24年五輪パリに決定 オリンピックは民主主義に反するものだ

地域住民への負担、聞き入れられない反対意見

LINEで送る
Pocket

パリ第八大学博士課程在学 須納瀬 純

2020年東京五輪の次回に当たる、24年の五輪がフランス・パリに決まった。東京五輪は「福島原発はアンダーコントロールされている」という世紀の嘘で決められ、16年リオ五輪でも激しい反対運動が起きた。五輪が悪政や都市再開発に悪用されるのは周知の事実だ。だがパリ五輪への反対意見は少なかったという。日本もフランスも原子力大国であり、福島事故を経験している私たちは、五輪の持つ暴力性や原子力問題を共有しきれなかったと考えるべきだろう。パリの反対運動とつながることは重要だ。日本からパリに留学し、本紙でもフランスの状況を書き続けてもらっている須納瀬さんからのレポートが届いた。(編集部)

開催地にかかる莫大な負担

 2017年9月13日、2024年夏期オリンピックの開催地がパリに決定され、ちょうど100年ぶりとなる同市での開催に歓喜の声がわき上がった。他方で同日の夕刻、強い雨のなか、12区のベルシー公園には数十人の人々がこのスポーツイベントに反対するために集結していた。
 この場所はレスリング、バスケットボール、パラリンピックのゴールボール会場となる新競技場の建設予定地であり、8000人の収容を見込む同施設のために、現在ある公園の敷地面積のうちスケートボード場や散歩道を含む2.5ヘクタールが使用される。当日の集会には、日常の風景を一変させるこの新競技場建設に反対する地元住民の団体の姿も見られた。
 テレビや街頭広告などのメディアがオリンピック大歓迎ムードを拡散し続ける一方で、オリンピックにあるさまざまな問題点はすでにいくつも指摘されている。そのなかでも批判の対象として第一に挙がるのは、やはり開催にかかる莫大な予算の問題だ。
 今回のパリ開催では「節度ある」、「持続性のある」、「経済的に制御された」予算(約66億ユーロ)であることが強調されている。
 しかし、スポーツ経済学者ウラジミール・アンドレフの調査によれば、1988年のソウル以降、すべての夏期オリンピックにおいて、実際にかかった費用は当初の予算を大きく上回っている(96年のアトランタを除けばほぼすべて2倍かそれ以上、北京にいたっては12倍)。
 こうした傾向が見られるのは、国際オリンピック委員会(IOC)から開催地に選出されるため、候補都市が予算を過小評価するからだ。
 IOCの選出基準は、10億ドルの赤字を出してしまった1976年のモントリオールオリンピックの経済的失敗以降に大きく変化したとされる。
 この赤字を取り戻すために、当地の納税者たちは、上乗せされた地方税や特別なたばこ税をなんと2006年まで支払わなければならなくなった。
 この大失策を受け、それまでスポーツ競技を開催するうえでの都合から選ばれていたものが、経済的利潤の観点から選ばれるようになったのである。
 この選択基準と開催都市選択における競争原理のために、そしてIOCは最も自分たちの負担の少ない(従って結果的に開催都市側の負担が最も大きい)開催プランを好むがために、オリンピックにおいて予算超過は避けられないものであり、2024年のパリもまた例外ではない。

「勝者の呪い」

 経済的利潤を基準に選ばれたはずの都市の住民が多大な損失を被るこの不条理を、アンドレフは「勝者の呪い」とさえ呼んでいる。つまり、度重なる経済的損失は単なる失策ではなく、IOC体制と開催地を巡る競争原理から押し付けられる構造的問題なのである。
 さらに、オリンピックの問題は経済的側面にだけあるのではない。ナンテール大学のピエール・ゲルランはル・モンド紙で、メダル獲得競争がもたらすナショナリズムの高揚から国民が一括りに語られることで、人種、階級、地理的状況にもとづく格差や差別の問題がかき消されてしまう危険性を指摘する。
 「郊外への追放は、人種差別から護られた国民的有名人へと一挙に昇格した、マイノリティ出自の”われわれの”スポーツマンへの賛美のなかで雲散霧消する。普及した競争イデオロギーは、われわれの指導者たちとネオリベラルな思想家たちにとってあまりに大切なものであるが、オリンピックのあいだに目覚ましい進出を遂げる。批評家たちでさえ、歪められない競争という理想へと追随する。スポーツと、メディアにいるその信奉者たちの群れは、反乱の意思を真綿にくるんで首尾よく殺すのである」
 マイノリティでありながら活躍するスポーツ選手は平等な競争という幻想を見せるが、その幻想が覆い隠すのは日常的な差別(職業、住居、教育における差別)と結びついた貧困状態である。そして、オリンピックがもたらす経済的損失の被害を最も被る可能性があるのは、こうした状態に置かれた郊外地域に住む人々なのだ。
 彼らは、自分たちの住環境を向上するために使われたかもしれない予算をオリンピックに奪われ、また開催後に残される多額の負債をも乏しい収入から税金という形で支払わなければならない。

反対する市民が少数なのはメディアの世論形成が原因

 こうしたことがらに、監視社会の強化への懸念が付け加わる。2004年アテネオリンピックの際の新たな競技場建設や大規模なインフラ整備が、後に訪れるギリシャの財政破綻に大きな影響を与えたことは知られている。
 だがこのオリンピックはまた、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降初めて開催され、セキュリティ強化に莫大な予算(2億5千499万ユーロ)が投下されたものでもあった。
 ギリシャは、英国やオーストラリアを初めとした欧米諸国やIOCからのプレッシャーを背景に、他国の通信事業会社やIT企業の技術を借りて大規模な監視システムの導入を余儀なくされたが、アテネ市民からはこのとき既に私的空間の侵犯への懸念の声が上がっていた。
 ではフランスはといえば、2015年11月に起きた同時多発テロ事件をはじめ、近年いくつもの襲撃事件に見舞われ、セキュリティ強化が国家的な一大事とされている。この国の首都において、ましてオリンピック会場がテロの格好な標的となりうることをも併せて考えるなら、アテネで起きたことがより大規模に、激しい形で展開されることは、想像に難くない。
 深刻なのは、こうした諸問題が既に指摘されているにもかかわらず、オリンピックの開催そのものに反対する意見が非常に少ないことである。院内政治に限ってみても、緑の党や、パリの開催地立候補に反対する署名を募った左翼党のダニエル・シモネなど少数の例外を除けば、フランスの政治家たちは左右問わずオリンピックに賛同の意を示している。

オリンピックという免罪符

 他方で、市民の側から反対の声が形成されにくいのは、スポーツのポピュラリティを利用した多国籍企業やメディアの罪が大きいだろう。しかし、少数であるからといってその意見が無視されていいというわけではない。
 9月13日の集会のオーガナイザーの一人、市民団体「2014年パリオリンピックに否を」の代表者フレデリック・ヴィアールはパリジャン紙にこう答えている。「ここにいるのは、隠された費用のための乱脈な財政、無益で奢侈な出費、そして民主主義の真の問題を告発するためです。というのも、(開催地への)立候補は住民への相談無しに決められているのですから」
 奇妙なこと、それはこれほど人々の日常生活に長期にわたって直接的な影響を与える公共事業が、オリンピックというだけで、あらゆる問題にもかかわらず何事も無かったかのように全てが進んでいるという事態である。
 まるでオリンピックが全ての免罪符のようなのだ。しかし、その正当性を説得する必要性さえ感じていない政府の意向とは裏腹に、反対の声を上げる市民の存在は、それが民主主義の原理に反していることを示している。

LINEで送る
Pocket