗経験は、資本主義を「超える」という歴史的な課題や過程の多面性を教えました。現在の運動の目標や条件や形態を実践的に探究するためにこそ、過去の厳しい総括が問われているのです。

安倍が立脚するナショナリズムが東アジアの平和の阻害要因

 朝鮮の核兵器やICBM開発をめぐって、Xデーが語られ、米朝が戦争に突入しかねない緊張状態にあります。こういう事態では、各国市民の国境を越える反戦、非軍事的解決要求の声や運動が決定的に重要です。

 いろいろ困難もあり時間がかかっても、東アジア地域に集団的安全保障のメカニズムをつくる努力を、各国市民は権力者たちに要求しなければならない。解決の根幹はそれ以外にないのです。

 韓中露の指導者はトランプ政権に話し合い解決を要求しているのに、安倍首相は朝鮮の核・ロケット開発を「国難」ととらえています。また中国の海洋軍事進出の脅威を扇動しつつ、これを機に覇権国家USAの世界戦略に軍事的にも積極コミットする方向で、軍事強化や改憲・法整備を強引に進めています。つまり「戦後レジームからの脱却」のまたとないチャンスと見ているのです。

 安倍首相は日本会議など復古右翼を政治基盤の一つにしており、過去の戦争をめぐる彼の発言は中国や韓国の対日不信の原因の一つとなっています。木村真豊中市議ら市民の追及で破たんしたとはいえ、彼の妻は教育勅語に基づく瑞穂の国小学院の名誉校長でした。東アジアの将来を各国市民が真剣に考える場合、安倍首相の立脚している現在の日本ナショナリズム自身が深刻な阻害要因であることを、もっと自覚せねばなりません。

 その「歴史認識」も、島国日本でしか通用しない、いや日本でも学界では通用しない、「言い訳」を集めたレベルのものであって、事実を丹念に蒐集し、オープンな学問的検討を踏まえたものはまったく出せていないし、その能力も関心もないのです。

 ジラルデ『現代世界とさまざまなナショナリズム』(原1996、中谷猛ほか訳、晃洋書房)が強調するように、ナショナリズムはその多義性、多次元性、複合性において理解されねばなりません。今年は明治維新150年ですが、近代国家日本は、アイヌ、琉球、台湾、朝鮮、満州を支配・併合し、日中戦争と太平洋戦争で破局への道を突進しました。やった側とやられた側という非対称のナショナリズムがそこに織り込まれています。

 ジラルデはナショナリズムには「主権のテーマ」(米軍基地、領土紛争など)、「統一のテーマ」(象徴天皇制、琉球独立論など)、「歴史のテーマ」(皇国史観、歴史教科書問題など)、「普遍性への志向のテーマ」(技術大国日本など)の4つのテーマがあると見ています。

 ナショナリズムが排外主義に陥らないためには、反戦・平和構築、人権、地球環境などのための、市民の国境を越えた交流と力が常に働いていなければなりません。

(聞き手 編集部・ラボルテ/次号に続く)

Pocket

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。