[くりりゅうの哲学ノート]極悪犯罪者は極刑にせよ?

「想像力」について 在野の哲学者・文筆業 栗田 隆子

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 ぼんやりとテレビを見ていたら、「テレビ史を揺るがせた100の重大ニューススクープ映像の舞台裏」という番組を放送していた。さまざまなニュースが取り上げられる中で、東アジア反日武装戦線による三菱重工爆破事件が私の目を引いた。とはいえ、その番組では「東アジア反日武装戦線」という言葉はほとんど出てこなかった。

 主にその番組で取り上げられたのは、東アジア反日武装戦線のメンバーの一人である大道寺あや子さんだった。組織としてではなく、彼女個人(仲間がいた)くらいしか取り上げられてないのも、奇妙な気がした。この時代、党派であることやそれこそセクトというものが良くも悪くも重視されていた時代なのに、個人だけが取り上げられるのはなんとも時代の空気を伝えようとしない感を覚えたからだ。

 それはともかく、この事件に対してある男性タレントは、国家権力を支えているのは日本の大企業であるということを書いたと報じられた大道寺あや子さんの手記について、「言っていることが何もわからないし、犯人は一刻も早く捕まるべきだ」とコメントを述べた。

 そういうニュースが取り上げられると、しばしば「極悪犯罪者は死刑にするべきだ」という話が出てくる。さらには「一瞬で死刑にするなんて生ぬるい。死を願うように、そういう犯罪者には拷問をしたらいい」という人もいる。そうして、そのような死刑や拷問を考える根拠として、「被害者」に対する思いを口にする。

警察機関への無邪気な信頼

 これらの発言…先ほどの男性タレントや、死刑や拷問を願う声に関して、気になるのは警察機関に対する信頼感である。

 つまり、「警察は正しくない人を罰し、正しい人には罰を振るわない」というえらく無邪気というか、無防備な警察機関への信頼が見て取れる。このこと自体、私には不気味である。その無防備な信頼の、さらに根本には何があるのだろうか?

 まず一つに考えられるのは、いわば自分や周りの人間が、「加害者」になる想像力より、「被害者」になる想像力がとても強く働いている、ということだ。

 そもそも、被害者がいれば、加害者がいる。自分がその立場になるだけでなく、自分の家族や友人知人など、周囲の人がそのような立場になることには、全くと言っていいほど関心を寄せない。自分という存在と加害の存在を結びつけて考えないことにも、私は驚く。と言うか、こういう加害への想いを寄せる人間は、それこそ「人権派」とか言われて軽蔑されたりしているのだろうか?

 ともすれば加害者への人権擁護どころか、活動業界などだと、自分がマジョリティであることにいわば恥ずかしさを感じている人間にも時々出会う(全てとは言わない)。そのような、自分に「権力があり」「加害を働いてしまうのではないか?」と恐れるような気持ちを持ち続ける、つまり加害への可能性をわが身に引きつけて考えることと、被害者に自分の思いを近づけて考えることは、一体、何が違うのか、と改めて考える。

想像力を別の方向ヘ

 ただ一つ。私は強く思う。「被害者」の人に「思いやる」、または、被害者になる可能性に想像力を働かせて、極刑を願う気持ちと「被害者の人の力になる」ことは、まるで別物である。もっと言えば、被害者になることそのものは、全く位相の違うことだ。場合によっては、対立しさえするものではないだろうか。

 というのも、この「被害者を想像する」という、この「想像」がひどくクセものだからだ。この想像は、一歩も自分の領域からは出てはいかない。自分の生活も、考え方も、感じ方も、現実も、何も変えないがための「想像」。被害者は絶対的にかわいそうで、加害者を憎んでいるだろうという「想像」…。それこそ例えば、2000年5月3日に起きた西鉄バスジャック事件の加害者に対して、被害者である山口由美子さんは「私の子どもと、(加害者である:筆者注)この少年の違いは何だろう?」と幾度も幾度も考えたという。彼女の「想像」、つまり自分の子どもと違う「少年」についての「想像」は、現実を動かす。佐賀市内に不登校や引きこもりの子どもや親のためのサークルを設立し、少年(子ども)の居場所づくりを決意し、活動を続けているという。

 私は、もう、自分の主張を強固にさせ、一歩も自分を変えないがための想像をやめたい。所詮、自分の意見を言いたいだけのために、絶対的な足がかりになりそうな立場を意識もせずに、利用するのだけは。

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