進行する退行―ヨーロッパ的社会政策の変貌 翻訳:脇浜義明

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ヴォルフガング・シュトレーク  出典:『ニューレフト・レビュー』118、2019年7~8月号  (原注は省略)

欧州連合(EU)ほど大変化を急激に連続して行った政治体は世界史上稀有である。元々戦後の国家管理資本主義という文脈の中で、隣接し合う六か国(訳注1:仏、西独、伊、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)が共同経済プロジェクトして作ったものが、「域内市場」の名のもとで、次第にネオリベラル・インターナショナリズムにのめり込み、一つの自由貿易圏になったのである。

加盟国の数と不均質性が増大するにつれ、「積極的融合」に代わって「消極的融合」―つまり市場化色が強くなった。EU内の自由な通商の障害となる加盟国が実施する規制を排除したのである。

1989年にソ連ブロックが崩壊した後は、米国の対ロシア戦略と密接に絡み合った地政学的プロジェクトの性格を帯びる方向へ向かった。EUは、僅かな主要経済部門を共同で管理運営する数か国の連合体から、今や28か国から成るネオリベラル帝国にまで発展した。加盟国は財、サービス、資本、労働の域内自由移動を認め、自由競争の妨害となるような経済的介入をしないように義務付けられている。  

「ヨーロッパ・プロジェクト」のこのような連続的変化を象徴的に表すのがヨーロッパ的社会政策である。以下、それの変遷―社会民主主義的連邦福祉国家というヨーロッパ・プロジェクトからグローバル市場へ競争的に適応するためのヨーロッパ装置へと変化していったヨーロッパ的社会政策の軌跡を、歴史学でいう「長期持続」視点で分析する。

しかし、まず「ヨーロッパ的」と「社会政策」という言葉を少し説明しなければならないだろう。EU内で形成されている、あるいは反対に崩れつつあるヨーロッパ統治システムは、いわば珍獣である。まず第一に、時とともに深く絡み合う加盟諸国の国内政治が存在する。第二に、まだ主権国である加盟諸国は、欧州間国際関係で外交政策を通じて国益を追求する。第三に、その際に加盟諸国は、様々な超国家的機構に依存するか、あるいは任意の国家間で交わした協定や合意に依存するか、あるいはその両方に依存するかを選択する。第四に、28加盟国のうち19か国から構成されている欧州通貨連合がスタートしてからだが、新しいヨーロッパ的国際関係領域が出現した。

その主たるものはユーロ圏各国の財務相による会合であるユーログループのような、非公式な任意国家間機構である。超国家的EUはユーログループを疑惑の眼で見る立場であるはずなのだが。第五に、これらすべてが国ごとに異なる地政学的位置や戦略的地政学的利益のマトリクス、一方では米国との結びつき、他方ではロシア、東欧、バルカン諸国、東地中海諸国、中東諸国との結びつきという複雑な地政学的マトリクスの中に嵌め込まれているのだ。最後に、ヨーロッパ的システムの中心部では二つの主要国家、フランスとドイツの間のヘゲモニー争いがある―両国はそれを否定しているが。  

以上で述べた諸要因のために、どこまでが「ヨーロッパ的」政策なのか、その範囲や実行過程を明確に区別することは困難で、結果に対する責任のありかを定めることも困難である。政策立案にかかわる利害、動機や構え、関与水準と、実行する団体やその立場など諸問題が複雑に詰め合わされているのだ。何らかのヨーロッパ的公的領域がない場合、たいてい密室から実行されることになる。社会政策がその好例である。

社会政策を「ヨーロッパ的」―あるいは「ヨーロッパ的」と想像される― と規定するには三つの方法がある。

第一は、個別国家の社会政策の公分母と見られるもの、つまり加盟国の様々な社会政策のモデルとなるエッセンスを「ヨーロッパ的社会政策」と見る方法。

第二は、文字通り国別の政策を越えたEUとしての社会政策である。この場合ヨーロッパ的社会政策は加盟各国の社会政策の補完するもの、超越するもの、規制するもの、調整するもの、場合によっては再編するものかもしれないが、いずれにせよ各国の社会政策体制の外から超国家的に付け加えるものである。

第三は、何らかの連邦制社会民主主義体制が実現した場合、ヨーロッパ的社会政策は各国の社会政策を吸収してそれに取って代わり―「統合する」―欧州全体で同一の社会政策を施行する統一欧州福祉国家の方向に進むかもしれない。いわゆる欧州単一市場の「社会的次元」へ語る場合、以上に述べた三つの方法を区別しないで、都合に合わせて好きなように三つを使って語るのだ。  

さらに、「ヨーロッパ的社会モデル」の様々な表れの経験的妥当性を判断するためには、比較政治学や法律学に専門的知識が必要である。何しろ、加盟国それぞれの制度、政治、社会政策がお互い大変異なっているからである―特に、スカンジナビア、ギリシャ、とりわけ東欧の旧共産主義諸国が加盟してからは、ますますそうである。実際上は、公の場で議論がある場合、発言者は自分が心に描くヨーロッパ像を「ヨーロッパ」とする。

このことは、第二の意味での「ヨーロッパ的社会政策」、即ち超国家的な上からの指令としての社会政策が、相異なる政治・経済・法律を持つ28加盟国によって程度の範囲で実行されていることの説明になる。いずれにせよ、「ヨーロッパ」と「ヨーロッパ的社会政策」を観念的に理想化する方が、実際の現実を査定して語るよりも楽なのだ。親EU派学者はほとんどそういうやり方で論じている。  

加盟国間に大きな違いがあることから生じるもう一つの結果は、「社会政策」自体の定義が非常に大まかになることである。従ってこの論文でも、「社会政策」という言葉は、動きの激しい私的資本主義経済における市場の気まぐれに関連して、賃金労働者とその家族や一般の貧しい人たちの脆弱性をゼロにするとまでは言わないが、ある程度減らすことを意図するヨーロッパ当局の外からの介入総体を指す意味として用いる。さらに、社会政策は賃労働と労働過程の支配管理体制に正統性を付与して安定させるという重要な機能を持つことも指摘しておきたい。

その機能は二つの方法で実行される。一つは賃金労働者及びそれになる人々に部分的に市場圧力が及ばないようにすること―脱商品化による社会的保護である。もう一つは、市場変化に適応できるように個々の労働者を公的に支援することを通じて、労働者が市場シグナルに有利に対応できるようにすることである。前者は市場に規制を加えるやり方で、後者を労働者の市場へのコンプライアンスを支援するやり方だが、両者を分けることは難しい。多くの場合、すべての社会政策は、度合いや目的に差があっても、両者を含んでいる。

こういう点を念頭に置いて、以下ヨーロッパ的社会政策の変貌を5段階に分けて説明する。その軌跡は資本主義の政治的・経済的展開の流れと密接に繋がっていて、時にはそれに動かされ、時にはそれを強化したり修正したりしたが、それを制止したり、逆行させることはなかった。  

第一段階:混合経済における部門別計画  ヨーロッパ的社会政策の歴史は、1958年欧州共同体(EEC)-「6か国のヨーロッパ」から始まる。EEC は前年の1957年に設立された欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発展したもの。ECSCは、当時の「基幹産業」であった炭鉱と鉄鋼業を経済と軍事の視点から共同管理しようとする企画として、フランスの公務員が考え出した実務装置であった。ドイツがモンタン産業(鉄鋼と石炭)を使って再び軍事力強化するのを防ぐのがフランスなどの主要目的であったが、フランスがドイツ石炭へアクセスする狙いもあった。さらに、ストばかりやってきた大労組が牛耳ってきた基幹産業の再編もECSCの狙いでもあった。これに6か国のための「共同市場」という発想を加えたのがEECであった。当初は例外をいっぱい含みながら実現した(「域内市場」と呼ばれるものが完成したのは1992年になってからであった」これに関連して、労働者が6か国を自由に移動できるように―換言すると、北ヨーロッパ労働市場を主としてイタリア南部の余剰労働力に開くために―、国籍を理由にして労働条件や社会保障手当面で差別するのを廃止しようとした。  その他の点では社会政策をあまり大きな役割を果たさなかった。基幹産業では労組が相変わらずしっかりと活動を続けていたし、各国政権も労組と良好な関係を維持することに務めていた。

一般にこの時代は経済高度成長期で、賃金も上昇、ほぼ完全雇用状態で、一方市場もまだ完全に統合されていなかった。社会政策は各国の国務と見られ、各国政府は経済成長を基盤にして社会政策を行うものとされた。ドイツの秩序自由主義Ordoliberals)(訳注2:20世紀ドイツの社会思想で、ネオリベラリズムの源流の一つとされている)は国内で社会カトリシズムと労働組合による労働市場「カルテル化」に敗北したが、ヨーロッパ次元で闘いを開始した。政府の経済への介入を違法とするような合法的競争体制の共同市場を建設する闘いを始めたのである。(半世紀後に彼らは勝利した)ところが、加盟各国が自主的に自国社会政策を展開しても競争上の不利を招くこともない状況が続いていた。何しろ経済はまだ基本的に国民経済体制であったから。  

ローマ条約にはフランスの主張で挿入された項目が二つあった。一つは、加盟国は同一労働同一賃金原則に基づく男女平等を法律で定めるという勧告と、もう一つは、共同体は加盟国の社会保障制度が同質となるように「調整」努力をするという項目である。

この二項目は、フランスが1930年代のフランス人民政府(訳注3:社会党、急進社会党、共産党が反ファシズムのもとで組閣した1936~37年のレング政権)の遺産として抱えた重荷で、これをフランスだけで行うと競争上不利になるという懸念から、加盟国全部に押し付けようとしたのだ。しかし、高度成長の混合経済という状況のもとでは不要な懸念で、他国もすぐ追いついてきた。それにフランス自体でも女性への同一賃金は法的強制力がなく(そもそも法令化しなかった)、社会保障の「調整」には政治的にも技術的にもたくさんの障害があったので、ローマ条約で明記されたとはいえ、一度も実現努力は試みられなかった。  

第二段階:社会福祉国家連邦主義  戦後20年間は、社会政策は「ヨーロッパ」の元祖6か国の国家管理国民経済的資本主義のもとで行われるだけのものであった。第二段階が始まったのは、労働運動の戦闘的盛り上がりへの反応としてヨーロッパ的社会政策がそれ自体の政治舞台に現れた1970年代初期だった。1968年の学生運動や反戦運動の影響で山猫ストの波に直面したヨーロッパ指導者たちが,経済と政治の安定を復活させようと、社会政策や団体交渉制度の改良に取り組んだ。

ヨーロッパとしての社会政策第一波―1972年のパリ・サミットと1974年の社会行動計画―は、そういうヨーロッパ指導者たちの反応の一部であった。それを担ったのは中道政府や中道左派政府―英国のウィルソンやヒース、フランスのポンピドゥー、イタリアのキリスト教民主党左派、ドイツのヴィリー・ブラントの社民とリベラル連合政府―であった。

ドイツは1960年代後半の労使関係の混乱を他国以上にうまく処理しているように思えたので、ヨーロッパ諸国はドイツ政府から学ぼうとした―すなわち、労働者や組合へある程度譲歩する権力の分かち合いを通じて企業の収益性を回復する方法を学ぼうとした。ちょうどその頃英国、アイルランド、デンマークが欧州共同体に加盟、それの拡大統合こそが、国民経済的ヨーロッパの社会政策体制を国際的・超国家的に近代化するうえで適切だと思われた。  

この局面におけるヨーロッパ的社会政策は、制度更新によって戦後の資本・労働合意を確保しようとする社会民主主義的プロジェクトと説明してよいだろう。主たる狙いは各国の大労組と経営者協会の中央団体交渉を促進することであったが、長期的には全ヨーロッパ・レベルで労使の中央交渉を制度化することにあった。全欧レベルで労使代表交渉の制度化のためには、政治的に統一したヨーロッパ労組が必要だし、同じように経営者の全欧的統一組織が必要である。

1973年各国の労組連合が集まって欧州労働組合連合(ETUC)を正式に結成、公式に資格の資格を与えられた。欧州委員会は、ヨーロッパの労働組合運動に昔からある共産党系と社会民主主義系の間の対立を克服させようと全力を尽くし、ある程度は成功した。それ以外の点では、労使代表の団体交渉改良はあまりうまくいかなかった。何しろ、労使関係の構造や伝統は国ごとに異なり、すっかり固定していたのだ。1970年代になってもスト発生率は依然として高く、インフレも国によって、特にドイツとイタリア・フランス・英国の間で、大きく異なっていた。

1979年を過ぎると、ドイツをモデルとする労使関係改善への切迫感が無くなった。1979年は、米国連邦準備銀行が利子率を米国および世界の失業率が必然的に高まる水準にまで引き上げたて、グローバル・インフレを抑えた年である。すぐにサッチャー政権下の英国もそれに続いた。融通が利かない金融政策の中で労働組合は政府から譲歩を引き出せなくなくなり、政府の方も失業増大が自分たちの再選の障害になるという心配をしなくなった。

「ヨーロッパ的」社会政策にとっても、労使関係改善や団体交渉制度改革はもはや課題ではなくなった。20年後にそれが再び机上にあがったときには、すでに通貨統合が実施されていたので、流れは反対の方向へ―賃金決定の分極化と個別化の方向へ進んだ。  

もう一つの社会民主主義プロジェクトは労働者参加、つまり会社の役員会に組合代表を入れたり、職場の意思決定に労働者を参加させることで、これもドイツ・モデルから学んだものであった。ロイ・ジェンキンズやガストン・トレンが委員長をしていたときの欧州員会は、上場会社の役員会に労働組合代表を参加させて共同意思決定ができるシステムの法制化を加盟諸国に義務付けようとした。このため羽州委員会はヨーロッパ各国の経営陣から猛反発を受けた。また、ドイツ以外の国々の強力労組からも反発を受けた。組合側の反発理由は、階級敵との癒着関係の強要、あるいは伝統的な自主的団体交渉権利の放棄になるというものだった。

1970年代、加盟諸国には会社レベルの従業員参加のいろいろな形態の議論はあったが、結局何らかの法制化を実現したのは僅か― ドイツとスウエーデン―で、他で―特にイタリアと英国―では実現しなかった。ヨーロッパ・レベルでも、その声は次第に小さくなっていった。生産現場の職場の意思決定に労働者の声を反映させることを法制化しょうという試みも同じ運命を辿った。それを法制化したのはごく僅かな国だけであった。

ヨーロッパ・レベルでは、欧州委員会が提起したフレディリンク指令案(訳注4:企業に従業員の情報公開と事前協議を義務付ける法案。なお、EUの立法形式には「指令」(directive)と「規則」(regulation)があるが、内容的には決定、勧告、意見の三種)は経営者側からの集団的圧力によって潰れた。特に米国系法律事務所が初めて意見表明したのが特徴的であった。今やヨーロッパで侮り難い力を形成している彼らは、それを機会に欧州委員会などに足場を作ろうとしたのだった。  

1980年代までに、労働組合を包み込むヨーロッパ的労使関係を作ろうという欧州委員会の努力は、すでに1970年代初期に自由市場建設の流れに押し遣られ、すでに終わっていた。社会民主主義時代の遺物のように見え始めていた。加盟国次元では社会民主主義時代はとっくに終わっていた。経営者たちは、「ヨーロッパ」を低収益と低成長問題にソーシアル・パートナーシップ的やり方で取り組む時代遅れの遺物とみて、苛々していた。ケインズ主義が消えつつあり、マネタリズムが姿を現し、サッチャーが英国という馬車の手綱をしっかり握り、ミッテランが「サプライサイド」経済学とネオリベラル的改革に顔を向け始めた時代になっていたのだ。

経営者たちはもはや弱体化し組織率も低下し始めている労働者階級に譲歩する必要なんかないと見ていた。さらに、「グローバリゼーション」がよりリアルになり、統一強化された「ヨーロッパ要塞」的な古い発想は、経営者の「ヨーロッパ的」経営者連盟である欧州産業連盟(UNICE)の中でも力を失っていた。フランス資本ですら欧州の外の自由市場世界へ目を向け始めた。自由市場では、労働勢力に譲歩する必要がない。それどころか労働者を団体交渉ではなく、よりコストが低い市場圧力で統御できるのだ。  

この時点で、欧州委員会は社会政策の新分野―労使関係のように争いの要素がなく、また各国の国内政治による支配が少ない新分野を探し始めた。二つの分野があった。

一つは、職場における健康と安全。各国の経営者協会も労働組合連合も、「ヨーロッパ」が職場の健康と安全に関する強制的基準を設定するという社会政策に反対しなかった。病気や事故が好ましくないのは労働者にとっては言うまでもなく、経営者にとっても競争力低下の原因になるからだ。

もう一つは、労働市場における男女平等。1970年代以降女性の職場進出が急上昇していたのに、各国の社会政策にはそれが反映されていなかった。国によって差があり、そこに欧州委員会が介入する余地があった。それにローマ条約の規定を利用することもできた。さらに、「フレキシブルな」労働力供給を求める経営者も、労働市場自由化に抵抗する男性中心の労組などに「雇用関係インサイダー」に公的圧力がかかることを喜んで、前向きに協力した。  

1980年代、職場の健康・安全と男女雇用機会均等に関する一連の指令が次々と成立した。しかし、各国の法律上の差が縮小し、各国の社会政策が時代の要請に追いつくようになり、経営者と労働者の関心の共有が尽きてくると、欧州委員会の力も次第に弱くなっていった。この二つの点を除くと、この期間は、1970年代初期の福祉国家連邦主義ヨーロッパという目標が次第に自由市場優先という流れによって脇へ押し流されていった。それに、現実的視点で見ても、自由市場作りプロジェクトの方が、加盟国の国家主権や国内政治制度の統合性に尊重に合っていた。

共通経済政策は、重点的に経済部門を選択して計画する政策から、国境や経済部門の境界を越えて自由化を制度化するまでの広がりを見せていた。行政制度様式は積極的融合から消極的融合へと変化し、福祉国家連邦主義の色彩が薄くなった。  

第三段階:資本を呼び戻す  1980年代半ばまで欧州共同体はヨーロッパの経営者の間では不評であった。それは、欧州共同体は官僚的で反自由市場的、社会主義的ですらあるというサッチャーの非難に反映されている。このため、ミッテラン大統領とジャック・ドロール大蔵大臣のフランスも変化し始め、「ヨーロッパ」と国際的テコにして、国家レベルのネオリベラル改革を推進する方向へ進んだ。そのためには欧州共同体の統合プロセスを新たに企業信頼感を盛り上げる方向で蘇生させる必要があった。もちろん、フランスがドイツを(フランス主導の)欧州大陸体制の中に縛り付ける道具としてのヨーロッパ統合という動機を失ってはいないが、もっと緊急的には、欧州共同体の再編成を通して、国内、労働組合や共産党の活動が経済発展の障害と見られる国内経済、とりわけフランスの国内経済を外部から制御する狙いがあった。  

資本を呼び戻すために、ドロールは欧州員会委員長となった。第一期(1985~90)は、彼が1992年に向けて準備した「域内市場の完成」という呼ばれるものに力を注いだ。(訳注5:1992年というのは、欧州連合を発足の基盤となったマーストリヒト条約終結のこと。彼は1986年に単一欧州議定書によってローマ条約を大幅に修正して、欧州共同体を市場統合体へと向かわせた)それは「消極的融合」を意味し、ヨーロッパ全体の経済自由化を目指すもので、サッチャー政権の好みに合うものであった。すでに、域内市場の完成の頂点となる欧州通貨統合という自由化が迫っていた。欧州委員会は、労働組合を安心させるために、域内市場が完成したらその「社会的次元」が付け加えられる可能性があると説明した。ドロールは「市場と恋に陥ることなんかあり得ない」と言い、結局域内市場などというものは正しい福祉国家体制の中に置かれて初めて安定的に機能するものだから、経営者側もある時点でそのことを認識するはずだ、と論じたのだった。  

しかし、この戦線で勝利するために、ドロールはまず機能不全のヨーロッパ福祉国家連邦プロジェクトを取り下げる―とりわけ企業経営過程への労組代表の参加をなくす必要に迫られた。それも経営者と労働者のどちらをも怒らせない形でやらなければならなかった。結局、国内法や会社法よりはヨーロッパ法のもとで仕事をすることを望む多国籍企業だけに欧州共同体または後の欧州連合の法を適用するという形で、それを行った。労働者参加に関しては、様々に多様なモデルから企業の好みに合わせて選択させた。欧州労使協議会の設立の基盤となった1994年の労使協議会指令は、複数の国に工場や営業所を「もつ大企業に、多国籍の労働者代表と交渉したうえで超国家的機関「欧州労使協議会」(EWC)を設立することを求めた。EWCで労働者側に認められる権限は情報開示と事前相談を求める権利であって、意思決定の共同化はなかった。

ドロールが約束した「社会的次元」については、1992年のマーストリヒト条約に添付される社会憲章の中に書き込まれることになっていた。英国はこの社会憲章から一時的に脱退したことがあった。その社会憲章は、社会議定書という形で、労使連盟を形成する「社会的パートナー」」に特権的役割を提供した。社会的パートナーとは欧州委員会、欧州産業連盟(UNICE),社会民主主義左派の欧州労働組合連合の三者で、彼らが形成する非公式機関「社会的対話」(Social Dialogue)を基盤として活動した。

全欧的「三者構成原則」(Tripartism)が始まった形となった。マーストリヒト条約の中では、労使が合意するヨーロッパ・レベルの社会政策だけを、欧州委員会が自らの政策として採用して法制化手続きをとることになる。労使合意がない場合は欧州委員会が自らの権限で法制手続きに踏み切る選択肢はあるが、それは義務化されていない。  政治舞台では、この三者構成原則の手続きが欧州共同体の経済・社会委員会(ECONSOC)を実質的に支配していた。

ECONSOCは多数決規則に基づいて決議される機関で、欧州委員会、経営者協会、労働組合連合の他に加盟国政府の代表や都市自治体の代表もふくまれていたために、しばしば経営者側の意に沿わないことも決議された。このため資本がときどき「ヨーロッパ」に不快感を表明したのだ。これに対し「三者構成原則」のもとでは、経営者側は事実上ヨーロッパ社会政策に関する拒否権を持っているようなものであった。 政策に関して社会パートナー間(労使間)で意見が異なる場合は、その社会政策を法制化しないように欧州委員会に圧力をかけることができるからである。

1990年代半ばまでには、ドロールによって欧州委員会は「コーポラティズム的政策コミュニティ」(ある評論家のヨーロッパ的婉曲語法)―つまり、労使を癒着させながら、他方では多層的社会政策をとるための中央集権的政策決定機関という、一種の超国家的「社会的パートナーシップ」という体裁を見せていた。  

EU官僚はこの「コーポラティズム政策コミュニティ」を、単に国レベル枠組みの共通点を集めて成文化して相互整合性を強調する以上のものに使いたかったのかもしれない。しかし彼らが見過ごした―あるいはユーロ楽観主義のためにわざと見ようとしなかった― ものは、三者構成原則的コーポラティズムに関して昔から存在した洞察である。

それは、三者構成原則コーポラティズムが機能するのは経営者に善意で話し合うことが法律的または政治的に義務付けられるときだけである、という洞察である。あるいは、労働者にストと行う権利と力があるときだけ、あるいはコーポラティズム内の交渉が暗礁に乗り上げたとき、行政権力が法制化するぞとしっかり脅威を資本に投げかけるときだけ、であるという洞察。

ドロールはこの昔からある洞察を見逃したわけではなかった。彼は、経営者陣の「戦略的不活動」だけを制裁の対象にするという形で、EUと資本と新関係を損なわないように注意を払った。しかし、資本が事実上社会政策に抵抗していることを考えると、このヨーロッパ・レベルのコーポラティズムと祭り上げられたものは形式だけのものであって、中身は空っぽだった。  

マーストリヒト条約に至る議論の中で最重要争点となったのは社会議定書であったが、結局社会議定書は何一つ産み出さなかった。それは、すでに多数の加盟国がすでに達成している基準を提案するだけか、せいぜいEUレベルの社会政策で以て各国レベルの社会政策の橋渡しを提供すると吹聴するだけであった。しかし、例えば労働者参加の制度化案に見られたように、加盟国がそれに応じて自国の法制度を変えようとする気配はまったくなかった。

さらに、1995年EUへの懐疑が強いスウェーデンがEUに加盟したことで、EU立法の加盟国レベルでの法制化にいっそうブレーキがかかった。スウェーデンには政治や法律から自立した独自の労使関係という伝統があった。その伝統を守るために、スウェーデンの労働組合は、EUが提起する政策を国内法で定めるのでなく、労使の団体協約で実施するべきだと主張した。

一方、社会政策の三者構成原則回路は、欧州委員会が労使に共同発案をするようにとあり得ないことを期待して任せきりで、経営者側は故意にノロノロ行動したので、もう使われなくなっていた。社会議定書を活かすために欧州労働組合連合(ETUC)は欧州産業連盟(UNICE)と幾つかの協定を結んだが、これは実質的には何の意味もなかった。加盟国は協定に従って自国の労働関係法等を変える必要がなかったので、これは単にヨーロッパ的社会政策を象徴的政治に変えるのに貢献しただけだった。

2003年の労働時間指令に関しては、英国の保守系メディアが大騒ぎしたからであろう、英国の労働組合や中道の労働党政治家がEU指令を賛美した。しかしこの指令は、例えば一週の労働は残業を含め48時間を越えてはならないという規定の適用には多くの例外があったり、国によって適用除外になったりで、実質的には規定にならなかった。結局ドロールの無国籍の、従って歯抜けの疑似コーポラティズムは、ヨーロッパ的社会政策が自由市場へ変身していく過程における中間点にすぎなかった。そこでは、労働者への譲歩は経営者側―主として多国籍企業―の善意に委ねられた。  

この時期に中身のあるヨーロッパ社会政策を法制化したのは、社会議定書以外の機関であった。1996年の海外労働者派遣指令(訳注6:EU加盟国の企業に雇用されているが、雇用者の本国でなく他の加盟国へ一定の期間派遣されて就労する労働者の雇用条件や権利などについて定めた指令)は、労働者や経営者ばかりでなく、加盟国にとっても重要な問題である「派遣労働」を扱ったもの。

「派遣労働者」とは、雇用された国以外の国に送り込まれた労働者。経営者の本国の賃金と労働条件が受け入れ国のそれより劣悪な場合、本国の経営者にとって競争上有利に働く。受け入れ国側の労働市場の状況を低下させる可能性がある。一国内に複数の雇用条件が存在することになり(法多元主義)、その国の法律的主権の浸食になる。

1990年代初めにフランスがこのことに気付き、直ちにフランス国内で営業する外国企業に対しフランスの労働基準に従う義務を課する法律を作った。EUとしてもそれに続き、海外労働者派遣指令を採択し、加盟国に自国内で操業する企業全部を法的拘束する労働関係法を制定することを許可した。その後数十年間、市場自由化が進行する中、海外労働者派遣指令は各国の関心を集め、時には欧州司法裁判所の諸判決(例えば「ラヴァル事件」、これについては後述)で弱体化されたり、または受け入れ国の労使紛争を避けるため、あるいは加盟国の労働関係法に関してその国の主権を保護するために、厳密に運用されたりした。  

第四段階:第三の道のヨーロッパ  90年代半ば、域内市場の事実上の完成に伴って、第二期ドロール欧州委員会のサプライサイド経済への動向が強くなり、通貨統合まで秒読み段階となり、加盟国の政府も「ヨーロッパ」が国内の制度的硬直性から自由であることを望んだこともあって、社会的次元の政治はますます影が薄くなった。「ヨーロッパ」が加盟国に存在する福祉政策を統合し、さらにそれを改善する超国家的福祉国家連邦になると夢想された時代はとうとう終わった。加盟国の国内政策を向上させ、お互いに足並みを揃わせる上からの調整という意欲的活動もすでに失速していた。同じように、各国の制度を超国家的制度で補完するという概ね成功した試み―会社法の刷新や職場における従業員代表制など―も力を失った。

ヨーロッパ的社会政策がどんどん象徴的になる―海外労働者派遣指令のような、市場統合がもたらす好ましくない副作用に対して加盟国主権を守るために使われるものは別にして―につれ、EUの競争法を加盟国が自国の政治経済をネオリベラル路線に再編成するために利用するお膳立てが整った。  

1990年代後半と2000年代前半は、福祉国家ならぬ競争国家時代であった。グローバリゼーションが進行し、ヨーロッパの左派政権―ブレアの英国、ジョスパンのフランス、シュレーダーのドイツ―は、自国の経済を国内でもっと競争的にすることで国際的にもっと「競争力がつく」ようにすることが自分たちの任務だと思った。彼らのイデオロギーにとって、労働組合は「インサイダー」中心で「アウトサイダー」を排斥する邪悪な存在であった。従って、コア労働者だけを保護する「硬直した諸制度」を廃止することで、「アウトサイダー」を保護しなければならない、とした。もっともそれは、政府または経営者が労働組合と連携を結ぶことを排除することではなかった。労働組合はまだそれなりに強くて、敵に回せばかなりの障害になるし、味方につければ役に立ったからである。

しかし、戦後の民主主義的コーポラティズムー労使の利害対立を交渉によって克服しようとした三者構成原則に見られた―とは対照的に、今や加盟国の政治経済をもっと「フレキシブル」にすることによって外国との競争に勝って経済的繁栄を追求する共通戦略を築くことが、目的となった。これは、1970年代に比べれば弱体化した労働組合を攻撃するというよりは、かつて社会政策と呼んだものを「フレキシキュリティ」(訳注7:雇用調整を目指す柔軟的失業保険政策。失業者に政府主導の保険給付よりは職業訓練の機会を提供して、労働市場の安定を図る政策)や「雇用可能性」などの目標に向けて再配向することである。

そこで公約されたのは、企業は前よりも容易に労働者を解雇できるが、失職は長期的失業を意味するものでなく、直ちに再雇用に続くということである。だから、労働者がネオリベラル時代の市場に必要なフレキシブルな「人的資本」になることを援助することによって、一つの仕事から次の仕事へと円滑に移行できるようにすることが、公共政策の任務となった。底辺での規制撤廃によって多数の低賃金就労機会が生まれ、失業保険に依存する労働者をそれに流れ込ませるのである。競争国家の労働市場政策は「活性化」とか「社会投資」という概念の上で展開する。必要な技術を修得すれば次の就職で必ず向上するという想定のもとで展開する。

ブレア的政治を支える社会理論家たちはこれを第三の道、つまり戦後の国家管理型資本主義の「硬直性」とレーガン=サッチャー的な自由市場経済の「柔軟性」の間に位置するという意味の、第三の道と呼んだ。  

第三の道への刷新は主として個別国家レベルで生じた。「ヨーロッパ」の役割は、個別国家の社会政策がポスト・ケインズ主義的・ネオリベラらリズム的方向へ変化するのを援助することであった。例えば「フレキシキュリティ」のような概念を広めて加盟国に「自主的に国内実施」することを勧めた。この超国家的政策手段には、各国の実施状況を比較するための「ベンチマーク」を採用したり、各国の重荷にならないようにできるだけ基準を低く設定したり、各国の実績を情報として伝えたりすることがあった。

この段階のヨーロッパ的社会政策は、主に柔軟な法、ヨーロッパ的婉曲語法で相互学習及び共同政策実験プロセスと称えられる、いわゆる「開かれた政策強調手法」(OMC)に象徴されるような新自主的「ガバナンス」枠組みで行われた。  

2004年に東欧の国々のほとんどが加盟、加盟国が25か国に膨れ上がったものだから、そういう柔軟なやり方を取らざるを得なかった。EUは統一的なヨーロッパ的社会政策を行うにしてはあまりにも多様な不均一体になった。EU域内市場及びEUの外からの絶えざる市場圧力が存在することを考慮すると、幾らかの政治的クッションを伴った自由化こそが、全加盟国が同意できる唯一の公式となった。

共通社会モデルに基づく積極的融合はEU理事会で多数決支持を得ることが不可能であった。EU理事会の多数決の壁と同じように、欧州司法裁判所(CJEU)もそれを否定し、自由化の後退を許さなかった。CJEUの判決は事実上EU憲法の役割を担っていた。  

第五段階:社会政策の組み込み  グローバル金融危機から10年経過した現在、政治的プロジェクトとしてのヨーロッパ的社会政策は、たとえ第三の道という形においても、もう姿を消した。これは社会政策が消滅したということではないし、社会政策が賛否の議論を引き起こすこともなくなったということでもない。それどころか、社会的保護をめぐる論争はかえって激化している。

しかし、確実な変化は、少なくとも二つある。一つは、社会政策に関して福祉国家擁護派とヨーロッパ主義「刷新」派とが対立して争っていること―後者を代表するのが、2008年以前のネオリベラル市場作りコースにこだわっている欧州委員会、欧州司法裁判所(CJEU),欧州銀行(ECB)である。

二つは、社会政策をめぐる争いの舞台が通貨、財政、移民に関する政策分野へ移ったこと。その過程で、社会政策のヨーロッパ政治経済内における位置が大きく変化した。社会民主主義という戦後基準モデルのもとでの社会政策は半自立的な政策分野として制度化され、資本の力に挑戦し、部分的にそれと平衡化する社会統合論理で動いていた。

その後社会政策はその半自立性を失ってしまった。そして、商品化による合理化という一元論的なネオリベラル論理に吸収され、そこで競争社会化プロセスに手段として利用され、その中に組み込まれていった。  

社会政策が退行的にネオリベラル再編成に従属した例はたくさんある。要するに、ヨーロッパの競争法は個別国家の社会政策より上位に立つという主張に負けたのである。社会政策を商業化して利潤を得ようとする政策企業家が非営利社会サービス団体への公的補助金をとめようと、国家援助を制限する条約を何度も提起している。営利企業がそういう福祉団体と同じ条件で競争できるようにするためである。例え裁判所が営利企業に有利な判決を出さなかったとしても、彼らは裁判所が自分たちの味方だと信じているので、何度も再挑戦した。だから、公的社会サービスを民間市場に明け渡すのを拒否する国は、いつなんどき裁判所判決というダモクレスの剣が振り下ろされるか分からない脅威に晒された。

CHEUが域内市場の「4つの自由」(モノ、人、サービス、資本の移動の自由)の新解釈があったから。もともと、この「4つの自由」は、加盟国が外国人労働者、外国の投資家、外国産商品やサービス提供を差別しないと約束するだけのことだった。しかし、2000年代初めになると、加盟国が国境を越える経済活動を制限するという条約違反をしているという訴えがCJEUに持ち込まれることが多くなっていた。  

「4つに自由」は、市場活動を抑制する政治を違法とし、加盟国の国法や慣習よりも優先され、加盟国の法律や制度の改正を要求した。例えば、欧州委員会はフォルクスワーゲン株を少数の者が保有するのは外国人投資家が同社株購入を妨害するももので、資本の「自由」に違反するから、そのように裁定せよと何度もCJEUに要請した。この論理はお粗末に思えるが、市場志向CJEU裁判官たちの心をとらえているようである。

個別国家の労働関係法とヨーロッパ的「自由」との関係を画期的に表した訴訟が二つある。2007年にCJEUが「ラヴァル事件」と「バイキング事件」に判決を出し、労組の団交権やストライキ権を認める国内法はEUに基盤を置く企業がEU加盟国で営業する権利と正当に比較して検討されるべきで、場合によっては下位の立場に立つ、という見解を示した。(訳注8:「バイキング事件」は、フィンランドのフェリー会社バイキング・ラインがフィンランド~エストニア航路の客船の船籍をエストニアの会会社に移してフィンランドの労働協約を回避、安価な労働者の調達をエストニアで図ろうとしたのに対し、フィンランドの労組が抗議、エストニアの労組に協約交渉を控えるように要請した争議。「ラヴァル事件」は、スウエーデンの学校改築を受注したラトヴィアの企業ラヴァルが、自国から派遣した労働者について、自国内の基準を上回るスウエーデンの賃金支払い.両争議に対し、CJEUは、ヨーロッパ域内における自由の方が国内法が保障する労組の権利に優先されるべきと裁定した。  

CJEU裁定は見方によっていろいろ解釈できる。欧州労働組合連合(ETUC)に近い弁護士は、結果としての実行段階はともかく、CJEUが初めて労働組合連合の団交権を基本的に認めたことを強調する。しかし、CJEU裁定は、団交権を「4つの自由」より優先されるべきとしなかったし、各国の裁判所に複雑な検証―「全体の利益」という止むを得ない理由が正統化する「釣り合い」「妥当性」を実現するために―を行うことを要求したのだ。つまり、国内の労働争議を域内市場という枠組みの中で法的に裁くことを要求したのだ。後にこの裁定は部分的に修正されたが、それが各国の裁判所に、市場の自由の名のもとで労働組合の団交権を抑制する強力な法的手段を提供していることには変わりがない。  

移民政策も、ヨーロッパ法や国際法に基づいて行われるので、基本的に社会政策の働きをすると言ってよいだろう。未熟練労働者の流入が低賃金部門での労組の団交権(まだ団交権が残っている場合だが)を阻害するかもしれないし、さらに貧困とか格差に関する考え方を弱めるかもしれない―実際、社会的保護政策反対者は「本当に貧しい人たち」(移民)との国際連帯をかざして、国内の貧困を許容することを説くのだ。

移民は社会援助予算への圧力にもなる。公的支出の多くが移民対策に行くのだから、国民の納税意欲を弱めるかもしれない。移民が隔離教育を招いている例がスウェーデンで見られる。中・上流階級の親が自分の子どもが移民の子どもと同じ学校で学ぶことを嫌がって、子どもを他のエリート校へ転校させているのだ。  

最後に、2008年の金融危機に伴って、ヨーロッパ的社会政策の名残りはユーロを救うための超国家的緊急立法に従属するようになった。加盟国の主権を損なわないように、通貨統合が政治的統合なしに導入されたが、金融危機の中でそれは事実上加盟国に厳しい予算規制(緊縮財政)を強要し、大きな「構造改革」を義務付ける一種の社会政策となった。財政協定のような危機管理ツール、例えば「シックス・パック」や「ツー・パック」(訳注9:いずれもユーロ信用低下を食い止めるためにEU,欧州中央銀行、IMFのトロイカ体制が加盟国に求めた緊縮財政措置)が、EUの社会・経済憲法のようなものになった。2008年以降は、加盟国の公的債務の利払いを確実にしょうとして行われた「救済作戦」は、稼ぎ以上に使うなという趣旨の「シュヴァーベンの主婦」の教訓(訳注10:アンゲラ・メルケルが「アメリカの銀行及び南欧諸国はシュヴァーベンの主婦に倹約ってものを教えてもらうがよい」と言った)が伴っていた。

私が「地固め行政」(consolidation state)と呼んだものが、債権者銀行の商業上の既得権を保護するために緊縮財政が必要と考えられる範囲において、加盟各国の社会的既得権(acquis)に圧力をかけた。いわゆる「問題国」にヘルスケアや年金などの社会的支出の削減を迫った。また、組合の団交権の制限など、事細かな制度的変革を求め、国民経済から労組影響の排除を狙った。ここに、社会政策が「大ヨーロッパ志向」の債権者側の政府が望むような財政安定政策に吸収されていったのである。  

第六段階:将来展望 社会政策がまさに社会政策として最後に議論の的になったのは、欧州憲法条約がフランスとオランダの国民投票で否決された2005年であった。これに関する一つの説明―フランスのジャック・シラク大統領の説明―は、加盟国政府がこれまで社会政策に十分な注意を払ってなかったから、というもの。今日では、EUの個別国家社会政策体制を自由化する動きに対する反対運動は、しばしば右翼主導でヨーロッパ各地で展開する「ポピュリスト」運動から発している。そのせいで、国際世論からの道徳的非難を受け易い。

ところが、このポピュリストの外国人嫌悪やレイシズムに対して対抗する民主主義的オールタナティブは、国民経済を外部との自由競争に開放せよという主張である。自由競争の敗者を救助する超国家的な「ヨーロッパ的社会政策」がないにもかかわらずにだ。「社会的ヨーロッパ」とか「ヨーロッパ的社会モデル」という概念はすっかり姿を消した。今や、「ヨーロッパ」とか「ヨーロッパ的プロジェクト」は猛進する資本主義の対抗物としてではなく、世界平和、国際的人権、文明社会の言論を唱える標語の抽象的役割を演じるだけである。  

金融危機以降、ヨーロッパ的社会政策の資本への従属は目に見えて明白となった。その結果、社会政策は「「ヨーロッパ」や「ヨーロッパ統合」をめぐって激しくなる対立に引き込まれていく。ヨーロッパ統合の第一信条―ヨーロッパ法は加盟国の国内法や政治の上位に位置する―に対して、現在広範なナショナリスト運動が対抗している。

社会政策と福祉国家政策を民営化・商業化して競争力向上の道具にしようとするネオリベラリズムに対抗して、ネオリベラル経済のために国民の生活や生活様式が被った損失に責任をとれという大衆的要求が突き付けられている。場合によってそれが成功している。政府が選挙民や労働者に譲歩するのだ―例えば、「改革」を先延ばししたり、イタリア、スペイン、フランスのようにEUが許容を上回る赤字財政を実施するなど。

それに対し欧州委員会は見て見ぬ振りをし、ECBは暗黙の承諾をする。また、ドイツ式の難民移民の受け入れが当のドイツにおいても政治的に支えられなくなったこともあって、加盟国は移民規制へ戻りつつある。他方、加盟国に「構造改革」を求める圧力も政治的に行き詰まった。ギリシャの負債問題は、先例を作るようなヘアカット(債務削減)なしで、何とか債権者銀行の大幅損害にならない形で進みそうだが、イタリアについてはギリシャのシリザ政権のように屈服しないだろうと、熱心な「改革派」ですら思っている。  

最近、ヨーロッパ帝国作りの中で、社会政策をめぐる対立が国際的なものになった。つまり、労働対資本の対立から南欧―たぶん東欧も含まれるだろう―対豊かな西欧との対立に変化した。皮肉なことに、この対立、特に地中海諸国―フランスも含まれることもある―とドイツや北欧同盟国との間の諍いを復活させたのは、ナショナリズムにとどめをさすとされた通貨統合であった。

今では、政府や企業が労働者家族休暇や社会投資にカネを出すかどうかの問題ではなくて、統一通貨採用によって利益を得た国が統一通貨体制下の競争経済で負け組となった国に補償する責任があるかどうかの問題となっている。現在交渉されているのは、資本主義的国民経済の安定とその中の経済協力の犠牲になった者への対価問題ではなく、近隣諸国間の国際関係安定を保つための対価のことで、それを受け取り側の面子を潰さない形で、そして支払い側の金儲け活動の実態を世間から見えないような形で、支払う術を交渉しているのである。  

この交渉は、紛争管理制度に匹敵する機能がないので、難航し、強い集団的感情が伴う。国内の社会政策にくらべ国家間にまたがる社会政策は政治的に爆発し易い。いずれにせよ、市場競争の「負け組」への補償問題が国際関係問題に変わること―それは往々にして負け組国のボスたちへの賄賂という堕落に発展しやすい。それは、企業利益を中心とする統一的で同質的なアクターとする国民国家の再現につながるが、その国民国家は戦後の「基準的民主主義」の特徴であった多元的国民国家政治を上塗りしたもおとなる。  

ヨーロッパ的社会政策は、資本主義経済のダイナミックス、戦後の資本・労働の力関係、一つの政体「ヨーロッパ」の拡大と不均一化に応じて変化し、生まれて消えていった。選良私企業をテクノクラート的に公的管理する国際事業として出発したものが、短期間ではあったが、社会民主主義的福祉国家建設プロジェクトへ向かった。それは、当時すでに戦後の国家管理資本主義の混合経済の中で生まれつつあったネオリベラリズム的超国家的市場作りプロジェクトに対抗し、またそれから対抗された。

その争いは1980年代まで続いたが、1992年に「域内市場」出現とともに超国家的市場作りが優勢となった。やがて無国籍の統一通貨が導入され、超国家レベルの通貨政策と国別レベルの財政・経済・社会支出の間の軋轢や「民主主義の温度差」が顕著になった。それに加えて、2000年代に入って帝国化プロジェクトが始まった。周辺諸国への金融・財政援助を使って西欧中心の軌道へ引き入れ、ついに西欧の外縁がロシアとの国境にまで拡大した。  

現在では、限られた形ではあるが、資本蓄積という至上命令に抵抗し、あまり強くはなかったが、社会的弱者を守るという動機に導かれた、比較的自立した政策分野であった「ヨーロッパ的社会政策」は消滅した。「ヨーロッパ的社会政策」は様々な形をとったが、資本主義の発展コースを抑えたり修正するよりは、結局資本蓄積の趨勢や戦後国家体制の前半的危機に引き込まれ、最近ではポスト・ネオリベラル体制をめぐる争い、即ち資本主義の将来に関する争いに巻き込まれている。

戦後の「ヨーロッパ統合」が行き詰まった現在、崩壊寸前で水面下に沈没しつつある「ヨーロッパ的社会政策」はどうなるであろうか。それは、過剰拡大した西欧システム、テクノクラート的中央集権化に失敗し、地域間・国家間格差を増大させ、国民の間の貧富の差を大きくしたフランス、ドイツ、そしてEU本部など、地政学的野心を抱えた西欧行政システムが今後どうなるかにかかっている。ただ、現時点で明らかなのは、1970年代に遡る「ヨーロッパ的社会モデル」を政治的に規定していた超国家ヨーロッパの福祉国家というプロジェクトが終わってしまった、ということだ。

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