【書評】日本精神の奥底に隠された潜在的革命性 評者・杉村昌昭

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『神道新論ー日本の言葉から明治維新百五十年を考える』 (河村央也著)

 日本の政治はどうしてこうも変わらないのだろう。民主党政権崩壊後、自民党に公明党が引っ付いた政権が、今や盤石の体制を誇り、安倍晋三政権はスキャンダルをものともせず、相変わらず選挙で勝利をおさめ、世論調査の支持率は50%以上であるとされている。多くの日本人が現在の政治経済体制を自然現象のごとく受け入れているからか、野党が政権批判をしても、保守的市民層には響かない。問題は日本人の保守的精神のなかに切り込むことだとわかってはいても妙案がない。そして同じ選挙結果の繰り返しである。  

本書は、こうした現状を憂慮するなかから生まれた。自然と共生しながら命を尊ぶ日本精神は、日本古来の神道そのものの中に包含されていると河村さんは考える。もちろん国家神道(=天皇制)に収斂され、数多の不幸をまねいてきた歪曲された神道ではない。  

河村さんは幕末・明治維新に遡って、日本精神の源流をたどるために、島崎藤村の『夜明け前』を参照しながら、真の神道精神なるものの核心を取り出し、日本と世界の現状批判につなげていく。同時に、河村さんは本来の日本語の語彙のなかに日本精神の豊かな源泉を見いだし、日本語そのものの復活を試みる。  

これは、一方に神道、もう一方に日本語を置いて、その密やかなつながりに依拠しながら日本近代を問い直そうという、凡百の「近代批判」とは異なるユニークな試みである。しかもこの試みは、日本精神の深層に流れる「自然と調和した共同社会」を求める潜在的政治意識をつきとめ、その革命的噴出を現代に待望するという河村さんの「革新思想」に由来している。  

日本人の精神の地下室に侵入し、そこに秘匿されている革新的精神の遺産を掘り起こさない限り、自民党が政権から退くような日本政治の目に見える変化は起きないだろうと河村さんは考えているのであり、私も共感を禁じ得ない。  

しかし、なぜ河村さんが言う日本精神の奥底に隠されたこの潜在的革命性は、これまで現働化せずに逼塞してきたのだろか。そこには日本の近代化にともなう複雑な文化的・社会的ねじれが作用しているようだ。  

近代翻訳語の功罪明らかにし 革命の長征へ

河村さんは、近代の「翻訳語」が日本人の心身から遊離したところに問題があると指摘する。西欧語の翻訳語に体現される近代日本語は日本人のなかに「体内化」されていないとして、「近代よりもはるか昔からの日本語が日本人のなかに体内化した何ものかに立ち返るしかない」と述べている。これは全く正当な指摘であると私にも思われる。  

しかし、あえて言えば、「社会」という言葉は言うまでもなく、「個人」、「自由」、「権利」など、「民主主義」(これも翻訳語だ)の根幹にかかわる概念語はすべて翻訳語である。「体内化」していないと言ってしまえばそれまでだが、これらの言葉は少なくとも日本社会を古い因習から解き放つうえでポジティブな役目を果たしたのではないか。  

もちろん、新自由主義の登場以来、世界社会は悪化の一途をたどり、これらの言葉の起源たる西欧社会や西欧語そのものの価値が劣化と崩壊の危機にさらされているとしても、日本の近代化の過程で、西欧起源の翻訳語が一定の革新的役割を果たしたことは否定できないだろう。  

要するに、西欧語の翻訳語を否定して「原日本」に一挙に立ち返るのではなく、翻訳語が近代日本社会の変化に果たした役割の功罪を明らかにしなくてはならないということであろう。しかしこれは、近代翻訳語の原語たる西欧語の重要な概念が劣化と崩壊の危機にさらされている現状においてきわめて複雑な作業であり、どこにあるかもわからない日本人の精神の地下室を探査する高機能の装置を据え付けねばならないということである。どこかに地下室に降りる扉があるはずだが、その「重い扉を押し開けたら暗い道が続いてて、めげずに歩いたその先に知らなかった世界(NHK朝ドラ『なつぞら』の主題歌)」が開ける、といったようなことだろう。しかもこれは日本に限った話ではないかもしれない。西欧から始まったグローバリゼーションは、いまや世界中で、近代日本が抱え込んだのと同じ問題を突きつけている。しかし、21世紀の「革命の長征」は、ここからしか始まらない状況にわれわれは逢着しているのではないか。  

われわれの生きている現代という時代についてさまざまな想像力をかき立ててくれる触発的書物である。

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