外国人介護士と介護現場
遙矢当
〝Sorry, We can’t explain our reason to you 〟
私は電話口でそう繰り返すばかりだった。電話口で「なぜですか?!」と繰り返し問うフィリピン出身の女性に対し、私はそう繰り返すしかなかったのだ。
今から7年前、私は都内の介護施設で施設長として勤めていた。その当時も、介護職員を募集すると、7~8人応募者がいれば必ず1人は外国人が応募してきていた。外国人の介護職への応募は、介護施設の運営上、私自身のテーマであった。かつて人民新聞紙上でも読者諸氏に投げかけたことがあった。今は介護現場から離れた立場にいるものの、私自身はなお悩みの尽きないテーマとして抱え込んでいる。
昨年(2016年)、外国人介護士の介護現場での受け入れ体制の整備は大きく動いた。安倍政権が猛スピードで成立を急いだ「外国人技能実習制度」関連法案の国会通過に始まり、入管法の改正と併せ、外国人が介護の実習を日本国内で受けやすくなる基盤が整い始めている。外国人介護士の受け入れは、人手不足でひっ迫した介護現場を尻目に、厚生労働省、総務省、外務省の3つの省庁を横断した問題としてなかなか目途が立たず、いわば「縦割り行政」の弊害の象徴にすらなってしまった。
しかし、制度の改正だけで、この国の外国人介護士をとりまく環境が改善されるのだろうか。
日本は今、対アジアの外交について言えば最悪の状況と言って良いだろう。
排他的な国民の文化的な態度が不興を買っている、と言っても過言ではない。各国の介護関係者には、日本国内で日々生活を送ることに対し脅威を感じざるを得ない、とする外国人介護士たちの意見も根強い。外国人介護士を受け入れるのは、介護現場だけではない。日々暮らす地域や住民たちにも受け入れる心構えを持つ必要がある、というごく当たり前の認識が欠如しているからだ。
それにしても、「介護現場に介護職が少ないから」という理由で外国人介護士を受け入れるのだろうか。「この国の介護技術を世界に伝播したいから」という理由で外国人介護士を受け入れるのだろうか。この国は、一見相反する2つのテーマを長く悩んできた。民主党時代、菅政権では「介護を成長産業」へとする施策が掲げられたり、安倍政権でもまた「日本再興戦略」の柱として位置づけられたり。
思えば、介護の政策上の立場でこの2つの議論があるせいで、未だに定まらない。
私は、ここにこそ、立ち位置の決まらない介護現場の懊悩の端緒があると思っている。安倍政権は素直に、この国の経済について議論が持たれるG20のような場で、素直に「介護の危機」を訴え諸外国の理解を得る-そのような謙虚さが外交で求められているはずなのに、と思うのだ。
この国は「人口減少」が本格的に始まり、マクロ経済で言えば、さらに国家としての規模が縮小に向かっている。国が小さくなる中で、人と人との距離が縮まらないのはなぜだろう。偽りでしかない「さらなる開国」を免罪符に、東京オリンピックの開催をなお進める安倍政権の本質もここで露呈している。一方的な違和感による排他的な態度を繰り返す人々が増えているが、実はその人自身が社会から孤立している現状を理解していない。
人と人との間に垣根を作るのは、介護現場でも、制度でもなく、私たち自身だ。
私自身はここ近年、外国人看護師に会うことも多い。自国では医療従事者として優秀な彼ら彼女らは、敢えて医療ではなくこの国の介護の現場を目指している。彼らは言う。「日本の技術は優秀だが、日本語(と日本文化)が難しい」と。日本人は外国の文化を理解しようともせずに、どんどん諸外国に飛び出し割って入ろうとする厚かましさがあるくせに、と私は思う。
私たちはナショナリズムを超え、1人の人間として、隣人を迎える心構えが求められている。
そして私も、さらに世界に胸を開く1年にしたい。