言わせて聞いて

―5月5日号「ぷりずむ」への反論

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「教育」信仰に疑問

 いただけない。だいたい「教育で政治の尺度を教えるべき」という発想がおかしい。
 想定されているのは公教育だろう。私の高校時代には「現代社会」「倫理」「政治・経済」とかいう教科があり、政治の基本的な制度や市民の権利などについて、それなりに教えられた。しかし、授業を受けた者が「政治的尺度」を持てたかと言えば、当たり前だがそんなはずはない。
 『人民新聞』なんぞを購読するようになった自分自身を振り返っても、なにがしかの「政治的尺度」を持つようになったのは、世の中にさまざまな運動が存在し、それを伝えるメディアが存在し、政治的な議論ができる「場」が存在したからである。いま、そうした条件は確実に痩せ細っている。
 有機農業運動では政治が回避されているらしい。なら、そこに政治性を回復すべし。必ずや若者の「政治的尺度」獲得にとって大きな力を発揮するはずだ。教育に無い物ねだりをするより、よっぽどいい。まずは政治の話ができる「場」がなければ、いくら教育を受けても使いようがない。
 それにしても、教育に対する無垢なまでの信頼と過大な期待はどうなのか。日本でも数十年前には「反大学」を掲げた運動があり、教育そのものの持つ権力性が問題にされたのではなかったか。
 その権力性とは、森友学園のように「間違ったこと」を強制することにあるのではない。むしろ、正しかろうが間違っていようが、教えたことがそのまま結果となって現れるはずだ、という考え方そのものにある。その意味では、「政治の基本を義務教育からしっかり教えないと」森友学園のような「保育園が拡大する」という「ぷりずむ」筆者は、実は森友学園とコインの裏表なのだ。     (山)

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