【時評短評 私の直言】「選挙に勝てば何をしてもいい」は許されない

真理探究の過程としての民主主義的討論とは?

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阪南大学経済学部准教授 下地真樹

 それにしてもひどい選挙である。なにせ、自身に向けられた汚職疑惑の追及を逃れるために解散総選挙にうって出たというのだからして、あまりの幼稚さに目眩がする。
 自分に勝てそうな時期を選んで、あるいは、相手に選挙の準備をさせない不意を打つ形で選挙をやりたい。「勝つことだけを考える」なら、誰でも思いつくことだろう。しかし、選挙を通じて「社会を作る」ことの責任を鑑みるなら、「勝つことだけを考える」ことは普通は容易ではない。それがまともな人間の、他者を他者として向き合いたいと考える者の感性である。しかし、そういう当たり前の感性が、政治から、社会から、摩滅した。そう言う他にない。
 こういうひどい状況だからこそ、基本に立ち戻って考えたい。そもそも民主主義とは何か。さしあたり、二つの側面に分けて考えたい。一つは、「さまざまに異なる見解を持つ人たちの意見を調整して一致点を作る」、合意形成の側面だ。
 多くの人の民主主義のイメージはこれだろう。そして、これは間違いではない。しかし、この見方には決定的に足りないものがあるように思う。
 何が足りないのか。そもそも合意形成と言っても、合意でさえあれば何を決めても良いわけではない。そこには絶対的な制約がある。それは、人権尊重という大前提である。この点を踏まえるならば、意見の違いには、違い以前に、そもそもの課題における一致がある。すなわち、「いかにすればさまざまな人のさまざまな自由を公平に両立させることができるか」という問いにおける一致である。意見の違いとは、この共通の問いに対する答え方の違いに過ぎないはずである。本来ならば。
 このような観点から見る民主主義的討論は、(理想的な)科学者共同体における討論に近い。科学者共同体にはさまざまな意見の違いがあるけれど、どんな意見であれ、この世界の真実の姿を知ること=真理探求という目的における一致があることが前提である。そして、だからこそ、それぞれの意見の良し悪しについての評価も可能となるのである。
 では、誰が意見の良し悪しを判断するのか。科学者共同体においては、科学者の一人ひとりがその役割を担う。あらゆる科学的主張は、証拠を添えて論理的に書かれた文章として公表される。その主張は、あらゆる側面から、その妥当性をチェックされる。すべては真理の探求という目的における一致があるから可能なことだ。
 当然、「ある主張が真実だということになれば得だな」といった利害関心からの影響を極力排除することが肝要になる。現実には、このような利害関心から完全には自由にはなれないからこそ難しさがある。しかし、科学の信頼性は、基本的には、このような仕組みの上に成り立っている。
 民主主義における政治的な討論も同じである。そこには「いかにすればさまざまな人のさまざまな自由を公平に両立させることができるか」という問いにおける一致があり、そのためのアイデアを競い合う。これが民主主義の本来の姿だ。
 このように見るならば、民主主義は、合意形成というよりも真理探究の過程として理解するべきである。そして、真理探究という側面から見るならば、なぜ国会審議が大事なのか、なぜ公文書等の記録を残し公開することが大事なのかが了解できるはずである。
 別様に言えば、「記録がない」「記憶もない」などと平然と言い放つ人間に政治も行政も担わせていけないということも、明瞭に了解できるはずである。データも記録も何もない科学者が何を吠えても相手にされないのと同様、このような政治家や行政官は罷免されねばならない。
 選挙に勝てば何をやってもいい。そして、勝つためにできることは何をやってもいい。そんな風にあからさまに嘯く政治家まで現れてきている背景は、民主主義における真理探究の側面が自覚されなくなっているからではないか。解散権の濫用という話も、その射程の中にある。
 こういう輩を排除する結果は出ているだろうか。楽観はできないが、絶望はせずに結果を見守りたい。

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