私立高校教員・サパタ
「最底辺」の高校の新年度が始まった。授業料免除関係で親から預かった書類を見てあぜんとした。クラスの生徒の半数近くの世帯収入は200万円以下だった。それも母子家庭や生活保護世帯が多くいた。自分の知らない世界、会いに行こうとしなければ会えない世界がそこにあった。自分はこの10代たちの存在に何を残し、何を受け取るのだろうかと思った。
ちっぽけなプライドにしがみつく教員たち
授業の最初に「先生と呼ばなくてもいい。苗字だけの『呼び捨て』でも、好きな呼び方でもいい」と伝えた。「先生」と呼ばさせる関係に疑問を持っていた。学校は自発的な学びの場ではなく、生徒と対等な関係を築こうとしない。「先生と呼べ」と強制する雰囲気が嫌だった。恐る恐るだが、自分を苗字で呼ぶ生徒が出てきた。他の教員の前でもわざと「〇〇」と苗字で呼ぶ生徒も現れた。それを聞いた他の教員はムキになって大声で「先生を呼び捨てにするとはどういうことだ!」と怒鳴り声を上げた。
自分が教員になって驚いたのは、教員の多くが強烈な罵声をまくし立てることだ。怒鳴り散らすことで相手を圧倒する技術を持っていた。一部の生徒は「怒りではなく、虚勢にしか過ぎない」ことを見透かすように、自分の苗字を他の教員の前で呼ぶことで抵抗していた。教員というものは「先生」と呼ばないと、プライドが傷つけられたようにひどく怒る。そんなちっぽけなプライドなんか吹き飛んでしまえと思った。
授業は「教師なんか敵なんだよ」「うちらみたいなあほになにやっても無駄やで」という言葉を浴びながら始まった。小中学校にかけて教員たちにばかにされ続けたことで、悔しさと諦めの思いを抱いていることが伝わってきた。自分は身振り手振りを駆使して、一人でコントのような授業を必死にやった。
その中で、好奇心を示す生徒が現れた。その生徒は、茶髪で登校し15日間の停学を受けていた。椅子と机の小さなスペースでは収まりきらないように、体を動かすか、口を動かさずには居られないエネルギーに輝くものを感じた。職員室に帰ると、「あの生徒は落ち着きがなくて困る」と指摘していた担任教員と衝突している様子が垣間見えた。他の授業でも問題児扱いされ、その生徒はすぐに学校を辞めてしまった。
通じ合った生徒が次々に辞めていく
毎日通学できないある生徒は、「次の授業も楽しみにしてる」と、自分の授業で好意的な反応を返してくれた。しかし、学校が飲酒通報による無期停学を下したことで、欠席日数が7週間の進級可能ラインを超え、退学していった。
自分と通じあった生徒は、真っ先に次々と辞めていった。その後も「この学校は無理」と生徒たちがボロボロ辞めていくことに衝撃と寂しさを受ける一年だった。他の教員は、単に「当たり前だ」と見ていた。むしろ、職員室では「問題のある生徒は整理する」と積極的に退学に追い込むことが公然と語られた。
生徒たちは揃って「この学校には自由がない」と叫んでいた。登校すると、生徒指導部長が仁王立ちで立っていて、スカート丈を少しでも折っていると一瞬で見抜いて、直すまで校門を通過させなかった。携帯電話も持ち込み禁止で、教員は生徒の8割以上が持ち込んでいる事実を知りながら、常に摘発する気満々で生徒の様子を伺っていた。
「人間扱いの差」に憤る日々
極めつけは、各教員に与えられた「個票」だ。生徒の口答えや制服の着崩し、授業中に寝ていたりすると、名前が書き込まれ、生徒指導部に集められる。3枚を越すと終礼後、教員に一週間呼びだされ、それ以上だと保護者呼び出しなど、処分の段階が上がっていく。
生徒からは授業中に「個票は脅迫だろ? 教員が脅迫していいのか」と問われた。生徒たちに「おかしいと思っていることは、本当に重要なことだがら、大切にしてほしい」と語ることで精一杯だった。
心の中では、「底辺校」の10代が人間扱いされず、こんなに踏みにじられているのかという現実にショックを受けていた。「進学校」との、人間の扱いの差と現実が、知られていないことに憤りを覚えた。
ふたつの視線のはざまで
「生徒を監視するこんな『仕事』をいかにサボタージュするか?」と意識しながらも、簡単ではなかった。携帯電話の音が授業中になると、「音聞こえたと思ったけど、うーん、気のせいやな」と流すと、多くの生徒は拍手喝采だったが、授業後にある生徒が不信の眼差しで「携帯が鳴ったのに、なんで取り上げないのですか」と聞いてきた。校則を信じ、必死で守ろうとする生徒が少なからずいた。校則を忠実に守ることで、学校社会になんとか適応し生き抜こうとしていた。
監視と脅迫への抗議の視線と、「学校」を信じようとする2つの視線の中で、自分は立ち往生した。それはまだ、ほんの軽いエピソードに過ぎなかった。この2つの視線は、生徒同士の相喰い合うような様相を示すことになる。
それは「密告」だった。
(続く)