バリアのない街 「一億総活躍社会」は現代の「国家総動員法」

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遙矢当

 来る2017年、この国の福祉に希望はあるのでしょうか。
 2016年を振り返ると、「相模原障害者施設殺傷事件」(7月)「保育園落ちた日本死ね」(2月)「有料老人ホーム入居者転落事件」(2月)と、障がい、児童、高齢者の三福祉の各分野で痛ましい事件やニュースが飛び交いました。  
 これらの事件、さらに言えば障がい、児童、高齢者の各福祉の分野で共通するのは、職員の待遇の低さであり、その労働環境の劣悪さにあると言えます。
 福祉の劣悪な環境が近い将来改善するのか?と言えば、その道筋は暗く、まず来年(2018年)には医療、介護の各保険制度の「ダブル改定」による給付抑制の総決算が控えます。職員の待遇改善について言えば、トドメを刺される瞬間が近づいてきました。
 さらに言えば、わが国の福祉の基礎制度となる生活保護制度は、2016年12月(=本コラム作成時)時点で、過去最高の受給者数になりました。これに対し、日本維新の会などにより憲法13条に違反する受給者のギャンブル利用などに受給制限を加えよう、などとする動きが始まっていることは、読者の皆さまの耳朶になお鮮明なことでしょう。
 こうしたわが国の福祉の縮小は、「右傾化がさらに進むアベ政治だけが推進しているのでしょうか。ここで、少し立ち止まって考えたくなりました。
 もちろん、安倍政権が予算編成の段階から続出する生活が困窮し続ける国民をすておいて、TPPだ、原発だ、沖縄だ、トランプ次期米大統領だなどと、うつつを抜かしている点は、厳しく断罪されるべきです。社会が右傾化する中で、福祉の分野から覗いたアベ政治の評価を「ファッショ」だと言うなら、私はそこに疑問を感じ始めています。安倍首相の祖父、A級戦犯である岸信介が関わった第2次世界大戦における翼賛体制と比しても、現在のアベ政治は、すでに「保守」とも呼べぬ次元の低いものでしょう。それがさらに劣悪で異質な福祉を築き始めているのでは、と。
 たとえば、戦時下の「国家総動員法」とアベ政治が掲げることになった「一億総活躍社会」を、福祉の世界から覗いて比すれば明白です。
 国家総動員法で言うなら、政府は国民に対し就労は必ず保障した(=年齢を問わずという条件がある)し、配給という形で、ギリギリの衣食住の提供がありました。少なくとも、隣組の制度は近隣住民の情報収集を果たし、実情が把握出来ない住民の数は現代より圧倒的に少なかった、とも言えそうです。
 ところが、現代の国家総動員法ともいえる「一億総活躍社会」は、政府が国民に就労を提供すること、そして生活に必要な衣食住の提供を行うことそれ自体を放棄している、と言わざるを得ないものです。また、近隣の住民からは排他的な交流を強いられるか、孤立して地域からの援助が届かない生活を強いられるかの、いずれかの道が待ちます。
 今の社会は、働いても憲法25条で保障された最低限(と称される)の生活を確実に目指せないものになってしまいました。

2017年をどう迎えるか

 自分以外の人々に対し、無条件に排他的になりつつある断絶した社会で大切なのは、まず、目の前にいる身近な人の存在を認めることではないでしょうか。自分たちの弱さを隠そうとすることに奔走するアベ政治のような思想では、社会からこぼれ落ちそうな人々を黙過するだけです。
 そして、ソーシャルメディアによる「体温」を感じない人との接点の世界を抜け出し、日々どれだけ多くの人との交流が持てるか。それはとても原始的だし、戦略性のない回答かも知れません。
 怖いのは、社会そのものに関心がない人々です。これは「ファッショ」以上に危険性をはらみます。とは言え、無理に他人を巻き込むのも間違いです。それは「ファッショ」と同じ道です。地に落ちつつあるこの国の福祉を憂える前に、私たちは、今、目の前にいる人の存在を認めるところから始めるべきなのでしょう。

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