世界は今(2)フランス エリート主義的「ヨーロッパ」ではなく下からのコスモポリタニズムを

新大統領マクロンはネオリベラリズムの権化

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パリ第八大学博士課程在学 須納瀬 淳

 いま、欧米諸国の政治にはポピュリズムの波が押し寄せていると言われる。この現象(その特徴の本質は大衆迎合というより、「我々と彼ら」という対立軸の形式そのものによって民衆の支持を獲得することにある)は、それが現在進行中の政治を分析するうえで不可避のものとならざるをえないほど、我々の目にも明らかにさまざまな形で現れている。言うまでもなく、英国のEU脱退(Brexit)、合衆国大統領選におけるドナルド・トランプの勝利は近年で最も重大な出来事だった。
 また、ハンガリーとポーランドでは、既に数年前から排外的右派の政党(オルバン・ヴィクトル首相のフィデス=ハンガリー市民同盟と、アンジェイ・ドゥダ大統領の法と正義党)が政権に就いており、オランダやオーストリアにも、首相選、大統領選で決選投票に残るほどの強力な極右政党が存在する(ヘルト・ウィルダースの自由党、ハインツ=クリステリアン・シュトラーヒェのオーストリア自由党)。こうした状況の中、先の5月に行われた仏大統領選の決選投票で国民戦線のマリーヌ・ルペンが残ったことは、フランスの政治もまたこのポピュリズムの潮流の一部であることを証していた。
 しかしルペンは破れ、大統領に就任したのはエマニュエル・マクロンなる人物である。彼が主要候補として浮上して以降、彼への率直な支持を隠さなかったメディアは、予想に違わずこの結果にも安堵した。リベラシオン紙(5月10日)によれば、「マクロンの勝利は、押し寄せるポピュリズムとゼノフォビアの波に対する最初の決定的な対抗措置」というわけである。
 だが、この楽観的な見通しは、ポピュリズムが台頭してきたその社会的背景を理解する努力なしには、有効でないばかりか時に有害でさえある。というのも、マクロン自らが提示し、またメディアによって正当化されてしまった、ヨーロッパ主義者と偏狭なナショナリストの対立という図式によって隠されるものがあるからだ。それは、金融資本とネオリベラリズムによる民主主義の破壊という構図である。

マクロン政治は少数エリート支配

 すでによく知られるように、マクロンは、オランド前大統領政権において経財相として規制緩和政策に着手する以前、大手事業銀行(企業への長期融資を専門とする銀行)に勤務していた。彼が自称する「右でも左でもない」政治、その内実は「政治的に中立」という意味ではなく(そのような立場は存在しない)、彼の実践するネオリベラリズム政策が右派左派にかかわらず政治家たちに好んで支持されてきたというに過ぎない。
 要するに彼が象徴しているのは、ドナルド・トランプ(とルペン)のポピュリズムが選挙戦において主要な標的とした、少数エリートが支配する金融権力そのものなのである。
 ルペンの戦略こそ失敗に終わったが、トランプはそうではなかった。実際、彼の勝利に大きく寄与した三つの州―ミシガン、ペンシルヴァニア、ウィスコンシン―は、「ラストベルト(錆地帯)」と呼ばれる地域の一部であり、かつて重工業と製造業で栄えたこの地域は、80年代から本格化した金融市場の自由化、貿易産業と労働の国際市場化の影響を受け荒廃した(2000年以降この地域で70万人以上の製造業の職が失われた)。
 トランプを支持した複数の声のうちには、狂信的ナショナリストやイスラム嫌いの人々だけでなく、貧困や失業に喘ぐ多くの労働者たちが含まれていたことは、改めて確認しておきたい。

仏は融資対象の企業の集合体か対抗運動は「社会戦線」結成

 ここで、政治学者ナンシー・フレイザーによる合衆国大統領選の分析は示唆的である。その分析によると、そこで起きていた事態は「進歩主義的ネオリベラリズム」対「反動的ポピュリズム」の対立として理解される。彼女は、ネオリベラリズムの「進歩主義的」側面、すなわち、それが多くの社会運動に見られる「個人の解放」言説と一見矛盾しつつも共存していることに、真に対抗的な左派の陣営を構築することの困難を見出している。
 彼女によれば、「個人の解放」という展望は、諸々の企業や機関における女性やマイノリティの出現に満足するが、これは進歩と能力主義の混同に他ならない。そうすることによって、その言説は旧来のヒエラルキー―しばしば人種というファクターによって階層化される―そのものは問われないままに終わる。それゆえ、合衆国の大統領選から顕在化した左派の最も深刻な問題とは、「トランプに投票した全ての人々の正当な不満を、金融化への仮借なき批判にばかりでなく、解放の反レイシズム、反セクシズム、そして反ヒエラルキー的な見方へと接続する」言説の不在である、とフレイザーは指摘する。
 結果の面でこそ違いはあれ、実のところ仏大統領選で展開されたのは、この対立と非常に似たものであった。ただしこちらの「進歩主義的」リベラリストは、「個人の解放」ではなく、一貫して「ヨーロッパ」としてのアイデンティティを強調し、結果的にはそれが功を奏したことになる。「ヨーロッパ、それは我々だ。それを望んだのは我々である。そして我々はヨーロッパを必要としている、なぜなら、ヨーロッパは我々をより偉大にし、我々をより強くするからである」、これは今年1月リールでの発言である。
 しかし、彼の言う「ヨーロッパ人たちを守護するヨーロッパ」とは、実際どのようなものか? その2年前、エコー紙によるインタビューで、当時経財相の彼は、企業への融資政策について触れながらあけすけにこう語った、「億万長者になりたいと思う若いフランス人たちが必要だ」。彼自身の表現を借りれば、このフランス人たちとは要するに「未来のCAC40(ユーロネクスト・パリで株価総額上位40位を占める企業)」のことである。結局、彼の言うヨーロッパとは市場としてのヨーロッパであり、フランスとは融資対象となる諸企業の集合体に過ぎない。そこにあるのは、政治家というよりも企業主の観点から要求される能力主義と競争原理だけである。

民主主義の相貌で民主主義を破壊

 ところで興味深いことに、アリストテレスは「デモクラシー」(「デーモス=民衆」+「クラトス=権力」)を「富を多く持たない慎ましい人々による統治」として定義している。反対に、しばしば「寡頭政治」と訳される「オルガルシー」とは、富者が国家を統治する状態を指していた。したがって、この二つの政治状態を分かつのは、しばしばそう考えられるように統治者の数の多寡の問題ではなく、階級の問題なのだ。マクロンが「デモクラシー」から最も遠い政治家として位置づけられるのは、まさにこの語の根本的な意味においてなのである。
 彼が大統領就任後、2カ月足らずの間に行った行動(議会での承認を経ない労働法典の強行的改変、「緊急事態」下における特殊な措置の法案化、等々)がそれを見事に裏付けている。彼の姿勢は著しく民主主義の原理を損なうものではあるが、彼の思想から見たときに、それは論理的帰結となる。
 こうしたマクロン政権の誕生を契機としてかつてなく喫緊となる課題は、「ヨーロッパ」というこの集合体を、政治―経済的な問いというよりも、政治としての経済の問いとして認識し直すことである。すなわち、そこでは経済が集団における内部と外部(あるいは内部における中心と周縁)の境界を構成するもの、つまり政治として機能しているのだ。
 80年代以降の金融市場の自由化に端を発するこの事態を、近年に最も悲惨な形で体現したのが、いわゆるトロイカ(EU、国際通貨基金、欧州中央銀行)によって強要されてきた緊縮政策への明確な拒否を示すことによりギリシャで政権を獲った、アレクシス・ツィプラスの政党シリザであった。
 2015年1月の政権獲得直後から、EU側は債務不履行による財政破綻というシナリオをかざしながら緊縮政策の続行をシリザに迫り、シリザは解散後に行われた9月の総選挙においてトロイカの要求を受け入れざるをえない状況にまで追い込まれた。この周知の歴史をここで改めて引き合いに出すのは、この出来事が、現代に特徴的な資本と民主主義の関係を顕著に示しているからだ。それは負債と脅迫という手段に基づいた、金融資本による一国家の政策への実際的な介入と決定の可能性を意味しているのである。
 この観点から哲学者のピエール・ダルドと社会学者のクリティアン・ラヴァルは、負債を、債務者と債権者の間の(常に後者に利する)単なる経済的関係を越えた、「統治の恐るべき一手段」として見るべきだ、と主張する。そしてより深刻なのは、ダルドとラヴァルが指摘するように、政治家たちが濫用する「国民」や「共和国」(あるいはマクロンにおける「ヨーロッパ」)というレトリックのもとに、諸基準を制定する場が、「選挙で選ばれていない」、つまり制度的民主主義とさえ全く無関係な国際的諸組織の手に移っているという事実が覆い隠されている、という事態である。
 こうして知らぬ間に進行しているのは、かつて欧米諸国がラテンアメリカやアフリカの旧植民地で引き起こした軍事クーデターとは異なり、民主主義という相貌のもとで行われる民主主義の破壊に他ならない。ここに、金融資本と結びついたネオリベラリズムの(そしてマクロンという人物が一国家の元首であることの)真の恐ろしさがある。

偽りの選択から抜け出すこと

 以上を踏まえ、大統領選に戻るなら、決戦投票でマクロンとルペンという選択肢しか残せなかった時点で、社会の在り方に真の変化を求める人々の敗北は既に決定していた。そのことは投票の高い棄権率と白票・無効票率が物語っている。皮肉なのは、社会党の大敗によって明確な不信が提示された前政権の政治の既定路線は、マクロンによって継続、そして強化さえされるだろうということだ。 この絶望的袋小路の状況で、我々がまずすべきは、フレイザーが言う「偽りの選択」そのものから抜け出すということである。「進歩主義的ネオリベラリズム」と「反動的ポピュリズム」以外の選択肢があり得ないと我々に思い込ませる、「想像力の侵犯」(アミナタ・トラオレ)に対抗しなくてはならないのである。
 おそらくその対抗的想像力は、あえて希望を込めて言うなら、マクロンの言うエリート主義的「ヨーロッパ人」に抗して、言わば「下からの」コスモポリタニズムのようなものとなるだろう。すなわちネオリベラリズムへの批判を、人種主義的・性差別的ヒエラルキーへの批判と接続するような言説である。路上での対抗運動はその生成の現場となりうるだろうか?
 たとえば、選挙後のマクロン政権の動きを受けて緊急的に組織された「フロン・ソシアル(社会戦線)」は、労組系を含む複数の運動体の連合体であるが、これはいま急速に進みつつある規制緩和政策と緊急事態の永続化に異議を唱える、数少ない路上の運動として貴重な存在である。
 まだ結成されて間もないとはいえ、さまざまな運動体を束ねて一つの対抗言説を作ろうとするこの新しい動きから、どのような集合的意見が構築されていくのか、今後に注目していきたい。

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