多くの人が繊細に、適当に、ちゃんと生きてほしい 「主流秩序の囚われ」を問う
NOVO(非暴力ルーム・大阪)イダ ヒロユキさんインタビュー
本紙前号(1600号)に「加害者を変えることでDV被害をなくす 非暴力な社会をつくる」でインタビューしたイダヒロユキさん。イダさんは社会問題に関心をもった当初、マルクスを学び左派活動家・研究者として出発し、フェミニズムにふれるなかで家族制度に囚われない「シングル単位」を提唱した。一方で、学者としての自身の生き方に疑問を感じ、2005年に大学正規教員を退職している。イダさんがいま訴えているのは、「主流秩序の囚われ」を問う概念だ。私たちは収入、社会的地位、消費欲求などさまざまなものに従属している。そこには、大学入試のような、偏差値的な椅子とりゲームがあり、抑圧/被抑圧、生きづらさの源泉ともなっている。「主流秩序の囚われ」を主題に話を聞いた。 (編集部・ラボルテ)
「金や地位はほしいけど、開き直らない」
──具体的に、学生にどのような伝え方を?
イダ…無色透明に「社会はこんなに酷い」と語るのではなく、「あなた自身が主流秩序にはまり込んでいるよ」とわかりやすく伝えるようにしています。学生が主に気にすることは、恋愛・勉強・就職ですよね。例えば、ダイエットの問題で言えば、日本は8人に1人が痩せすぎで世界的にトップな状態になっています。これは、みんなが口癖のように「痩せなきゃ」と言って、「痩せ」への競争が強化されるわけです。痩せは相対的な概念なので、20年前の痩せは「いまの普通」になっていますし、マネキンや服そのものが細くなってきてます。
学生は「細い服を着たい」と言って、その服にあわせて痩せようとします。痩せを追求する本人自身も苦しくなっていくわけです。「自分の身体にあった服を選ぶのではなく、自分の身体を服にあわせよう」としている。生きづらさをつくる主流秩序を変えるのではなく、生きづらい主流秩序にあわせてしまう。「勉強ができる」「かわいい」という価値で、序列を強化し、勉強や容姿がいいから評価される=勉強や容姿がよくないと自分の存在価値がないと思えてきます。自らの行動によって競争が強化され、その結果で自分を苦しめているのでは、と伝えています。
──ご自身はどうなのでしょう。主流秩序から外れているのですか?
イダ…学生からも「先生は主流秩序に囚われていないんですか」と聞かれます。私は「囚われているよ」と答えます。私もお金はほしいし、有能で有名で影響力ある人になりたかったし、ヴィーガン(動物製品・食品をとらない人)の主張には賛成するけれど吉野家で牛丼も食べるし、暑い時はクーラーも使います。
でも開き直らずに、お金や社会的地位への執着、過剰な消費を減らしていて、「ゼロと100の間のましな方」に進もうとしています。「ゼロか100かどちらかしかない」の問題ではありません。心地よい状態で「中立ではなく、中間を選んでいこう」という感じです。
主流秩序に囚われることは生きづらいし、極端に仙人のような生き方をするのも苦しい。俗っぽくて矛盾があってもいいのでは?と思います。それは、緊張と競争の中で能力主義にとらわれている多くの人が、もっと脱力して 〝いいかげん〟に生きてもいいんじゃない?という意味も含んでいます。
「多様性を認める」ことは、「主流秩序が示す道Aもいいけど、そこから離れて、BやCを選んでもいいよね」ということです。北欧社会だって序列はあるわけですが、高い税負担による手厚い社会保障を通して序列格差を小さくし、生存を保障しています。日本で言えば、最低賃金の大幅引き上げや生活保護制度の充実などに加えて、税負担を強化して社会的再分配を高め、主流秩序上層の生活水準をもう少し落とす必要があります。
やりがい搾取と労働の人間化
──イダさんのそもそもの出発点はマルクスでしたね
イダ…10代のころにマルクス主義を勉強して、「革命は面白い」と思っていました。しかし、ソ連や中国の現実は、非常に官僚主義・権力主義的だった。ソ連崩壊以降は、北欧型社会民主主義が、現実的には平等・人権や環境問題などの面でマシな体制だと思うわけです。そこに対応する世界の社会運動は、フェミニズムやグリーンの運動です。
研究者として、10代~20代にかけて学んだのは、「自民党政権の○○政策に××の矛盾・問題がある、必ずうまくいかなくなる、次の選挙で政権を」と言うけれど、「リベラル・左派はずっと勝てないまま」ということでした。分析・批判は、言葉の上だけで、運動や大事な生き方の変革につながっていなかったと思います。また、日本には、運動が盛り上がらない意識や文化としての蓄積があります。それを「どこから変えるべきか」と考え続けてきました。私も若い時はオトナたちや既成左翼を批判して、「やり方を変えよう、魅力的にみせよう。楽しい感じとか脱力系でいこう」と取り組んできました。 しかし、学者になって大学の授業で「いいこと」を言って、学生が少し考えたとしても、就職を経て会社人間化していきます。企業の中では、統治システムとしての「労働の人間化」的な管理があります。トヨタなどの大企業が、人間の創造性・能力・やりがいを「社会変革ではなく、会社をどう儲けさせるか?」に注ぎ込ませるシステムです。
例えば、企業広告の作成や労務管理から「いかに自動車製造をおもしろくするか」などです。生産現場の労働者には、ネジを回させるだけではなく、QC活動(現場の問題や無駄などの改善の取り組みや報告)など複雑なことも任せる。「ネジを回しているだけじゃないんだ」と自覚させ、労働時間短縮や賃上げなどの組合運動から、会社への感謝とやりがいを求めさせる方向に意識を組織化しました。自発的な隷従をもたらす、この結果の一例が、電通女性社員の過労死事件(15年12月25日)です。
卒業していく学生は、ジェンダー構造も相まって、女性は仕事を辞めて結婚し、男性は主たる家計者として「家族を養う」流れがほとんどです。自民党の狙いであったり、新保守主義と新自由主義の共犯関係で成立していることですが、「家族をもつ」ことで自己責任的に私生活を守ることに固執し、社会に無関心になっていきます。
家族単位でなはく個人単位同一価値労働・同一賃金
この統治システムを変えるひとつが、フェミニズムやシングル単位論です。日本の賃金や税、社会保障制度は、家族単位が前提です。パートなどの非正規労働者や最低賃金が低く設定されているのは、あくまで「主たる家計者の補助的な賃金」が前提だからです。2000年代に入って、非正規労働問題がメディアに取り上げられ始めましたが、非正規労働問題は、女性の労働問題として以前から存在していました。例えば、「せんしゅうユニオン」などは。80年代から女性非正規労働者を組織化して、運動に取り組んでいます。一方で、大企業・正規・主流派の労働運動は、家族賃金を前提にしているので、「年収700万円でも安い、賃上げだ」と求めるわけです。自分の雇用には固執しますが、企業によって調整弁であり利益の源泉である非正規問題には、手を付けません。
なので、同一価値労働同一賃金を目指して、女性がもっと個人として自立し働く環境にしていくと同時に、貰いすぎ状態にある正規労働者の家族賃金を減らし、非正規労働者の賃金や最低賃金を家計補助としてではなく、個人として生活できる水準に引き上げなければいけません。有期雇用を制限して、原則無期雇用にすべきでしょう。
私自身は10年ほど前に、大学正規教員(助教授)を自ら辞めました。大学や社会運動で、言葉の上で「いいこと」を言う一方で、将来まで安定した身分が保障され年収が高くてイイ家を買って結婚して子どもをもって…というのは欺瞞かなと思ったのです。学生に格差の問題を話している私自身の年収が大きく、主流秩序の上層の生活をしているんて矛盾じゃないですか?
この問題は、「トランプ支持者が、政治をやってきたやつらは民主党も含めて特権階級だ、と怒りを向けること」とつながっている面はあります。
それに、「結婚し正規雇用で年収が800万円あって、やりがいある仕事をしている」なんてモデルは普遍的ではなく、ひきこもりや非正規労働者の多くは選ぶことができません。主流秩序の上層は、席が極めて限られて、社会構造に加害的な立ち位置です。
多くの人は「負け組」になり、生活も苦しく、自信も奪われていきます。社会を変えようとしても、なかなか変わらない。この現状のなかで、モデルになりやすいのは、主流秩序をのし上がるのではなく、序列から少しでも離れて、好きに生きる方向です。
──最後に。
イダ…リベラルや左翼は、戦争や集団への差別・格差など、「大きな人権侵害・暴力・不正」を問題にしてきました。一方で、そう言っている本人自身が、身近なところでは権力的で、能力主義にとらわれ、暴力や非正規との格差に鈍感、子どもには学歴をつけさせる、ということがよくあったわけです。
社会の暴力は、身近にたくさんあります。学校社会では部活の体罰があり、「当たり前のもの」として継続されて、職場でのパワハラやパートナー・子どもへのDV・虐待になって、継続・再生産されます。左翼は暴力革命もいとわない、権力奪取による社会変革を掲げていましたが、いま先進国社会で問われているのは、暴力風土をなくすことです。身近な暴力に敏感になることは、社会全体の雰囲気や構造も変えていきます。
主流秩序の上層にいく/いきたいならば、どこかで誰かを傷つけてしまっていることや、自助努力のみで果たしたことではないことを、知ってほしいと思います。そして、弱さを大切に、主流秩序から少しでも外れる生き方や非暴力を実践すること。評論・空論を言うだけよりは、このひどい社会で、いまここから未来社会の中身を先取りするほうがいいと思います。ひとりでも多くの人が、繊細に、適当に、ちゃんと生きてほしいと思います。