昨年秋、「18年4月までに撤去。集落民はジェリコの山岳に移転せよ」と、イスラエル政府の方針が出されていたベドウィン集落=「ハーン・アル・アフマル」について、その後の経過をお伝えする。
イスラエル政府の強硬方針に対し国連、EUなど国際機関の厳しい批判や民衆の抵抗運動により、イ政府は方針見直しを強いられ、集落は半年間、生き続けた。
ところが9月23日、ハーン・アル・アフマル村に対しイスラエル軍が最後通牒を手渡したという緊急ニュースが流れ、ハマスは、「国連予算のカットとハーン・アル・アフマルの撤去政策に対し、イスラエル国内、西岸地区、ガザ地区、東エルサレムのパレスチナ人は、10月1日はゼネストせよ!」と呼び掛けた。この日、パレスチナ人の9割の店がシャッターを閉め、呼び掛けに応じた。ハーン・アル・アフマル村には、連帯運動やメディアが、常時数百人待機。撤去が予想された10月1日、イスラエル警察と軍は、大人数に恐れたのか、やってこなかった。しかし、強行撤去は数日中に行われるだろう。
この集落撤去は、E1地区計画の一部である。E1地区とは、エルサレム北部と東部の入植地に挟まれたパレスチナ人居住区からパレスチナ人を排除し、ユダヤ人専用地区(入植地)に変える計画である。集落撤去が強行されれば、東エルサレムは西岸地区から切り離されることになる。
翌24日、私は集落を訪ね、警告書を読ませてもらった。たった1枚の紙で、表はヘブライ語、裏はアラビア語でこう書かれてあった。―「10月1日までに集落を自分たちの手で撤去すれば、移転先への運搬は当局が手伝う。拒否するなら、強制撤去する」。
集落学校の校庭には、連帯運動のパレスチナ人、イスラエル人、外国人が常時待機する他、報道関係者が入れ替わりやってくる。この学校は2009年イタリアのNGOが、タイヤや土など自然の材料を利用して建てたものだ。毎晩約50人が校庭に寝泊まりする。いざとなると集落が軍に包囲され、誰も近づけなくなるからだ。
女性教師:「軍がきても授業を続けます。軍に出ていけと言われれば、出ていきます。お腹の子を守りたいですから」。
ハーン・アル・アフマル村は、エルサレムから死海方面10キロメートル先の国道脇に点在するベドウィン集落だ。集落は40家族から成り、約190人の住民を抱える。2キロメートル西に、パレスチナ北部と南部をつなげる幹線道路がある。ここに住むジャハリーン一族は、イスラエル建国以前、ナカブ砂漠(今のネゲブ砂漠)に暮らしていた。「イスラエル政府に協力するなら居留し続けてよい」と、イスラエル当局に交渉話をされたが、断ったために追放され、当時ヨルダン領だったユダ砂漠の赤色土の丘に移転した。
ところが67年、イスラエルが占領を開始。同地にマアレ・アドミム入植地が建設され、再び追放された。一部はアザリアのゴミ集積所に移転し、他の家族は4キロメートル離れたハーン・アル・アフマルに移転した。南方、北方に井戸があるので、そこで水を汲んでいた。
しかし数年後、入植地が建てられ、北方の井戸は入植者専用になった。さらに山々の裏には、軍基地、軍演習地が作られ、南方の井戸にもたどり着けなくなった。今はイスラエルの水道会社から水を買っている。事態はさらに悪化したのである。
93年には、「オスロ合意」により、一帯がC地区に指定された。C地区は行政、治安がイスラエルの管轄。ヨルダン川西岸地区の60%を占めるC地区は、掘立小屋であっても建造物にはイスラエルの許可が必要だ。無許可で建てた建物は、当局に撤去される。撤去の際は軍、警察が総出する。人件費など、撤去にかかる費用は、壊された家の持ち主に請求される。国連の調査によると、2010年から2014年の間、パレスチナ人の建設許可申請に許可が下りたのは1・5%だ。
集落のスポークスマンであるアブ・ハミースは、今年7月「集落撤去に反対するよう」米国議会に要請に出かけた。会議室のテーブルに地図が乗せられた。議員は彼に言った。
「エルサレムから死海付近まで道路の周辺は入植地で固める。道路は4車線に拡大する。この道路を使えるのはイスラエル人と外国人のみとし、パレスチナ人は立ち入り禁止とする。パレスチナ人にはジェリコ付近を迂回してもらう。君の集落は丘上にあるクファル・アドミム入植地に吸収される。西岸地区はヨルダン領、ガザ地区はエジプト領にする。だから、君の集落には立ち退いてもらわねばならない。もう決まったことだ」。
集落撤去は国際法上戦争犯罪だ
アブ・ハミースが米国議会を訪問し、集落を留守にしていた7月4日、武装警察と軍がブルドーザーを起動させようとした。現場にいた活動家がフェイスブックで生中継を開始。。連帯運動の民衆がヒューマン・チェーンを組んで座り込み、ブルドーザーの前をふさいだ。 警察は、パレスチナ人10人と外国人3人の計13人を、殴る蹴るの暴行を与えて逮捕した。逃げるベドウィン少女(19)はヒジャブをはぎ取られ、タイツをひっぱられ、数人がかりで逮捕された。止めに入った老人も警察に殴り倒された。この様子はテレビで繰り返し報道された。けがを負った35人のうち10人は病院に運ばれた。翌日、最高裁が警察に撤去延期を命令した。
外国人3人は釈放後、国外追放された。ハーン・アル・アフマルの住民5人は、12日後に釈放されたが、罰金25万円を現金払いさせられ、自宅のある集落に15日間近づいてはならないと命じられた。他の町村から応援に来て逮捕されたパレスチナ人は、罰金3万5千円を払わされ、30日間集落に接近してはならぬと命じられた。
連帯運動はさらに激しくなった。集落での金曜礼拝に、毎週数百人が参加した。テル・アビブやエルサレムで「ハーン・アル・アフマルの撤去に反対」デモや集会が何度も開かれた。
政府は裁判見直しを迫られ、8月1日エルサレム最高裁判所で追加裁判が開かれた。傍聴席もフロアーもメディアや活動家で満席。私も傍聴した。裁判長は、撤去責任が自分に負わされるのを恐れているように見えた。「移転先が決まらぬうちは、(1)撤去してはならない。(2)住民が撤去同意書にサインすることを条件とする。(3)ごみ集積所の隣または下水溜め所の隣のどちらか、移転先を選び、請願書を提出すること」との裁定だ。
裁判所による集落撤去理由の一つに「学校が高速道路から近すぎる」というのがある。アブ・ハミースは、集落の住民と話し合った結果、移転先を選ばず、撤去同意書にもサインしない方針を明らかにした。道路から150m離れたところに学校、家屋、テントを移す計画書を作製し、最高裁に提出した。しかし最高裁はこの請願書を却下。「1週間以内に退去せよ」と命令した。
9月13日夜中、軍は5棟を撤去。翌14日早朝、撤去作業を続行しようとした軍は、ブルドーザーの前に座り込んだ活動家3人を逮捕した。2人はパレスチナ人、1人はフランス・米国籍ユダヤ人=パリの大学で法学の教鞭をとる教授(66)だった。民衆の強い抵抗にあった警察は、集落を撤去せず、退散した。
国連、EUなど多くの国際機関に加え、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン政府も「集落を撤去しパレスチナ南北幹線道路をつぶすことによって、二国家和平案は崩壊する」として、撤去に反対している。集落の撤去は、国際法上、戦争犯罪である。