フランス大統領選 社会党に代わる新たな左派の組織化は可能か?

反人種差別デモ―「正義と尊厳のための行進」

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パリ第八大学博士課程在学 須納瀬 淳
 大統領選で極右候補のルペンが残ったフランス。警察による差別的な暴行殺害が続いている。現地在住院生の須野瀬さんに社会状況を報告・考察してもらった。

正義なしに 平和はない

 仏大統領選を翌月に控えた3月19日のパリで、「正義と尊厳のための行進」と名付けられたデモがナシオン広場からレピュブリク広場にかけて行われた。これは、2015年10月に組織された「尊厳の行進」に続く、人種差別と密接に結びついた警察による暴力に抗するためのものである。いずれの場合も、被害者の家族、とりわけ女性たちをその中心に据えている点で、フランスの反人種差別運動の歴史において画期的なものだった。
 前回と同じく、今回もデモ隊が繰り返したのは「正義なしに平和はない」という言葉だ。ここで言われる「正義」は、まず何より個別具体的な人種差別的犯罪についての真実の究明と、公正な裁判とを指している。この日、参加者たちの頭に最も鮮明な記憶として残っていたのは、2月2日セーヌ・サン・ドニ県オルネー・スー・ボワにおいて、警官ら4名が警棒によって22歳の青年テオ(テオドール)・ルアカに重傷を負わせた事件(通称「テオ事件」)であった。昨年7月に起きた憲兵らによるアダマ・トラオレ殺害事件(その真相はいまだ不明)がメディアを賑わせたのも記憶に新しいなか、それは多くの活動家や市民たちを動かし、この人種差別的暴力についての議論に新たに火をつけたのである。
 テオ事件が衝撃を与えた理由の一つとして考えられるのは、加えられた被害の特徴からそれが性的暴力の性質を孕んでいた疑いがあることだ。社会学者マルワン・モハメドが指摘するように、(1)この種の暴力は一個人の尊厳を破壊する行為であると同時に、われわれに「植民地占領の最悪の諸手段」を想起させずにはおかない。かつての植民地政策において、現地社会において重視された「男らしさ」の価値を被植民者の男性たちから奪うことは植民地化を構成する重要な要素であったが、この「男らしさ」の優位はいわゆる「郊外」地域のコミュニティにおいても、また警察や軍などの国家組織においても、広く行き渡っている。レイプとはこうした価値から発動する暴力であり、この場合においては相手の持つそれを深く損なわせるものなのだ。
 社会学者ラシダ・ブラヒムは、(2)フランス国内で少なくとも70年代から確認された人種差別的犯罪が、2003年の法Ⅲが制定されるまで、その法的定義を持たず、犯罪を構成する一要素として扱われなかったことを強調し、そのため人種は「2度殺す」のだと主張する。第一に、それは個人間のレベルで物理的な暴力をもたらし、第二に、法は市民権の普遍性という論理(法は万人にとって同一でなければならない)のもとに、人種化という事実とその暴力の特異性を覆い隠してしまうからだ。さらに、画期的とされる2003年の法が定める人種差別的動機も、違法行為の当事者による人種差別的動機の保持が認められる場合においてのみという点で、その画期性は相対的なものにとどまる、ともブラヒムは指摘している。

非人間化からの回復

 しかし法にどう扱われようと、「行進」の参加者たちは自分たちの家族、友人、隣人たちが国家ぐるみの人種差別によってその命を奪われたことを確信している。そんな彼らのうち多くの手に持たれていたのは、被害者たちの名であり、顔であった。暴力の源が殺す側、そして殺される側双方の非人間化(後者は警官に対する無慈悲な報復という形で現れる)にあるとすれば、殺された者たちの顔をデモで掲げることは、彼らの人間としての尊厳を回復する試みであると言えるだろう。
 そこで提示される疑問、それは、法が統べるこの社会において、彼らにとっての正義がどこにあるのか、ということだ。法の下の平等が実現するのは、普遍的市民という観点から差異を無いものとして初めから抹消することによってではない。それは、人種化を引き起こす諸事象の存在を認めたうえで、個々の人種差別的犯罪に対する真実に基づいた正当な判断と、それらを防止する諸制度の充実を通じて初めて実現するのである。

路上の声を聞くことの重要性

 ところで「行進」は、その声明文において、国内における人種差別だけではなく、あらゆる差別に抗するという観点から、国外からやってくる移民・難民に対する現政権の対応にも批判的な構えを見せている。それに加え、現在の社会党政権は、労働法改悪、連続テロ事件に続く緊急事態宣言と中東への空爆、空港建設やダム建設反対運動への苛烈な弾圧など、その強硬的な姿勢によって人々をたびたび失望させてきた。
 こうした状況のなか、来る大統領選で求められるのは、社会党に変わる新たな左派陣営の組織化だ。しかしその役割が最も期待されるジャン=リュック・メランション候補でさえ、前回大統領選時の移民・難民受け入れに対する好意的態度を今回は一変させているのは、決して些細なことではない。
 3月11日、あるテレビ番組で彼はこう述べた。「今日フランスに居て滞在許可書を持たない人々、彼らがもし労働契約を持ち仕事に就き、分担金を支払っているなら、私は彼らに許可書を与えます、全員に。…他の人々、彼らにはこう言わざるをえない、『聞いてください、どうすればいいかわからないのです。私たちに手を貸せとは言わないでください…』。何よりも私はこう言います、『旅立つのをやめなくてはなりません』」と。滞在許可書無しに仕事を探すのがきわめて困難なこの国において、これは危険な論理と言わざるをえない。
 メランション氏の変化の背景には、国民戦線を筆頭に謳われる言説、すなわち「移民によって国民の雇用が奪われている」という説が流布する一方で、移民の無条件的な受け入れ政策が選挙に不利をもたらすという状況がある。しかしその結果として、彼は暗に相手の論理を受け入れてしまっているのである。この点で現在、メランションと、移民・難民が移動滞在する無条件の自由を求める急進的左派の運動との間には分断がある。彼がこうして体現するのは、他所から来たものたちへの徹底した歓待を左派の政治が貫くことの困難さだ。
 翻ってそれは、路上の声を聞くことの重要性をわれわれに教えてくれるだろう。差別と闘うということは、自分が他なるものとどのように向き合うのかを考えるということでもある。アフリカや中東諸国と何世紀ものあいだ築いてきた密接な関係のなかさまざまな人種、宗教、民族が交錯するフランス社会において、それは未来を左右する決定的な問いなのだ。だからこそ、たとえ大統領選が巻き起こす喧噪の中で「行進」のような運動があくまで周縁に押しやられているとしても、彼らの声に耳を澄まさねばならないのである。

「2つのフランスの対立」なのか?

第1回投票(4月23日)後の追記

 かつてない混戦と言われた今回の仏大統領選挙で、決選投票に残った2人の候補者が「右派でも左派でもない」と標榜する元経財相と、「反システム」の言説によって自らの革新性を強調した国民戦線の党首であったことは、何を意味するのだろうか。そこに現れているのは異なる「二つのフランス」の対立である、と言われる。すなわち、(1)都市部に住み経済的に余裕のある層と地方・周縁部に住む貧困層との間の対立であり、(2)グローバリゼーションを受け入れ他の世界に寛容な楽観主義者たちと、他者と変化を恐れる排外的なナショナリストたちとの間の、そして(3)既存のヨーロッパの経済システム(EU)に好意的な者たちとそれを疑う者たちとの間の対立である。
 しかし、政治学者ジャン=フランソワ・バヤールが近著で提案しているように、第一次大戦以降、資本主義の世界的拡大と国民国家の普遍化とによって形成されてきたヨーロッパにおける特権的な国家システムがナショナル=リベラリズムというモデルによって説明されるなら、今回の選挙結果は「二つのフランス」というより、一つの国民国家を構成する二つの側面が二人の候補者によって体現されたに過ぎない。それは同じコインの表と裏なのだ。ただし、そこでのリベラリズムは富めるものたちのために、ナショナリズムは貧しいものたちのために機能する。マクロンとルペンはそのことを、したがって彼らが誰に向かってそのイデオロギーを振りかざせばより効果的かをわかっていたからこそ、これだけの支持を得ることができた。
 リベラリズムとナショナリズムを対立させる図式は、これら二つが相互補完的に機能するということを見えにくくする。この観点からすると、エマニュエル・マクロンが彼の政治運動「前進!」を始めてまだ間もない2016年5月にオルレアンへとはるばる赴き、「フランスを守るためにそれをまとめあげ」た人物としてのジャンヌ・ダルクへ賛辞を贈ることであったのは、驚くにあたらないのだ。
 いかにグローバリゼーションが進行しようと、移動の自由はいつでも経済的に富裕で、かつ大抵の場合は先進国出身者にのみ約束されている。この事実を確認するには、アフリカ大陸からヨーロッパに渡ることを夢見て今も地中海に沈んでゆく無数の人々の存在を知れば十分である。したがって結局のところ問うべきは、いずれが大統領に選ばれようと、彼らが言うところの守るべき「フランス」あるいは「ヨーロッパ」という共同体のなかに、誰が含まれるのかということだ。人種に関する問いの掛け金もまた、そこに見出されるからである。

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