長年にわたり自治寮としての歴史を歩んできた京都大学吉田寮が今、自治寮としての存立基盤を脅かされている。昨年の12月19日に京都大学当局により公表された「吉田寮生の安全確保についての基本方針」(※以下、「基本方針」と略す)では、今年の9月30日までに寮生全員が寮を退去すること、および新入寮生が入ることを禁止する、ということが言われている。
川添現学生担当理事・副学長は、東寮と西寮からなる吉田寮の建物の内、東寮が老朽化のために危険であり、寮生の安全確保を理由として今回の「基本方針」を決めた、と京都大学ホームページ上の『「基本方針」の実施・策定について』で説明している。
しかしながら、当局は安全性に問題のない西寮からも寮生の退去を求めている。また、京大当局が寮生に用意するとしている代替宿舎に関しては、入居条件や光熱・水道費の負担区分が今の吉田寮のそれとは異なるものとされている。
それは学籍や在籍年数による差別・選別、受益者負担主義が反映されたものとなっており、建物の老朽化を「基本方針」の口実としながら具体的な案が「基本方針」には盛り込まれていないことを考えると、「安全確保」の建前を使いながら当局による管理強化を推し進める意図があるのではと疑わざるを得ないだろう。なお、吉田寮自治会は京都市の条例を適用し、できる限り現在の姿で東寮を補修する案を主張してきた。
学生運動への抑圧と闘争吉田寮問題の歴史
これまでの吉田寮と京大当局の関係を振り返ってみよう。
68、69年の京大闘争の末に1971年に、寮に関する事項を一方的に決めない、寮と当局の話し合いは大衆団交の場で行う、入退寮者の決定は寮自治会が行うことなどを取り決めた確約が吉田寮と京大当局の間で結ばれて以降、いわゆる確約・団交体制が生まれた。
しかし、68年闘争時にまれに見る高揚期を迎えた学生運動を抑圧するための学寮の管理強化の動きが、当時の文部省により始められたのも、その時期だった。
1971年、文部省は学寮を紛争の根源地と規定し、(1)大学当局の入退寮権掌握、(2)全室個室、(3)光熱・水道費の受益者負担、(4)寮食堂なし、を条件とした上でしか新たな学寮は建てない、とした。寮生が自由に交流することで、運動が生まれることを防ぐのがその意図である。以降、老朽化による建て替え、ないし取り壊しを口実とした学寮つぶしが、全国の大学で始まる。
京都大学では、1977年に竹本処分を当局が強行し、学内の管理強化が本格化し始めた頃の1978年に、当時の沢田敏男学生部長により一方的に確約・団交体制の破棄が宣言され、自治寮への弾圧が開始された。
その後、沢田が総長に就任し、1982年に、吉田寮の廃寮と1986年3月31日を在寮期限とすることが、評議会で決定された。理由は建物の老朽化とされたが、背景に管理強化の意図があることが、当時の沢田の発言により明らかになった。
これに対し、吉田寮自治会は学内および学外との幅広い連帯を勝ち取り、かつ在寮期限後も寮生の数が自主入寮選考により増加するなどしたため、当局は廃寮を断念し、1989年には吉田寮の存続を認めざるを得なくなった。
なお、この在寮期限闘争の時期以降、吉田寮自治会は入寮資格を元々は男子学部生のみでかつ留学生不可としていたのを、学籍やジェンダー、国籍により差別しない、とし、また、寮食堂をイベントの会場として外部にも開くなどの試みを始め、それは今に至るまで継続している。寮を開放的な場とする試みは、現在においても継続中のものである。
独立行政法人化による大学の企業化が抑圧をもたらす
在寮期限闘争が終結しても、老朽化した東寮をどうするかの問題は継続した。
回復された確約・団交体制のもとでその話し合いが進められ、当初は新寮に建て替え、かつそれを自治寮とすることが自治会の方針であったが、建て替えを契機に管理強化を図ろうとする当局との話し合いはまとまらず、2000年代に入り、東寮の補修で老朽化の問題を解決する案が浮上し、2005年には補修に向けた耐震調査と補修の設計が行われたが、翌年にその計画は予算の都合で破棄されてしまった。2012年には当局との間で東寮を補修するという確約が結ばれ、事は前進するかに思えたが、その後補修へ向けた交渉は難航し、そして2015年の7月に京大当局より入寮募集をやめるようにと、一方的な要請が寮自治会に対して行われたのである(※入寮募集はその後も継続)。
以降、入寮募集の時期が迫るたびに同様の要請が自治会に対してなされ、2015年11月に学生担当理事・副学長に就任した川添氏は、従来の確約・団交体制の引継ぎに関して否定的な態度を取り続け、副学長との開かれた場での交渉を求める寮側の求めには何ら応じてこなかった。そして、ついに「基本方針」が公表されたのである。
外部資本の連携介入が大学自治の危機を招く
現在、吉田寮自治会が京大当局と東寮の老朽化対策その他で話し合うことが困難となっている背景に、大学の意思決定システムが変化していることがあげられるだろう。
従来は寮に関する事柄を学生部長と自治会との交渉を経て決めることができたのが、1998年に副学長制が導入されて以降は、学生部との話し合いのみではできなくなった。さらに、2004年に国立大学が独立行政法人化して以降は、総長を中心としたトップダウン型の意思決定が容易となった。
こうした背景のもとに、学寮に関する事柄を学生との交渉を担当する部局との間だけで決められない、ということが起きてくるようになった。東寮の補修を寮自治会と副学長との話し合いにより合意したにもかかわらず、それが反古にされてしまうのは、昨今の大学の意思決定のあり方が背景にある。
学生自治会との話し合いより、学内の執行部の独断により学生に関する事柄が決められるのが、今の現実なのだ。さらに、独立行政法人化以降、大学はある種の企業体となったことで、外部の資本との連携、経営への財界人の参画が加速し、大学自治のなかでなされてきた各種の取り決めが法令遵守の観点から破棄されていくことも、当たり前となった。
京都大学も例外ではなく、松本前総長の時代には企業と大学の結び付きが加速化した。京大当局の吉田寮に対する近年の姿勢にも、受益者負担主義や敷地面積の有効活用の重視といった大学の外の社会での論理・常識が反映されていると言える。こうした大学の自治の危機のなかで吉田寮問題も考えられるべきであろう。