田畑 稔(季報『唯物論研究』編集長)
<田畑稔さん>季報『唯物論研究』編集長、大阪哲学学校世話人、21世紀研究会代表世話人など。主著に『マルクスとアソシエーション』(新泉社、1994年)、『アソシエーション革命へ』(共編著、社会評論社、2003年)などがある。
「国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。『外国から攻撃されている』と説明し、平和主義者については、『愛国心がなく国家を危険に晒す人々だ』と非難すればいい」。(ナチスドイツ国家元帥 ヘルマン・ゲーリング) 戦後71年。中国脅威論、東京オリンピック、日本会議をはじめとした右からの草の根運動など、ナショナリズムが強化され、日常社会にも広く浸透している。
今回、田畑稔さんにナショナリズムをテーマにインタビューした。2回連載の今号では、(1)世界・東アジアの政治・思想対抗が大きく再配置されていること、(2)ナショナリズムは神社本庁など複合体として機能していること、(3)ナショナリズムのテーマを類型化したうえでの日本ナショナリズムの特徴について伺った。(文責・編集部)
思想配置の移動について
私どもの出している季報『唯物論研究』では昨年2月に発行した130号で「日本イデオロギーの発信者たち」を特集、私自身も「「戦後レジームからの脱却」をめぐる思想の対抗・覚書」を書きました。これは、安倍晋三の国家主義者・日本ナショナリストの側面を包括的に論じようとしたものです。そのとき現在の日本ナショナリズムを論じる際にぜひ留意すべき点をいくつか提起しております。
第1は、日本におけるナショナリズムの活性化を、一国的現象としてではなく、世界と東アジアと日本におけるポスト冷戦期の政治対抗や思想対抗の大きな配置移動の中に置きいれて見ておくことが必要だということです。「社会主義世界体制」の中核をなしたロシアも中国も、権威主義国家や一党支配体制を残したまま資本主義発展を遂げ、国家権力の正当化根拠は「超大国ナショナリズム」(国富と国威の拡大)に代わったと言えます。
両国は、国連での拒否権や核兵器独占が示すように、弱体化しつつあるUSAによるグローバル・ヘゲモニーとの直接の全面衝突は回避しつつも、旧来の「帝国」を継承する「領域的ヘゲモニー国家」の道を歩んでいると見られます。とりわけ資本主義の不均等発展の著しい中国は、内外に多くの衝突を抱え、また南シナ海や東シナ海での海洋進出や基地建設を進めて、東アジアでのナショナリズムの相互エスカレーションを呼び起こしています。
しかしまたハンガリーやウクライナや韓国や北朝鮮など多くの周辺部半周辺部諸国家も、「体制選択」からナショナリズムへのシフトが顕著にみられるのです。さらにヨーロッパやUSAで顕著なように、経済のグローバル化に伴う国境を超えた労働力の大規模な移動やIMFやEU官僚による財政規律強要が、現地住民の排外ナショナリズム的リアクションを生んでいる面もあります。
日本ナショナリズムの強まりも、(その国内的要因も無視できませんが)まずはこれらに連動するものと見なければなりません。事柄の核心を見れば、まるで他人事のように「中国脅威論」を煽って済むような話ではないのです。現に国家主義者でありナショナリストである安倍晋三の政権自身、明らかにこれらを「追い風」にしているのですから。
複数のナショナリズム
第2は、フランスの政治学者ラウル・ジラルデが確認するように、日本ナショナリズムも含め、ナショナリズムは「複数のナショナリズム」からなる複合体だということです(『現代世界とさまざまなナショナリズム』晃洋書房)。反米日本ナショナリズム、そして在特会のような露骨なヘイト・スピーチ集団は、今のところ周辺的位置を占めているにすぎません。
まず注目すべきは、日本ナショナリズムの連合組織である「日本会議」(1997年結成)です。この組織が安倍政権を支え、また右から、そして地域や地方議会から国政に圧力を加えている姿が突出しています。この組織を地域的宗教的地盤で支えているのは神社本庁に結集する神道勢力ですが、運動論と組織面、実務面でこの組織を牛耳り、安倍晋三周辺にも政治家やブレーンとして張り付いているのは、谷口雅春率いた国粋宗教団体だったころの「生長の家」の右翼学生運動上がりの人たち(椛島有三、衛藤晟一、伊藤哲夫、百地章、高橋史郎ら)です。
侵略戦争否定、押し付け憲法脱却、靖国国家護持などの復古主義的立場をとる政治家は自民党議員の中でも必ずしも多数ではありませんが、「日本会議国会議員懇談会」メンバー281人の9割が自民党員であるとされます(青木理『日本会議の正体』平凡社)。
安倍晋三はこのような右翼勢力を政治基盤、思想的基盤としていますが、政策的基盤は外務省や経産省の「革新官僚」にある。この両面には、衝突も孕まれています。右翼政治家は総じて視野が狭く政策的に無能ですが、安倍内閣によるメディア統制、言論統制、教育統制の面での「行動力」は無視できない。
「国民統合の象徴」としての天皇や皇族も、日本ナショナリズムの要にあります。現天皇は二代目の象徴天皇であり、「国民の苦しみや喜びに寄り添う形で象徴天皇制を実質化しようと努力してきた」と語っています。つまり、神道勢力や日本会議や安倍晋三よりはるかに広い枠組みで「国民」としての一体性の感情を喚起することが、日本の国家権力ブロック内での天皇の役割なのです。現天皇への期待や幻想は広く確認できますが、果たして今後海外での戦闘で大量の「国家死」が生じたとき、象徴天皇がどう機能するか、注視しておかねばなりません。
日本ナショナリズムのテーマ
第3は、日本ナショナリズムは何に関心を持っているのか、これもしっかり見ておく必要があるということです。ジラルデは、ナショナリズムは、(1)主権のテーマ、(2)統一のテーマ、(3)歴史のテーマ、(4)普遍化のテーマの、4つのテーマを持っていると見ています。
主権のテーマでは、尖閣諸島や竹島や北方領土紛争、拉致事件、「自主憲法制定」を訴えます。尖閣問題に火をつけ日中関係を悪化させたのは、石原慎太郎ら右翼ナショナリストでした。しかし、沖縄に巨大な米軍基地を抱え、USAの世界戦略に日本全体が組み込まれているのに、反米ナショナリストは政治勢力としては皆無に近いのも、現在の日本ナショナリズムの特徴です。
統一のテーマでは、天皇や国旗国歌による象徴儀礼、愛国心教育へのこだわりとして現れます。このテーマでは、統一を拒むものへの激しい攻撃が伴い、卒業式の国旗掲揚で起立しなかった先生は監視され告発され処分されるべきだと主張されるのです。「国」への狭隘な愛着から内外の「敵」に対する溢れるばかりの攻撃性を汲みだしてくるのは、ナショナリズムの最大の危険でしょう。
また「琉球独立論」も、この統一テーマにかかわっています。アイヌ民族や琉球王国を武力で支配し植民地化したという歴史。これを覆い隠してきた統一国民国家「日本」の欺瞞性。「琉球独立論」はこれを暴いています。沖縄県民が望まない巨大な米軍基地を、日米両国政府が頭越しで決定し続けているのです。「琉球独立論」は、支配する側と支配される側の非対称なナショナリズムという重大な問題も突き付けています。
歴史のテーマでは、日本ナショナリズムは、現在も混迷を極め、自信もなく、世界中から不信の目で見られています。とりわけ先の戦争についての日本ナショナリストたちの認識は、島国でしか通用しない単なる「身内のイクスキューズ」にすぎません。世界で通用するようなデータ蓄積や学問的叙述や妥当な歴史評価とはほど遠い。「自虐史観」とか「東京裁判史観」とか他者を攻撃していますが、他者批判で自分たちの無能力をごまかしているだけだということは、読んでみたらわかることです。
理由もはっきりしています。天皇をはじめとする先の戦争の責任あるリーダーたちが、USAの反共シフトで生き延びたからです。神社本庁や谷口雅春も、それに便乗したということです。とは言え、侵略戦争も認めず、建国記念の日を制定し、万世一系を世界に誇るべき「国柄」と語る安倍晋三ら日本ナショナリストたちが、本気で東アジアの未来を考えているとは思えません。
世界に誇るべき普遍化のテーマについても、混迷しています。ナショナリズムは「多幸的」局面と「嫉妬」の局面を持ちますが。ヴォーゲルの『Japan as No.1』が出たのが1979年ですが、2008年には日テレ報道部が『Action日本崩壊』を出しました。四半世紀にわたるゼロ成長に近い停滞が続き、GDPで中国の半分になり、貧困層が拡大し、高齢化と人口減少も続いています。このころから、嫌韓論や嫌中論や在特会など低劣な排外ナショナリズムが出てきます。
安倍晋三は中国批判をするときには二言目には「自由、人権、法の支配という価値の共有」を言いますが、もし本音でそう考えるなら、自由民権運動や大正デモクラシーや戦後民主化や日本国憲法を日本のアイデンティティティーとしてとらえ、言論弾圧や植民地支配や侵略戦争や戦時動員体制を日本の負の歴史として把握しなければならないはずです。ところが、彼の歴史観は正反対になる。つまり付け焼刃なのです。また、彼らにとって憲法9条や専守防衛や非核3原則なども、「誇る」べきものではなく「克服」すべきものです。
次号では、これに対抗すべきポスト資本主義の新しい思想と運動について話してみたいと思います。