アメリカ大統領選の行方(後編)

民主主義から逆走する選挙制限法=身分証明書法

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ノースキャロライナ州立大学教員 植田恵子

 今回の大統領選挙でもっと注目すべきは、身分証明書法が初めて施行される選挙であるということだ。2013年に投票権法(Voting right act) が廃止されるや否や、ノースキャロライナを含む36州(特に共和党の強い南部)で身分証明書法が通過し、いよいよその効力が試されようとしている。表向きはなりすましによる不正投票を防止するためだと言うが、有権者から投票権を奪う策略であり、民主主義に真っ向から対立すると批判する声が高い。

身分証明書法とは?

投票の際に州が指定した写真付き身分証明書(ID)を提示すべし、という法律である。法律の内容やIDの種類は州によって異なるが、ノースキャロライナ州の場合、その制限が他州よりも厳しく、州発行の運転免許証、軍隊IDカード、退役軍人IDカード、インディアン証、パスポートのいずれか一つが必要だ。これらがなければ、州が発行するIDカードを持参すべし、としている。選挙権があってもIDなしには投票できない選挙制限法である。

きっかけとなった「投票権法」

 投票権法は、1965年に公民権運動の中で生まれた。連邦政府は、黒人やマイノリティの投票権を守り、州が勝手に選挙法を改定しないよう監視する、という主旨に基づいて作られた法律だ。この法律によって、黒人の投票を阻む識字テストや人頭税は廃止され、選挙権が平等に拡大されることになった。
 ところが、連邦最高裁は2013年に、「アメリカにはもはや人種差別は存在しない」という判断を示し、投票権法は廃止されてしまった。その結果、2010年の中間選挙で共和党が圧勝した多くの州は、矢継ぎ早に身分証明書法を通過させた。

IDカードを持っていないのは誰か?

 学生、高齢者、低所得者(黒人やラテン系アメリカ人)、そしてマイノリティたちだ。IDカードリストの中には州発行の州立大学の学生証が含まれておらず、身分証明証とは認められていないため、学生が除外される。また、他州の運転免許証も認められないので、州外出身の学生は免許証もIDとして使えない。そのほか、州公務員IDカードも対象外だ。
 このカテゴリーの人々の中には免許証のない人が多い。免許を取得するには、車がなくても自動車保険に加入する義務がある。年およそ800ドルの保険が払えなければ免許は取れない。
 言い換えれば、州が定めるIDカード保持者とは、多くはパスポートや運転免許、退役軍人IDカードなどを持っている白人である。

州のIDカードを手に入れるには

 社会保障番号カード、出生証明書、パスポートをはじめとする長いリストのうち2種類の身分証明書を準備し、本人が州車両局に出頭しなければならない。州のIDカード発行は無料だが、手続きの過程でお金も時間も、そして何よりもストレスがかかる。
 州外出身者でノースキャロライナ州立大学に入学したローガン・グラハム君は、選挙に備えて、州車両局に州IDカードの交付に訪れた。ところが、窓口で「IDカードはここでは発行していない。選挙管理委員会に行ってちょうだい」と追い払われた。バスを乗り継ぎ、選挙管理委員会に着くと、「いやいやそれは州車両局の仕事だ」と言われ、また来た道をバスで州車両局に引き返した。しかし、その日は窓口が閉まってやってもらえず、翌日出直すことに。翌日は2時間待ったものの順番が来ず、クラスの始まる時間になり、諦めて大学へ戻る。3日目にやっと3時間待ちでIDカードを手にすることができた。
 彼は身分証明書として大学の成績証明書が使えると知り、手数料12ドルで発行してもらったのだが、あちこちたらい回しにされた6時間を州の最低賃金(時給7.25ドル)に換算し、成績証明書の12ドルを足すと、55ドルになった。この経験から、IDカードを取得することは至難の業であり、「州IDカードは無料ではない、人頭税だと感じた」と言う。
 85歳になるサウスキャロライナ在住のアフリカ系アメリカ人・エサリンさんは、1964年から投票している。免許証を持たないエサリンさんは、州のIDカードを得るために出生証明書を請求した。しかし、出生証明書の交付には身分証明証が必要で、そんないたちごっこをしている間に2年が過ぎた。書類集めに86ドル、家族の手を借りて州車両局に2度も通い、IDカードをようやく手に入れたが、悪夢だったと言う。

民意が反映されない民主主義

 交通手段のない田舎に住む人、仕事や病人を抱えた人々が、この複雑なプロセスを経てIDカードを手に入れることは、難しい。多くの法学者は、「この法律は経済的心理的バリアを築く投票権障害法だ」と批難している。

民主党支持者を抑圧する法律

 この法律のターゲットになっている学生、高齢者、低所得者、マイノリティとは、主に民主党支持者だ。アメリカでは、大統領選の年はお祭り騒ぎで盛り上がり、投票率は上がるが、その間にある中間選挙の投票率は極めて低い。特に若者が投票せず、相対的に、共和党支持者である中高齢者の投票率が上がるので、大統領は民主党でも、地域は共和党支配の州や市町村が増える。共和党はこの選挙サイクルをうまく利用して地盤を固め、反対派支持の若者や低所得票を抑える選挙法を作り上げていった。

他にも多くの抑圧条項が存在

 実は身分証明書法には、IDカード以外にさまざまな抑圧条項が詰まっている。例えば、今まではどこの大学でも選挙の当日はキャンパス内の学生センターが投票所になり、学生たちは授業の合間に投票できた。2012年を例にとると、州立大では1万3000人の学生が投票した。しかし、今年はバスも通らない4.2キロ離れた場所に投票所が移され、そこまで出向かなければならない。
 早期投票期間も短縮され、日曜日はなくなった。土曜日は1時で窓口は閉まる。土曜日の午前中と言えば、学生はまだ寝ている。
 アメリカでは、有権者は選挙の1カ月前までに選挙登録をしていなければならない。必要書類を添えて選挙登録用紙を郵送するか、州車両局に本人出頭で行なう。以前は、18歳以下でも州車両局で免許証を受け取る際、ついでに選挙登録手続きをすませ、18歳になったら、自動的に投票ができた。が、それも中止された。
 また、共和党に有利な選挙区改正で、選挙区はアメーバーのような形に分割され、州の地方公共団体選の1700議席は対抗馬のいない共和党の牙城となった。

人々の声を反映するシステムを!

 3月15日のノースキャロライナ州の予備選では、IDカードを持たない有権者が21万8000人(5%)いたそうだ。その多くは民主党を支持する若者、初めて選挙登録した人やマイノリティだった。この法律によって、投票率は2%下がったと言う。
 「たった2%」と言う人は思い出してほしい。2008年の大統領選で、オバマは1万4177票(0.32%)差でノースキャロライナ州の票を勝ち取ったことを。ノースキャロライナのような激戦区では、僅差が選挙の動向を大きく変える。
 であればなおのこと、支持党いかんにかかわらず、できるだけ多くの有権者の声が反映されるシステムを作り上げる、それが民主主義社会の基本でなければならない。
 日本では戦争法反対が声高に叫ばれながら、安倍王国はきな臭い方向にひた走っている。民意の反映されない民主主義の綻びは何なのか、日本もまた洗い出してみる必要がありはしないだろうか。

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