10・3京大集会に寄せて
東京・学生 鵜戸口利明
4人の学生を懲戒処分した京都大学
ぼくは去る10月3日、京都大学時計台前における集会に行ってきた。立ち上がったのは「京大同学会」「サル化する京都大学を憂うゴリラ有志の会」、ほか「中核派系全学連」「中世の大学の良さを取り戻したいスコラ哲学者有志の会」などの京大生を筆頭に、100人ほど集まった。主旨としては、軍産学の連携(軍事研究)問題、立て看にも書かれている、毎月行われていた「情報公開連絡会廃止」や、「四学生無期停学処分」などの問題があげられる。
4人の京大生無期停学処分とは、昨年10月27日の、反戦バリケードストライキを闘った学生に対する弾圧である(京大でのバリストは数十年ぶりだそうだ)。
昨年夏に強行採決された安保法案も当時まだ施行されておらず、国会前10万人の激しい闘いも覚めやらぬ渦中で、京大生によって打たれたバリストには衝撃を受けた。主催者学生の訴えは、「安倍政権が戦争に突き進んでいるのに、大学は反対しようとしない」と。このバリストに対し京大側は、「学生の教育を受ける権利および教員の教育を行う権利と責任が侵害」されたとして、威力業務妨害罪で刑事告訴。今年3月1日までに全学連6人が逮捕。同月18日に起訴猶予付きで釈放されたが、今年7月19日に大学側は4人の京大生に無期停学の処分を下した。
先だっての集会当日(10月3日)の午前7時過ぎごろ、京大学生有志が時間かけて作り上げた巨大な立て看板が、大学職員およそ50名の手によってブチ壊された。それを知ってぼくが時計台前に行ったのは午前8時前、大学当局が準備した軽トラに看板の破片を積み込んでいるところで、激しい攻防に発展。機動隊が門前に集結し、緊迫した空気に包まれた。幸い破片は取り返すことができ、修復作業。正午には無事集会は開催された。
この日は1日、学生支援部の窓口は封鎖されていた。「諸般の事情により窓口は終日休み」と。対話は受けつけないということだろうか。集会から続いて、大学敷地内、そして大学を囲い込むように敷地外をデモ行進した。
大学の体制からつくられる「日常」そのものが問題だ
そういえば、SEALDsの運動にはよく「日常」という言葉が出てきた。日常に身を置きながら、日常の中から奪われた政治性の奪還がモチーフだったのだ。だが、この一見堅実にして遅々たる闘いとは対蹠的なスタンスで日常を俎上にのせているのは、全学連である。デモ後、京大集会に参加した人が集って集会をひらいた。
参加者の中から、「日常生活を無視すると見放される。激しくなればドン引きする」という発言があった。無理からぬことだ。現に昨年のバリストでバリケードを解体したのは京大生であった。
一方、全学連や京大同学会が主張したのは「日常の共同性」だったとおもう。概して、日常の中から共同体意識が破壊されていると言っているように受け取った。会議で配布された資料の中に、バリストの意義が書かれている、「京大同学会中執が先頭に立って行われたストライキは、まさしく今の大学の体制―そこからつくられる『日常』そのものを問題にすることにあった。技術に色はないが、『何のために』『どのような』技術に金と人材を投入するのかの決定権が、ほんの一部の官僚・財界に握られている現状を覆すため、デモや集会という方法を超え、バリケードストライキという方法を同学会は決断した」(ゴシックは鵜戸口)と。
いま、この国の5割以上の大学生が奨学金に頼らざるをえず、経済的理由による大学中退者数は(中退者の20・4%―文科省統計2012年値)過去最大に陥っている。自分の生活保身に汲々としている学生が多いだろう中、バリストという手法が果たして自治的な共同スペース構築の端緒になりうるか甚だ疑問だが、全否定する気はない。
今やこの国の大学では、かつてのような活気が大学サークルから失われているし、長らく大学と相互依存関係で存続してきた学生自治会も、中曽根政権下に臨時教育審議会が設置されたのを嚆矢に、90年代における大学改革をもって完全に崩壊していった。いま全学連のいる沖縄大であれ広島大であれ、大学公認の自治会は存在しない。ノンセクト系学生団体「直接行動」(旧ハンスト実)の闘いも、拠点は自治会ではなかった。もはや学生の日常空間は、大学ではなくなっている。
それはまさに、安保関連法反対運動で昨年隆盛をきわめた学生運動の「日常」がキャンパスには存在しなかったことに表徴されているようにおもえてならない。そして60年安保の時と同じく、大学教員と学生との共闘でもあった。
グローバル資本とネオリベの市場原理主義政策でプレカリアートを大量に生み出し、労働環境はボロボロになって久しい。アンダークラス、パラサイト・シングル予備軍たるぼくら学生と、アッパーミドル・クラスに位置する大学教員との不可視な壁を具現化したのが、京大における闘いのバリケードと、コミュニケーション不在の壁だったのだろうか。