まさか私が生きている間に、「愛国」という言葉が、こんなにも肯定的に使われるようになるとは思っていなかった。秘密保護法も、安保「改悪」も済まされた現状でこのような感想を持つ私は、ぼんやりとした、時代に乗り遅れている人間なのだろう。
「こんなにも日本は素晴らしい」みたいなテレビ番組が多く流れているのに驚く。私が小さい頃(すなわち70~80年代)は逆に「海外はこんなに素晴らしい」みたいな番組が多かった覚えがある。なにゆえ日本という国が素晴らしいと声高に言わなければならないのか?
先日、日本のポップバンドのRADWIMPSが出した曲『HINOMARU』に対して、私はツイッターで、ドラムのビートが軍靴のように聞こえると書いたところ、即座に知らない人から、「耳がおかしいんじゃないの? 病院に行ったら?」という揶揄の書き込みが飛んできた。
揶揄されたことよりも、『HINOMARU』への批判が、そんなにもある一定の人々の機微に触れるものであることが、奇妙に感じられた。
百田尚樹など愛国を掲げるツイッターのアカウントをいくつか見たところ、何かと言うと左翼の陰謀と語るなど疑心暗鬼に囚われている。攻撃や加害を働く立場の者が、被害を受けた者のように振る舞う構図はDVなどでもみられるけれども、この疑心暗鬼、不安、不信は、「愛国」とどうやらとても相性が良いようなのだ。
思えば20年以上前から小林よしのりの従軍慰安婦に対してのバッシングや、朝鮮学校のチマチョゴリの切り裂きなどが起こっていた。でも同時に、社会党所属の首相が擁立されるなど、今とは違う状況も存在していた。この20数年の変化とは一体何なのか。「愛国」にまつわる疑念や問いは尽きないが、とりわけなぜ「愛国」は今だに人々の心を動かしてしまう力を持つのか、という問いが浮かぶ。
労働問題から見ると、この20年の変化と言えば1995年の日経連による提言や派遣労働の「緩和」政策。女性の深夜勤解禁なども影響し、そら恐ろしいほどメンタルヘルスの問題が増え、職場の人間関係が殺伐としてきている。政府や経団連はこの状況を「多様性」と称するようだが、労働相談などでもいじめやハラスメントが相談内容のトップとなっている。
愛国ではない「糧」を編み出す
ところで、私は学生時代、シモーヌ・ヴェイユというフランスの女性哲学者について研究していた。彼女には『根をもつこと』という著作があるのだが、「魂の糧」として、「安全」「平等」といったものの他に、なんと「愛国心」をあげているのだ。
「集団的なるもの」、ひいてはナチスへの抵抗、さらにドイツに占領されたフランスへの複雑な思いを込めて「愛国心」は人々の魂が求めるものであり、糧である、と書き出したのだ。「国家」(nation)は愛の対象にはならず、cité(シテ、英語で言うところの)こそがその愛の向かうべき先だと説くのではあるが、それにしても驚きではある。
citéで思い出す概念は「コミュニティ」だ。コミュニケーションやコモンといった言葉も最近流行っているが、これらはラテン語のcommunis―「共通の、共有の」から派生した言葉だ。最近、「コミュニティ」や「地域」に関心を持つ若者が多いことを知って驚いた。
町内会の係をやるのもだるいと思ってしまう私にとって、世代間ギャップを感じる出来事だった。ヴェイユの「共同体主義」的な傾きを、思想の衰退と捉える見方もある。しかし、若者の関心を見れば、ヴェイユの「衰退」から考えざるを得ないだろう。
ヴェイユ自身は、工場労働経験を経て、スペイン内戦参加、ナチスの台頭によるアメリカへの亡命、ドイツによるフランスの占領、そして身体の衰弱など、状況が過酷を極めていく過程で「愛国」や共同体が「糧」という思想を編み出した。
ここに二つの問いが生まれる。「愛国」や「共同体」は本当に「糧」なのか?と、それでは私たちの「糧」とは何か? だ。
日本の歴史を振り返れば、「愛国」やある種の共同体を人々の「糧」と考えるのは、暴力そのものだ。しかし私が、私たちが「飢え」ていることを受け止め、それを満たすために「愛国」やHINOMARUを使う方法ではない「糧」を編み出すことは、必要ではないか。