いま 米国では 危険な市場主義教育

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チョムスキー・インタビュー

 

C・J・ポリクロニュー(政治経済学者)10月22日「Truthout」

 

翻訳・脇浜義明

 啓蒙主義時代以降の近代において、教育は良い社会を作るうえで最も重要なものとみなされてきた。しかし、現代に入って、ネオリベラル・イデオロギーを反映して、この価値観の人気が落ちたようである。教育は企業社会の必要に奉仕する専門職的・技術的技能修得過程に縮小されてしまった。
 教育の本当の役割、それと民主主義、まともな人間関係、まともな社会との関係は? 文化的でまともな社会とはどういう社会? 以下はそれに関するノーム・チョムスキーへのインタビュー。


──少なくとも啓蒙主義以降教育は人間にとって無知のベールを外し、より良い社会を創造する数少ない機会の一つと見られてきました。教育と民主主義の実際の関係はどんなものですか?
チョムスキー…単純には答えられません。教育の実情にはいい面と悪い面があります。民主主義の機能のためには教育された国民の存在が前提になります。ここでいう「教育された」という意味は単に知識があるだけでなく、自由に生産的に問う能力が備わっていることです。それこそが教育の基本的目的です。この目的は推進されることもあれば、阻害される場合もあります。このバランスを正しい方向へ変えることが現在の米国で極めて重要です。米国は長い間世界一豊かな国でしたが、第二次世界大戦以前には米国はいわば文化的僻地でした。先進科学や高等数学を学びたいとか、作家や芸術家になりたい人は、ヨーロッパへ留学した。それが第二次世界大戦で変化したのですが、一部の人たちに関してだけです。人類史で最重要問題、例えば気象変動を取り上げたくても、米国では国民の40%がそれを重大問題と考えないで、数十年後にキリストが復活してすべてを変えてくれると思っているので、それが障害になります。米国社会文化の全近代的徴候で、他にも多くあります。

──現代世界の主流は市場主導教育で、それが現実に国民の価値観を破壊し、競争、民営化、利潤を強調して民主主義を破壊しています。あなたはどういう教育がより良い平和な世界建設に必要だと思いますか。
チョムスキー…近代教育制度の初期には二つのモデルが時々対置されました。一つは学生という器に知識という水を流し込む教育。もう一つは、教員が設計した糸としての教育。学生は自分なりのやり方で糸に沿って進み、「問いかけ創造する」能力を開発するもの。これはヴィルヘルム・フォン・フンボルトが提唱したモデルです。このフンボルト・モデルをさらに発展させた教育学者がジョン・デューイ、パウロ・フレイレ、その他の進歩的・批判的な学者たちです。フンボルト・モデルはとりわけ科学分野の教育や研究で大切なので、多くの研究大学で当然のように採用されていました。著名なMIT物理学者が新入生の授業で、何を勉強したかでなく、何を発見したかが重要なのだと言ったのは、よく知られています。
 同じ発想が幼稚園レベルでも採用されました。科学分野だけでなく、あらゆる分野で、教育体制全体で採用されていました。私は幸運にも12歳までデューイ式実験校で学びました。その後の進学用高等学校と比べると非常に実り多い体験でした。高等学校は水を流し込む式の教育でした。その方式は現在全米で盛んで、テストのための教育です。本当に「教育のある国民」を育てるためには、テスト用教育を改めなければなりません。あなたが指摘された市場主導教育は不孝なことに米国の現実的傾向で、有害です。それは国民に対するネオリベラル攻撃と解するべきでしょう。ビジネスは「効率」を求めます。つまり、「労働のフレキシビリティ」とグリーンスパンが「偉大な経済」を実践しているときに歓迎した「労働者の不安定化」を押し付けるのです。それが教育現場で具現化すると、教授や教員の長期的地位安定を破壊し、安価で搾取しやすい臨時労働(非常勤講師や大学院生)の利用です。これは労働する側に有害であるばかりでなく、研究、批判的問いかけ、学生にとっても有害です。
 時には、高等教育を民間セクターに奉仕させる風潮は漫画的になることがあります。例えば、ワシントン州のスコット・ウォーカー知事や反動的政治家たちはかつて素晴らしかったウィスコンシン大学をウィスコンシンの経済界の必要に奉仕する教育機関に変え、それと同時に教育予算を削減し、臨時教員に依存する(フレキシビリティ)ようにした。さらに「真理追究」という大学の伝統的使命を放棄─経済界に奉仕する人材育成にとって時間の浪費だとして─しようとしました。あまりにも乱暴すぎたので新聞で批判され、知事たちは案を引っ込めました。けれどもこれは、米国ばかりでなく世界的風潮を象徴する出来事です。英国の同じような風潮を批判して、ケンブリッジ大学教授ステファン・コリーニは、政府は一流大学を三流の商業施設に変えようとしていると言いました。オックスフォード大学の古典学部に商業的価値があることを証明しろと要求するのです。市場からの要請がないギリシャ古典文学なんかを勉強したり研究する必要はないと言うのです。資本家階級の国家資本主義的原則を社会に押し付ければ、このような卑俗化が起こるのです。

生き生きとした労働者教育システムの復権は可能

──米国で無償の高等教育制度を実現するためには何が必要ですか。その延長線上で軍産複合体や刑務所・産業複合体の資金を教育へ移し変えるためには何が必要でしょう。そんなことをすれば、歴史的に確立している拡張主義・介入主義・人種差別的国家の国家アイデンティティの危機になるのでしょうか。
チョムスキー…米国は初期の頃も今と同じように拡張主義、介入主義、人種差別的でした。にもかかわらず、大衆的公教育の発展の最前線に位置し、その点で先駆的国家でした。動機には好ましくない点─独立農民を大量生産産業の歯車の葉にするなど─があったものの、良い面も多くありました。
 最近まで高等教育は事実上無償でした。第二次大戦後の復員軍人援護法は普通なら大学へ行けない何百万人の人々に授業料や奨学資金を提供しました。これが戦後の経済成長に大きく貢献したのです。私立大学の授業料も現在と比べるとかなり安かった。外国では、例えばドイツ、フィンランド、メキシコのような貧しい国でも、高等教育は無料かそれに近い状態でした。同じことが合理的公共医療制度でも言えました。

──産業革命時代資本主義世界の労働者階級の人々は、政治、歴史、政治経済の勉強に熱中しました。それは世界を理解し階級闘争を通じて世界を変えようとする努力の一環としての非公式教育でした。現在ではそういう状況はありません。労働者階級の人々は政治的に無関心になり、空虚な消費主義に埋没しています。
 いや、それどころか、実際には企業や金融資本を支持し労働運動に敵対する政党や候補者に投票しているありさまです。こういう労働者階級意識の変化をどう考えますか。
チョムスキー…そういう変化は明白です。一般にかつての労働者の学習活動は労働組合やその他の労働者階級の団体に依拠し、それを左派政党に関わる知識人が手伝っていたのです─それが、冷戦下の抑圧やプロパガンダ、その後ネオリベラル期に入って資本側が労働と人民側に仕掛けた階級闘争によって、すっかり破壊されたのです。
 産業革命初期のことを思い出す価値はあるでしょう。当時労働者階級は生き生きしていました。それを描いたジョナサン・ローズの『英国労働者階級の知的生活』という本があります。それによると、当時の労働者はよく本を読んでいました。彼は「プロレタリアート独学者の熱心な知識欲」と「英国貴族の俗物根性」とを比較しています。
 米国でも同じような現象があり、例えばマサチューセッツ東部の労働者町ではアイルランド移民の鍛冶屋が若い学生を雇って仕事中に古典を読んでもらったり、工場の女性労働者は、現在我々が古典作品として勉強する、当時の文学作品を読んでいました。彼らや彼女らは産業制度を自分たちの自由と文化を奪うと非難していました。こういう時代は、かなり長い間続きました。
 私は老人で、1930年代の雰囲気を覚えています。私の家族は失業中の労働者階級で、学校へ行くのがやっとでした。しかしみんな当時の高い文化に参加していました。最新の演劇、ブダペスト弦楽四重奏団、精神分析各派、政治運動などを議論していました。有名な科学者や数学者が直接参加する生き生きした労働者教育システムがあったのです。そのほとんどが失われてしまいました…しかし復権は可能です。

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