(この5月にEnzo Traverso: The New Faces of Fascism: Populism and the Far Right(エンツオ・トラヴェルソ著「ファシズムの新諸相」、未邦訳)から一部「ポストファシズム」を抜粋して紹介したが、同書に関する論文がMR on Lineに発表されたので、それを訳す) 翻訳・脇浜義明
エンツォ・トラヴェルソが新著で論じた新しいポピュリズム、外国人嫌悪、レイシスト右翼の台頭というグローバル現象を理論化しようとする試みがあった。
『ニューヨーク・レビュー・ブックス』の「右翼についてどう描くべきか」というタイトルの座談会である。参加者の一人、リベラルでありながらリベラル偶像を破壊するのが好きなマーク・リラが、どういうわけかR.R.トールキン(訳注1:1892~1973。『ロード・オブ・ザ・リング』映画の原作者)の作品に登場する魔法使いガンダルフを引用して、座談会を奇な 方向に導き、それで大論争となった。
(政治世界で)何かに直面していようと、それは21世紀ファシズムではない。
地獄は絶えず我々を苦しめるために新しい悪霊を世に送り出してくる。熟練したエクソシストがよく知っているように、悪霊は一つ一つ正確な名前で呼ば限り追い払うことはできない。
驚くべき発言だが、単に部屋の中の象に関する人を戸惑わせる馬鹿げた誇張にすぎないのであろうか。(訳注2:部屋の中に象がいるのはただ事ではないが、それが分かっていながら誰も追い出そうとしない。社会の不祥事とはそのようなもので、みんな分かっていて見えないふりをするという意味) 確かに、嫌悪したくなる人物に「ファシスト」というレッテルを安易に貼るのは無責任であるし、過去の経験を単純に現在に投影する認識論的転移を行うのも誤りにつながる恐れがある。
しかし、1920年~40年代型のファシズムは絶対に21世紀にはないと自信たっぷりに決めつけられると、世界で反動的政治や社会運動が台頭しているのは何かと言わざるを得ない。EU加盟国のほとんどで極右が劇的拡大しているのは悪霊のせいだというのだろかうか。 そう、当時と現代とでは客観的歴史的条件が異なっている。
しかし、最近の発表された研究では、過去のレイシズム、外国人嫌悪、権威主義が現在のそれと重なり合っていることを指摘するものが多い。現在のレイシスト・ポピュリズムが過去のファシズムの復活とは何ら関係がないとすると、そこから生じる無頓着さのために、アハロン・アッペルフェルドのホロコースト小説『バーデンハイム1939』に描かれたのと同じ状況になるであろう。(訳注3:バーデンハイムはユダヤ人町リゾート地で、住民たちはホロコースト危機が近づいているのに、音楽祭に興じて危機を見ようとしない状況を描いた小説この寓話的小説ではナチは革長靴の兵士でなく、住民の世話をする清掃員として登場する。街角にポーランドの新鮮な空気をめでるポスターを貼って、住民たちを東欧への列車旅行に誘う。毎年音楽祭のためにバーデンハイムにやってくるパッペンハイム博士の勧めもあったが、住民たちは東欧旅行を何となく警戒した。それに誘いは次第に命令調になっていった。しかし、結局嘘の説明や優しい言葉遣いに騙された。芸術家も知識人も旅行が強制追放であることを見抜けなかった。音楽祭に興じるリゾート地からはまさか大虐殺ホロコーストは想像もできなかった。
このあたり、リラが現実に起きていることを否定したことに似ている。 議論から装飾を剥ぎ取り、目に見える真実をしっかり見て行動することによって、現代に忍び寄る病魔を止めよう。我々はアッペルフェルドの作品のような推測的フィクションを評価するために、知的訓練として過去に目を向けて現在を理解しようとしているのではない。
資本主義的支配層が大衆と結びつき、偏狭な人物が政府の指導的地位に就き、バラバラになった大衆が粗悪な民族・国家主義神話に群がっている現実が存在する。我々が見ているのは、年代的特徴と歴史的連続性の両方の混合に特徴づけられる、決して死んでいないイデオロギーの具体的表れかもしれない。それが新しい社会・経済的状況の中で進化しているのだ。
現在ヨーロッパ(及びその他の地域)で徘徊している妖怪の中で、最も恐ろしいと思われるものが実際に存在しているかもしれないことを認めなければならない。エンツオ・トラヴェルソはそれを識別する概念レンズ―過渡期的現象としてのポストファシズム―を提起した。 亡霊たちの覚醒 史上最も恐ろしい亡霊が蘇っているようで、いやでも黒シャツ隊や突撃隊が思い起こされるが、だからといって単純に過去の再現だと大騒ぎすべきではないだろう。「新人間」を求めるファシスト的運動はないし、「革命を防止する革命」であるファシズムを誘発するような労働者階級による革命の「脅威」も存在しない。
だからといって極右運動が堂々とファシズム伝統に基づいて活動していることを宣言している事実を無視するのも、やはり無謀であろう。ギリシャの黄金の夜明け、ハンガリーのヨッビク、スロバキアの国民党。フランスの国民連合(旧党名は国民戦線)は現在ファシスト党ではないが、50年前にはフランス・ファシズムの後継者を名乗っていた。戦術的理由でファシズムを名乗っていないが、ファシズム的思想・行動の右翼政党やグループはたくさんいる。
米国では、ファシスト政治プログラムをもっていないが、ファシスト的気質を持ったトランプがいる。 幸いなことに新右翼や歴史的ファシズムに関する本や論文はかなりの数出ており、とりわけ今年は国際主義的マルキストのエンツオ・トラヴェルソ博士の本大きな指針を提供してくれた。彼の本は、現代という政治的に不確定な時代にあって、理解困難な多くの材料をうまく処理して、我々に示唆を与え、我々を導いてくれる本である。
タイムリーな設問の投げかけ トラヴェルソは自分の仮説の説明を慎重に行う。 今日のポストファシズムの特徴は、古典的ファシズムの遺産と古典に属さない新しい要素が矛盾しながら共存していることである。大きな発展によってそういう変化が生じたのだ。(36頁)
ポストファシズムは国境を越えて存在し、現在ばかりでなく過去にも存在した。トラヴェルソのこの定義に当て嵌まる芸術作品がある。2018年のドイツ映画『未来を乗り越えた男』(Transit)(訳注4:クリスティン・ペッツォルト監督が、アンナ・ゼーガースが亡命中(1941~42)に執筆した小説『トランジット』を題材にして、北アフリカ難民が押し寄せる現代のマルセイユに舞台を移し、ナチの猛威が荒れた当時と現在と重ね合わせた時空をつないで映画化したもの)であろう。これはアンナ・ゼーガース(ドイツ系ユダヤ人マルクス主義者アンナ・レリングのペンネーム)の作品を、ナチ時代と難民問題を抱えた現代とを重ね合わせて、ナチの絶対的力を再生させた映画である。単に記憶に残っている恐怖を思い起こさせるだけでなく、その露骨な暴力が難民に対して再現されていることを見せてくれる映画である。
ナチ時代のパリと現在のマルセイユを重なり合わせる映像の中で、ナチの行為は時代の枠組みを超えて現代に浸透する。しかし、ペッツォルトが描く世界は1930年代後半でも現代でもない。すべての過去と現代のブレンドであり、暴力から逃げ隠れする人々(反ファシスト、ユダヤ人、北アフリカからの移民―即ち、民族浄化のターゲット)も過去と現代のブレンドである。 この不気味に滑らかな過去と現代の融合が現在に現実感をいっそう高めている―トランジットで起きる悲惨な出来事が、人類が過去に体験した非道の再来という現実感を雄弁に語っている。
ポストファシズムも必ずしも新しいものではなく、また単なる過去の再生でもない。トラヴェルソはこの複雑なもつれをほぐし、我々の解釈を助けてくれる。彼の本は「歴史としての現在」と「現在における歴史」の二部構成からなり、全体として6章にわたって、鋭い洞察力に富み、しばしば驚かせるような指摘を随所で行い、それらすべてが何故重要であるかを説明している。 彼の文章は相変わらずきびきびして集中的で、見事な総合性を発揮する研究論文となっている。それを補完するのが、彼の古典的マルクス主義、深く先を見通す歴史研究者としての感性、人物を活き活き描く伝記作家的感覚である。
彼が扱うサブテーマのリストを見ると、彼の本は特定分野の研究論文というより、「ポピュリズム」、「アイデンティティ政治」、「反ユダヤ主義」、「イスラーム嫌悪症」、「反・反ファシズム」、「全体主義暴力」、「ISISと全体主義」など重要事項に関する方法論敵考察の参考書という感じである。個々の事象の説明には、正確さに加えて微妙な差異や柔軟性が結合されている。例えば「ファシズム解釈」についての論述は次のようである。
ファシズムの定義そのものが論争の余地あるテーマである。最も限定的な定義によれば、1922~1943年イタリアを支配したベニート・ムッソリーニの政治体制になる。もっと広げると、二つの大戦の間にヨーロッパに現れた運動や政権を含む。中でも重要なのはドイツの国家社会主義(1933~45)とスペインのフランコ主義(1939~75)であう。」(97頁) 彼はこれにヴィシー・フランス政権、ポルトガルのアントニオ・サラザールの独裁政権エスタド・ノヴォ、中欧やアジアやラテンアメリカの国家主義的軍事政権を付け加えている。各章は短いが集中的で明晰な解説である。ところどころ脚注として引用文があり、それに関する著者の鋭いコメントがある。それが非常にタイムリーな設問の投げかけとなり、著者の学問的姿勢と思慮深さを表している。文章が活き活きしているので、読者は退屈することがない。
ポストファシズムは特定の史実性―21世紀初頭―に属している。そのためにそれには一貫性がなく、不安定で、しばしば相反する政治思想を混ぜ合わせたように、イデオロギー的にまとまりがないのである。(7頁) 掴みどころがない定義 同書の最初の100頁は、現代政治情勢の諸相を表現するために一般に使われている用語を扱っている。それらの用語の多くは意味論的に曖昧で、定義するにも掴みどころがないのだ。しかし、トラヴェルソの目的は、単に用語の繰り返しではなく、分析を行い違いを追求するという目的で、歴史的比較を可能にする語彙目録を作り出すことである。
例えば、「ポピュリズム」について。「ポピュリズム」は19世紀のロシアではナロードニキ、米国では農民同盟から発展した人民党という形で出現したが、現在では「それ自身の顔とイデオロギーを持った本格的政治現象」とは言えない。「ポピュリズムはイデオロギーというより、スタイルである。大衆を『体制』に反対させるために、大衆の『生来の』考え方を刺激し高めてエリートに反逆させる―政治的エスタブリッシュメント対社会―ための修辞論的手段である。」(15~16頁) さらに彼は「ポピュリスト」という語が適用された様々な人物―ニコル・サルコジ、バーニー・サンダース、エバ・モラレス、ネストル・キルチネル等―をあげ、「ポピュリズム」という語が「空っぽな殻で、中に入るヤドカリは右から左までまったく異なる政治思想である。」(16頁) 他方、「アイデンティティ政治」に関する論述では、「アイデンティタリアン運動」(訳注5:米国オルタナ右翼の論客リチャード・スペンサーが造語したと言われる言葉で、人種主義ではなく、ある集団が持つ文化・慣習・価値観を大切にするアイデンティティ至上主義だというが、結局同じことのように思われる。右の言葉だが、左にも適用される)の左右の変種に関してかなりはっきりしたガイドラインを提起している―排除を目指すアイデンティタリアン(仏の愛国戦線)と包含を目指すアイデンティタリアン(被抑圧マイノリティ)への分類である。
これに関連する20頁にわたる論述の中で、特に参考になるのは、アルジェリア系フランス人で、「共和国先住民の党」スポークスパーソンのウーリア・ブテルジャの共著『白人、ユダヤ人、我々』(White, Jews and Us: Toward a Politics of Revolutionary Love, Semiotexte, 2017)への言及である。同書が生物学的決定論を避けているにもかかわらず、反ユダヤ主義、反白人主義レイシズムという誤れるレッテルを貼られていると擁護したが、 白人、黒人、ユダヤ人というカテゴリーは「それぞれ差異や矛盾を内包しているが、それを消し去り、あたかも同質的エンティティでるかのように扱う(53頁)という不備な点があると指摘している。
トラヴェルソは、「社会問題と人種問題が深く絡み合っている」「インターセクショナリティ」(交差性)という現在米国で議論になっていることに関して、ほとんど超自然的な解釈をしている。インターセクショナリティという考え方は、レイシズムと外国人嫌いを代表する右翼の白人民族主義に対して左派のアイデンティティ政治を正当化する彼の議論に関与している。
左派のアイデンティティ政治はまったく異なったものである。それは排除の政治ではなく承認を求めるもの・・・既存の権利の拡張であり、他者の権利を制限したり、拒否するものではない。(55,57頁) しかし、同時に、彼は重要な警告も発している。「排他的なアイデンティティ政治―アイデンティティ主張だけに特化した政治運動―は近視眼的であるばかりでなく危険である。何故なら、政治の役割とはまさにそういう特定の主観性を乗り越え克服することにあるのだから。」(59頁)つまり、団結というビジョン―我々が共通の目的のために闘うことができる唯一の基礎である団結というビジョンを捨てるようなアイデンティティ政治は左派を弱めるのだ。
トランジットは第三章「イスラームという妖怪」で、「反ユダヤ主義」「ユダヤ人嫌悪」「イスラーム嫌悪」「イスラーム・ファシズム」(?)を取り上げている。彼は、今やイスラーム嫌悪が過去2世紀間にわたってヨーロッパ民族主義が生贄にしてきた反ユダヤ主義に取って代わったと論じている。 かつてのユダヤ人ボルシェビキと同じように、イスラーム・テロリストが他者性を帯びた肉体的特徴で以て表現される。(67頁) 同時に彼は、「イスラーム嫌悪は旧反ユダヤ主義の代用品にとどまらず、それ自身の古い起源と伝統―つまり植民地主義―を持つ」(75頁)と指摘する。
しかし、新しい「ユダヤ人嫌悪」が特にフランスで猛威を振るい、ユダヤ人が罪なき犠牲者となっている。この新しいユダヤ人嫌悪―例えばバンセンヌのコシェル・スーパーマーケットのテロ事件(訳注4:2015年、シャルリー・エフド襲撃事件と並んで、イスラーム過激派がユダヤ人を狙った事件で、4人死亡。なお、コシェルとはユダヤ教の食事規定に従った食品)―は、キリスト教ヨーロッパのユダヤ人嫌悪とは異なるが、そのステレオタイプ的遺産を受け継いでいる面も多々ある。過去にユダ人を迫害したヨーロッパ諸国は現在ではユダヤ人を保護する傾向にある。現代のユダヤ人嫌悪は主としてヨーロッパから疎外されていると感じているマイノリティから発している。彼らはユダヤ人を西洋社会の代表として攻撃する―時にはキリスト教ヨーロッパがでっち上げたシオン賢者の議決書(訳注6:ユダヤ人が世界征服を計画しているというでっち上げの文書)の影響を受けたり、イスラエルのパレスチナ人やアラブに対するやり方への反発もある。
「イスラーム・ファシズム」」は右翼も左翼も使う言葉だが、トラヴェルソはそれを「意味ある分析上のカテゴリーというよりは政治的争いで使用されるレッテル」(83頁)と考えている。イタリアのファシズムとドイツのナチズムはイスラーム・スンニ派の一部のサラフィー主義のような完全な宗教ではなかった。より正確には両者は政治的宗教の代わりになるもので、伝統的宗教にとって代わろうとした。もっとも最終的には妥協したが。
反対に、ISISの(超)ナショナリズムには血と土地というファシスト的カルトがない。むしろ表向きは国境を越えてすべての信者の結束を原則とする普遍性を吹聴している―この点でシオニズムと似ている。 ファシズム遺産 本書第二部は現在の知的世界で話題になっているファシズム遺産、反ファシズム、全体主義についての考察である。ファシズム遺産に関しては3人の巨匠を取り上げて論じている。ナチの迫害を逃れて英国及び米国へ亡命、ウィスコンシン大学で教鞭をとったドイツ・ユダヤ人のジョージL.モーセ(1918~99)、エルサレムのヘブライ大学教師で、ポーランド生まれのイスラエル人歴史家で、現在和平陣営シオニストとして『ハアレツ』で書いているゼーブ・ステルネル、ローマ大学で教えているイタリア人歴史家エミリオ・ジェンティーレの3人である。
同性愛者でもあったモーセは「自分の経験と記憶から啓示を得てブルジョア的世間体、民族主義とセクシャリティの間の複雑な関係、規範と他者性、保守主義、前衛芸術、およびファシズム美意識における身体イメージについて書いた」が、これと対照的にステルネルは「古典的歴史の政治思想に基づいて記述した。(99頁)ジェンティーレはムッソリーニの伝記作家として出発したが、後に方向展開し文化史研究に転じた。トラヴェルソは 「文化」「イデオロギー」「革命」という小見出しのもとで3人の業績を評価、その途中で関連する研究者たちにも触れながら、3人の長所と欠点を論述している。
それに関連して、歴史の「一般使用」という小見出しの中で、「ファシズムの解釈を、ファシズムを最大限に受け入れた国々の歴史機意識や集団記憶への影響という観点から見る時、その脆弱性が明らかになる」(127頁)と書いている。
私個人としてトラヴェルソがもっと取り上げて欲しかったと思うモーセに関することは、とマルク主主義活動家の妹ヒルデ・モーセ(1912~1982)が彼の思想に与えた影響である。モーセの思想は「彼が回顧録で述べている独特な知的経験の結果」である(98頁)とトラヴェルソも書いているので、妹との関係は重要であったと思われれる。 興味ある見解 第5章「反ファシズム」と第6章「全体主義の利用」は最終章になるが、それらは以前に雑誌に発表したものや、会議の議事録のリプリントである。しかし内容的に大変興味あるある見解なので、二度読みする価値は十分ある。
当惑させられるのは、彼が「反ファシズム」パラダイムと呼ぶ実践の成果に関する記述である。彼はフランソワ・フュレ(元フランス共産党員)を引用して、「反ファシズムは、人民戦線時代、ソ連がフランス知識人に与えた有害で全体主義的な影響をカモフラージュする人道主義的民主主義的仮面であった」(137頁)と述べている。
とはいえ、私の評価では、この多岐にわたるトピックを扱った本は、誤りが少ない。小さな例外をあげれば、トランプがムスリムを米国から追放する」(77頁)と言ったという断定であろう。多分2017年のムスリムが多く住んでいる7か国からの難民入国禁止令を指したのだろう。(大統領選挙中にはトランプは「ムスリムの米国入国を全面的に完全禁止する」と言っていた) 読者によっては、込み入った論述や言及にはもう少し説明とかバラランスを保つ補完があってもいいだろうと思う人がいるかもしれない。私自身も別個にもっと調べてみようと思った記述も何点かある。例えば、現在のユダヤ人嫌悪や反ユダヤ主義の検討については、イスラエルのレイシスト政策やヨーロッパの独裁者等との親交という背景をもっと考慮すべきだと思う。
反ファシズムと民主主義の同質性なら分かるが、資本主義と民主主義が同質であるという神話が今も続いているのは何故か。一般世論が共産主義を暴力イデオロギーだと考えている現実を変えるにはどうすればよいだろうか。歴史的には、共産主義は人民解放を求める社会運動を表すと同時に、人権を抑圧するトップダウン式の統治を表すという矛盾したものである。20世紀は左翼の誤れる夢想的政治で規定されるのか、それともスターリン以上に多くの命を奪ったレイシスト、ファシスト、反ユダヤ主義、イスラーム嫌悪の恐怖政治で規定されるのか。 トラヴェルソの課題 『ファシズムの新諸相』の締め括りは、極右の外国人嫌悪、レイシズム、白人至上主義、反グローバリズムの燃え上がりに対する警報である。
どうやら事態が沸騰し、蓋が吹っ飛ぶ気配である。大変化が起きそうで、我々はそれに備えなければならない。事態がそうなったとき、それにピッタリの言葉が発見されるであろう。(187頁) トラヴェルソの研究方法は一つの有効な活性剤で、我々の不安と危機感を取り上げる大衆的反ファシスト抵抗という集団的談話を創造してくれる。しかし、かつて革命家たちが闘いで実現し、その後私たちが批判・反対した過去の遺産を歴史化―ファシズムと反ファシズムの内部矛盾と曖昧性を見事に掘り起こしている点も、トラヴェルソ的研究方法の特徴でもある。
我々は日々グローバル左翼のために新しい政治モデルを創造しようと努力している。我々なりの社会主義ビジョンを構築しようとしている。しかし過去の記憶やそれを批判的に解釈する努力を決して放棄してはならない。現在の民主主義を壊す方法はたくさんあるだろうが、歴史的決定論とか階級的決定論などの目的論に引きずられてはならないのと同じように、時の勢いに押されて衝動的行動に走るのもよくない。 2010年のアラブの春が圧倒的な大衆動員が独裁者を非暴力的に倒したが、新たな独裁者がアラブの春をハイジャックして誕生するのを防ぐことが出来なかったことを忘れてはならない。選挙投票から魔法の呪文のように英雄的革命家が生まれることはあり得ないのだ。
過去が現在に活動していることを見るのを拒否したマーク・リラと異なり、トラヴェルソは過去は過去で終わってしまうものでなく、ファシスト的雰囲気は部分的にせよ現在に蘇っていることを見る活動家的研究者である。彼のいうポストファシズムはまだ終わっていない変化の過程である。
ファシズムは今日明日にでも権力を握る脅威でないかもしれないが、急速に大きくなっているのは事実だ。レイシスト右翼は別な方向に進むかもしれない。例えば権威主義的なポピュリスト民主主義へ向かうかもしれない。活動家は大きく目を開いていなければならない。
創造的マルクス主義思想家であるトラヴェルソはカート・ヴォネガットが『スローターハウス5』(1969)に登場させているトラファマドール星人(訳注7:ヴォネガットは米国の小説家。『スローターハウス5』はドレスデン爆撃を基点に、SF小説と人間性の分析を結びつけたような作品。トラファマドール星人はヴォネガットの幾つかの小説に登場する宇宙人)と共通する特徴を持っている―あらゆる時代を同時に見ることができるのだ。
CBSテレビ番組のクリスティーン・バラスキーの「ザ・グッド・ファイト」など、政治的狂気をばらまく大衆文化が目立つ現在である。トラヴェルソはこの現在をムッソリーニやヒトラーと結び付けることによって、2019年の暗い政治風景を説明している。ああいう人物や現象がカムバックするのではないかという疑問に備えよと警告している。
もしカムバックしてくるようなら、単一のマルク主主義や革命運動だけでは、それを迎え撃つ大衆の組織化や動員はできないであろう。ドグマや世俗的神話で凝り固まった「党イデオロギー」が行き詰まったことは、我々はよく知っている。そのうえ、現在最もマシだと評価されていた左翼、例えば英国社会主義労働者党や米国の国際社会主義機構などの最近の組織上の危機を見ても、うぬぼれた前衛意識の指導者の個人主義的行動が左翼運動全体に悪影響を及ぼすことを物語っている。
危険世界は彼方の問題ではなく、今ここにある危機である。トラヴェルソはそれに備え、それを正しく表現できる言葉を見つけよと、我々に課題を提起している。これは大変な課題ではあるが、世代を超え、背景も異なる多様な活動家たちが受け止めなければならない課題だ。自らの限界を認める謙虚さを持ち、誰とでも開かれた対話を行い、共同作業の実践を厭わず、最終的にはこの現在に未来を作り上げるためにみんなと力を合わせる気持ちがある人々が担う課題である。