虐待事件が続くが、やるべきことはやっていた、認識が甘かった、徹底されていなかったなどの決まり文句で、責任があいまいにされている。メディアや市民の多くは、警察や児相職員へのバッシングでうっぷんを晴らす。専門家はそれをたしなめて、個人を罰してもダメだという▼虐待を認めない、問題が発覚したところからの逃亡的な引越し、どう喝、妻へのDV、転校、長期欠席など、多くの虐待の兆候があったのに、それを見逃してきた者たちの責任が重くは問われていない。こうした状況を変えるためには、個々人の責務の明確化と処分の厳罰化が必要である。従来の総括や検証の仕方はあいまいで、誰も責任を取らない生ぬるい精神論であった▼組織としての総括だけでなく、個人の結果責任も問うべきだ。虐待通報などに対して「会えなかった」ではなく「会うためには何をすればよいか」を考えて行動し、『結果=会うという結果』を残すのが仕事だ。仕事をするということは、結果責任を負うことである。各人が自主的に動いてこそ、組織は実質的な能力を持つのであって、そこがなければどんな制度改革をしても同じ過ちを繰り返す。 (H)