【時評短評私の直言】ナショナリズムを 飼い慣らすことができるか 阪南大学准教授 下地 真樹

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歴史修正主義に毒される日本

 2018年10月、韓国大法院が徴用工問題について、植民地支配の不法性を踏まえつつ個人請求権を認め、日本企業に賠償を命じる判決を出した。言うまでもないことであるが、事態の本質から考えても、昨今の国際人権法の世界的潮流から見ても、まっとうな判決としか言いようがない。ところが、この判決をきっかけに日韓関係は急速に悪化し、今なお関係改善の糸口は掴めていない。  

状況の異常さを際立たせているのは、日本におけるこの問題に関する論調である。どういう立場を取るにせよ、相手方の主張をできるだけ正確に理解するよう努めるのは、基本中の基本のはずだ。ところが、そのような知的誠実性はどこにも見られない。「韓国は約束を守らない信用ならぬ国だ」という言い捨てのプロパガンダが垂れ流され、そうだそうだと付和雷同が付き従う。異様としか言いようがない。  

排外主義的な、ファナティックな、ナショナリズム。こんなものは拒絶以外にありえないと思うのだが、一つ問題がある。私たちが拒絶するのは、問題のある一部のナショナリズムなのか。それとも、ナショナリズム全体なのか。  

ナショナリズムには、国民や民族の物語、神話が伴う

最近は、「ナショナリズムを全否定すべきではない」という意見が増えてきているように思う。第一に、素朴な愛郷心、パトリオティズムのような面については、共感する人も多いのだろう。第二に、かつて植民地にされた地域に住む人々の「抵抗のナショナリズム」への共感もあるかもしれない。つまりは、「良いナショナリズムと悪いナショナリズムがある」、「ナショナリズムは悪い面もあるが、そこをうまく制御することが大事」、そんなふうに整理できる。  

現実にナショナリズムが広く支持を集めていることへの諦念もあるかもしれない。スポーツイベントのたびに打ち振られる国旗、あるいは「新天皇即位」に伴う狂騒を見るに、少なくとも短期的にはナショナリズムと付き合っていかざるをえないのかな、という考えもわからないではない。  

しかし、ナショナリズムを飼いならすことは可能なのだろうか。ナショナリズムが排外主義に反転してしまう。その原因の一つは、ナショナリズムが科学的思考や学問的手続きを尊重しない傾向性にある、と私は思う。なぜそうなるのか。ナショナリズムには、国民や民族の物語、神話が伴うことが多い。そこには明らかな嘘が含まれることもある。たとえば、「万世一系」だの「現存する世界最古の王朝」といった話であるが、これらは歴史学的には到底支持できない。しかし、ナショナリズムの側から見れば、こうした誤りをいちいち指摘する実証的な歴史学は、邪魔もの以外の何物でもないのだろう。  

だから、ナショナリズムにはしばしば、客観的知識の探究という学問の営みそのものを軽侮したり、敵視したりする傾向がある。そして、この傾向性は、人の話を聞かず、都合の悪い情報は無視したまま、自己の立場に固執する態度につながるのではないか。他者が生きている現実や過去の経緯についてきちんと知ろうとする知的誠実さを失うのではないか。  

歴史修正主義あるいは反知性主義と手を切ること

そう考えてみれば、現在の日本人の大多数が徴用工問題(だけではないが)に対して見せている知的態度こそ、まさしくこれである。ナショナリズムを飼い慣らすことが本当に可能なのだとすれば、その最低限の条件は、こうした歴史修正主義あるいは反知性主義と手を切ることだ。しかし、マスメディアや多くの現職政治家までもが歴史修正主義に毒されている日本の状況を見る限り、ナショナリズムを飼い慣らすことなど、少なくともこのままでは到底無理だ。  

これは日本にかぎった話ではない。沖縄であれ他のどこであれ、統合のための神話を優先して真理に対する謙虚な態度が失われることになれば、同じ轍を踏むことになるだろう。つまりは、本気でナショナリズムを飼いならそうとすることは、ナショナリズムを拒絶することと比べても、そこまで簡単というわけではない。

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