ルネサンス研究所7月定例研究会 テーマ「マルクスから考えるフーコー『生政治の誕生』の可能性」


イベント詳細

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7月13日(火)18:30開始(3時間弱)
オンライン研究会(参加予約を頂いた方に招待メールを送ります)
資料代:無料
報告者:境毅(メール版ASSB主宰者・経済学研究)
主催:ルネサンス研究所
連絡:ご参加を希望される方は、次のメールアドレスに「参加希望」と書いたメールをお送りください。renaissanceinstitutetokyo@yahoo.co.jp
折り返し確認のメールをこちらからお送りします。
また、当日の開始時間(18:30)直前にこちらから「招待メール」をお送りしますので、招待メールの指示に従ってオンライン研究会の会議室に入室してください。
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ルネ研は7月もオンラインで定例研究会を開催します。今年度は5月に生政治(バイオポリティクス)、
6月にワクチン接種にからむ政治力学や倫理問題について考えるというテーマで定例研究会を開催しました。やはり哲学者ミシェル・フーコーの仕事は重要だということが再確認できました。
今回は、晩年のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義録(1978-79年度)『生政治の誕生』(筑摩書房)を取り上げ、
マルクスの資本理論との関係を考えることで、フーコーをどう再読したら良いのかについて議論します。
筑摩書房 ミシェル・フーコー講義集成 8 生政治の誕生 ─生政治の誕生 コレージュ・ド・フランス講義1978─1979 / ミシェル・フーコー 著, 慎改 康之 著 (chikumashobo.co.jp)
フーコーは『生政治の誕生』において、実は真正面から生政治を論じることをしませんでした。むしろ生政治について本格的に論じるための準備作業として、
「国家理性に対立するものとしての」「自由主義体制」について、そして20世紀の様々な経済学(ドイツのオルド自由主義や米国の人的資本論)に多くの時間を割いて論じました。
表題と内容のこうしたズレがフーコーの本書の理解を難しいものにしています。
今回は京都で長く在野の理論活動を続けてきた境毅さんを招いて、マルクスの視点から晩年のフーコーの自由主義論の可能性について語っていただきます。
境さんはかつて「榎原均」の筆名で『資本論の復権』(鹿砦社、1978年)を刊行した気鋭のマルクス研究者でもあります。
本書は、国際的にみてもアントニオ・ネグリ『マルクスを超えるマルクス』(1979年)や米国のハリー・クリーヴァー『資本論を政治的に読む』(1979年)と並び、
1960年代後半の政治闘争や社会運動の高揚をうけて始まり1970年代後半になって結実したマルクスを階級闘争の理論家として読み直す重要な仕事のひとつとして位置づけられます。
そうしたマルクス研究者の視点から見ると、晩年のフーコーの仕事はどう評価できるのか、統治論や国家論に焦点を当ててお話をきくことになります。
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私はフーコーについては論文を書いていません。しかし、気になる思想家でしたので、ノートはとっていました。
5月の定例研究会で中村勝己さんが、フーコーについて報告されるということで、事前にレジュメをいただいた時に、自分のノートを再読してみました。
私の関心は「生政治」にはなくて、統治論や国家論批判にあることがわかりました。中村さんの報告で「生政治」についての理解が進みました。
そしてお話を聞いているうちに、統治論と国家論批判についての私の理解について報告したくなり、報告させていただくことになりました。
フーコーの統治論は、現在の統治に限らず、社会主義(いい意味での)社会の統治論にも言及していることです。
また、国家論については、「国家は本質をもっていない」という理由で国家論を論じること自体を無意味なこととして退けています。
張一兵の『フーコーに帰れ』(情況出版)も翻訳されましたが、中国ではフーコーは人気があります。
生存権が保障されながらも監視社会のなかにいる中国人にとってのフーコーの意味についても考察してみます。

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