ペシャワール会中村哲さんを悼む
初めて中村哲さん(1946~2019年)と会ったのが1999年秋、毎日新聞大阪本社での講演会だった。
インドの西端にあるパキスタンは日本人にとって辺境であり、さらに辺境の山岳地帯でハンセン病患者を見つけ出して治療にあたっていた頃だった。なんと奇特な人と思った。中村さんがパキスタンに行ったのは1978年、福岡登高会のヒンドゥークシュ山脈の最高峰ティリチ・ミール遠征隊付きの医師としてだった。巨大な白峰に圧倒され、人の小細工を超越して君臨する力を感じ取り、「全てのものが壮大な自然をとおして啓示される力の前にひれ伏しているように見える」という(『ベシャワールにて』1989年)。ここに既に生涯を貫く思想が息づいている。
キャラバンを続ける途中、辺境の病人たちに「待ってください」と追いすがられても見捨てざるを得ず、医師としての負い目を抱いたまま帰国、やがて導かれるように、1984年5月、日本キリスト教海外医療協会から派遣されて、アフガニスタンと国境を接するパキスタンの旧称北西辺境州でハンセン病撲滅計画の一端を担うことになる。医師仲間が「哲っちゃんのため」物心両面の支援活動を始め、ボランティアによる「ペシャワール会」が発足した。
私が入会したのが1999年で、2001年2月にペシャワール会の現地スタディツアーに参加。西欧文化の強い影響下にあった私(当時63歳)が初めてイスラームの国に身を置いた。その頃、中村さんは、中央アジアを覆う大干ばつ下、命の水を求めて井戸掘り事業を精力的に展開していた。
2002年3月、バーミャンの石仏破壊、アメリカでの9・11、報復としてのアフガニスタン空爆と、世界は様相を一変する。大量に発生した難民救済のため中村さんとペシャワール会は、拠点をアフガニスタンに移して農地回復のため潅概事業を始めた。
このため独学で土木工学も学んだ。無数の困難を経て、現地にその一事業が根付き始めた矢先、2019年12月4日の銃撃死。アフガンの人びとにとって、余人をもって代えがたい痛恨の死であった。
シャワール会大阪 加藤勝美)