イスラエルのセファルディム:ユダヤ人シオニズム被害者から見るシオニズム

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もう一つのアラブ・イスラエル問題

(編集部・脇浜)

 (ニューヨーク市立大学の文化・女性学教授であるエラ・ハビーバ・ショハト(1959~)はイスラエル生まれのイスラエル育ちだが、両親は一九五〇年代初期に故郷イラクを逃れて移民してきたイラク・ユダヤ人であった。彼女は「アラブ・ユダヤ人としての私は、よくこの矛盾語法の『謎』を説明しなければならないことがある。私たちがイディッシュ語でなくアラビア語を話してきたこと、数千年間私たちの文化活動が、宗教的なものも非宗教的なものも、主としてアラビア語で行われてきたことを説明しなければならないのです」と語っている。イスラエル・ユダヤ人の約半分はショハトのようなミズラヒ、つまりルーツがヨーロッパでなく北アフリカや中東にあるセファルディである。シオニズムは純ヨーロッパ産で、セファルディの歴史や状況を語ることはなかった。実際、シオニズム創始者アシュケナジーの眼には、ミズラヒは「アラブ人」と同じ後進的民族で、ただ宗教だけがアラブ人と異なっているだけだった。彼らをイスラエルへ移民させたとき、イスラエルは露骨な強制力と懐柔策の両方を使って、彼らにアラビア語と文化的遺産や風習を捨てさせ、建国者アシュケナジーの文化と生活様式に同化するように仕向けた。一九九〇年代にはミズラヒはブラック・パンサーという抵抗運動を起こしたことがある。(モッロコ出身のチャーリー・ビトンが1972年に創設した運動。彼は「反ユダヤ主義はヨーロッパ産で、モロッコにはなかった。ヨーロッパ・ユダヤ人はヨーロッパで搾取階級だったが、パレスチナでも同じだ。シオニズムはパレスチナへ来てヨーロッパの分家を作った」と宣言した。しかしこれは例外現象で、セファルディ大衆は反アラブ右翼政党の票田となっているのが実情)

 ショハトの「アラブ・ユダヤ人」という自己表現はかなりの反発を招いた。とりわけ、最も身近な他人であるアラブ人を嫌悪し、右翼政党に投票するミズラヒの間では不評だった。こういうミズラヒにとってイスラエルは、アラブ民族主義の台頭に伴って、とりわけ一九四八年戦争敗北でいっそう厳しくなった反ユダヤ主義に対する避難所であった。しかしミズラヒの社会活動家や知識人少数派は無視できない力を持ち、ショハトはその勢力のスポークスウーマンである。この勢力はイスラエル社会に対する急進的批判勢力となり、ミズラヒの運命をパレスチナ人と結びつける議論を発展させた。ショハトによると、「パレスチナ人から財産、土地、民族的・政治的権利を奪ったのと同じ歴史的過程が、中東と北アフリカのユダヤ人から財産、土地、ムスリム諸国へのルーツを奪う歴史過程と繋がっている」というのだ。次の彼女の論文は、ミズラヒ ― イスラエルの未来の多数派 ― を「国家の中の半植民地民族」と描き、挑戦的な論理を展開している。長い論文で、かなり省略した)

イスラエルのセファルディム:ユダヤ人シオニズム被害者から見るシオニズム

エラ・ショハト

出典:『ソーシャル・テキスト』(一九八八)(米国のデューク大学 出版発刊の季刊研究誌)
(原注は削除した)

 これまでイスラエルとシオニズムに関する対抗的研究議論は、主にユダヤ人・アラブ人紛争に焦点を当て、イスラエルを東洋に対して西洋と同盟を結んだ人工国家で、その存在基盤はまさにオリエントとパレスチナ人の正当な権利の否定の上にある、というものだった。私はこの二元論(東洋対西洋、アラブ対ユダヤ、パレスチナ人対ユダヤ人)的議論の範囲を広げ、これまでの議論や研究やディスコースでほとんど取り上げられなかった問題、つまり一つの仲介体の存在、主としてアラブ・ムスリム諸国出身セファルディであるアラブ・ユダヤ人/ミズラヒ/オリエンタル・ユダヤ人の存在を、対抗的議論の中に組み入れたい。議論や研究をもっと完全にするためには、シオニズムが影響を与えたのはパレスチナ人だけでなく、今やイスラエル・ユダヤ人人口の半分を占めるようになったセファルディム(セファルディの複数形)にも負の影響を及ぼしてきたことの考察も加えなければならない、と私は考える。シオニズムはパレスチナとパレスチナ人を代弁し、そうすることでパレスチナ人の自己表現を「ブロック」するのであるが、同じようにオリエンタル・ユダヤ人の代弁もできると思い込んでいるのだ。シオニストはアラブ人ムスリムやイスラエルの東側にパレスチナ人が存在することを平然と否定するが、そういう論理の当然の帰結として、ミズラヒ(東洋のユダヤ人)がユダヤ人の中に存在することも否定する。ミズラヒはパレスチナ人と同じように、いやもっと巧妙で野蛮さが目立たたないやり方で、自己表現の権利を奪われてきた。国内はもちろん世界舞台でも、イスラエルを代表する声はほぼ例外なくヨーロッパ・ユダヤ人、つまりアシュケナジーの声で、セファルディ/ミズラヒの声は抑えられ、沈黙させられてきた。

 シオニズムは全ユダヤ人のための解放運動だと主張、シオニスト・イデオローグたちは「ユダヤ人」と「シオニスト」を事実上の同意語にしようと懸命である。しかし、実際は、シオニズムは基本的にヨーロッパ・ユダヤ人のための解放運動(それもかなり怪しい)で、もっと正確に言えば、イスラエルに住み着いた僅かなヨーロッパ・ユダヤ人の解放運動であった。シオニズムはユダヤ人すべてに民族郷土を提供していると主張するが、すべてのユダヤ人に同一の気前好さで民族郷土を提供してきたわけではない。セファルディ・ユダヤ人が初めイスラエルへ連れて来られたのは、そうしなければならない人口論的理由があったからだ。いったんイスラエルへ入ると、セファルディは系統的な差別扱いを受けた。生活に必要なエネルギーや物資的資源の配分は常にヨーロッパ・ユダヤ人に有利で、オリエンタル・ユダヤ人に不利であった。この論文では、私は、イスラエルのセファルディ・ユダヤ人が経験してきた構造的差別の実態を記述し、そういう差別・抑圧の歴史的起源に若干触れ、そういう差別を隠蔽し、あるいは美辞麗句で純化して持続させる病的ディスコース ― 史料編纂的、社会学的、政治学的、ジャーナリズム的 ― の症候分析を提示する。

 東西問題と重なってあるのは、関連はあるが同じではないもう一つの問題、すなわち「第一世界」と「第三世界」の関係である。単純に見ても慣習的定義から見てもイスラエルは第三世界の国ではないが、第三世界との共通点、構造的類似性がある。その類似は意識されることはなく、とりわけ肝心のイスラエル内では意識に上ることさえない。イスラエルのスポークスマンたちが表明する自画像にもかかわらずイスラエルの「第三世界性」が見られるのはどの点であろうか。まず第一に、人口統計から見て、イスラエル人口の半分以上が第三世界ないしは第三世界出身であることだ。パレスチナ人がイスラエル人口の約二十%、セファルディ、その多くはごく最近にモロッコ、アルジェリア、エジプト、イラク、イラン、インドなど第三世界の国々からやってきた人々がイスラエル人口の約五十%、合計約七十%の人口が第三世界人ないしは第三世界に由来する人々で構成されているのだ。(これに占領地西岸地区とガザの人々を加えると、ほぼ九十%の人々が第三世界人となる)このように人口地図を読み直すと、イスラエルにおけるヨーロッパ系ヘゲモニーはまったく絶対的少数者の特産物で、「東洋性」や「第三世界性」の無視の上に成り立っている。

 イスラエル内ではヨーロッパ・ユダヤ人が、パレスチナ人ばかりでなくオリエンタル・ユダヤ人をも支配する第一世界エリートである。それに対して第三世界人民たるセファルディムは国家内の半植民地民族となる。ここで私が依拠する分析法は反植民主義論一般、フランツ・ファノン(訳注:1925~1961.アルジェリア独立運動の思想的指導者。『地に呪われたる者』は日本での反差別運動でも若者によく読まれた)やエメ・セゼール(訳注:1913~2008.『植民地主義論』でネグリチュード運動を説いた)の反植民地主義ディスコースや、とりわけエドワード・サイードが系統的に研究した、ポスト啓蒙主義時代にヨーロッパ文化がオリエントを管理 ― 場合によっては生産 ― するのに役立った、あの捉えどころのない概念であるオリエンタリズムに負うところが多い。オリエンタリストは、オリエントを西洋とは異なると思う諸属性の集まりとして描き、事実ないし架空の特徴に西洋に有利で東洋に不利な一般化した価値判断をあてがい、それによって西洋の特権や侵略を正当化するのである。従って私の論文は、東洋/西洋二元論の、一方が合理的、先進的、優秀で、人間主義的なものとして生産・再生産され、他方が異常で、後進的、劣等なものとして生産・再生産されるプロセス、およびそれがオリエンタル・ユダヤ人にどんな影響を及ぼしているかを、記述するのである。

シオニスト・マスター説話(ナラティヴ)

 セファルディムを第三世界民族と見る見方はイスラエル内では支配的で、西洋メディアによって世界へ流されるディスコースの性格とは真逆である。そのディスコースによれば、ヨーロッパ・シオニズムがセファルディ・ユダヤ人をアラブ人の残虐な「支配」から「救出」したことになる。貧困と迷信に囚われた「原始的状態」から救い出し、「レバント的風土」の中では朧げに偶然的にしか知ることができなかった近代西洋社会の価値観、寛容精神、民主主義、「人道主義」へと優しく導入してやったのである。もちろん、イスラエルへ移住したときは、これまでの彼らの生活水準とヨーロッパ・ユダヤ人のそれとの「ギャップ」問題で苦しんだばかりでなく、専制君主国オリエント出身特有の非識字、性差別、前近代性、そして貧乏子沢山の大家族的傾向がハンディキャップとなって、イスラエルの自由主義と繁栄した社会に「うまく適合できない」という問題でも苦しんだ。しかし、幸運にも、イスラエルの政治体制、福祉制度、教育制度が力を発揮して、彼らを文明的現代社会の生活様式に慣れ、その一員となれるように教育して、「そのギャップを縮めた」のだ。さらに幸運なことに、白色と有色の間の結婚も急速に進み、セファルディムの「伝統的文化的価値観」、民族音楽、民族慣習、もてなし文化などが広く認知・尊重されるようになった。ただ、一つ大きな問題がある。教育レベルが低く、「民主主義経験の欠如」のために、アジア・アフリカ系ユダヤ人は、自由主義的・世俗的で教育レベルの高いヨーロッパ・ユダヤ人とは対照的に、極度に保守的になり、場合によっては反動的な宗教的狂信主義に陥る傾向がある。彼らは社会主義に敵対的で、右翼政党の支持基盤を形成している。さらに、故郷のアラブ諸国で酷い扱いを受けたから、アラブとの「妥当な解決」を図ろうとするイスラエルの「和平陣営」の努力に反対、その意味で「和平の障害」となっているというのだ。

 この言説に対して今からその根本的欺瞞性を記述するのであるが、その前に、この言説が広範に受け入れられている状態を述べなければならない。これは右翼と「左翼」の両方が共有するディスコースあり、しかも宗教的変種もあれば世俗的変種もあり、昔の初期版もあれば現代版もある。セファルディム(および彼らの出身地の第三世界諸国)を酷評するイデオロギーがイスラエル社会のエリートによって作り上げられ、政治家、社会学者、教育者、著作家、マス・メディアによって伝播されてきた。このイデオロギーは明らかに植民地主義的意味合いを含んだ様々な偏見の絡み合いから成るディスコースである。だから、イスラエル・エリートがセファルディムを他の「低級な」被植民地民族と同類だと思うのは驚くことではない。アリェ・ゲルブルムというアシュケナジーのジャーナリストがアラブ・ムスリム諸国からの大量移民に関して、一九四九年に次のような記事を書いた。

 これはこの国が初めて経験する人種の移民である・・・我々は原始的段階の頂点にある種族、知的水準が事実上絶対的無知、いやもっと悪いことには、知的なものを理解する能力がまったくない種族を迎えて入れているのだ。彼らは同じ地域で共に暮らしてきたアラブ人、ネグロイド、ベルベル人よりちょっとマシな程度の知的水準かもしれない。いずれにせよ、エレツ・イスラエル(イスラエルの地)の先住民パレスチナ・アラブ人よりもレベルが低い・・・このユダヤ人たちは原始的で野蛮な本能に従属しているため、ユダヤ教信仰もいい加減である・・・アフリカ人と同じように賭け事、泥酔、売春、強盗、窃盗などの悪癖や風習がある。不衛生で、ほとんどがひどい眼病、皮膚病、性病を患っている。慢性的怠け者で、仕事嫌いで、反社会的分子なので、我々は安心できない・・・「アリヤト・ハノアル」(青少年移民を促進する公的機関)(訳注:1933年ドイツで設立された運動で、婦人シオニスト組織ハダッサのプロジェクト。ユダヤ人の子ども、とりわけ孤児などを、窮乏や迫害から救い出し、教育する運動。ユダヤ機関の一部門で、青少年のパレスチナ移民運動)もモロッコの子どもの移民受け入れを拒否しているし、キブツ運動も彼らをキブツに入れることを承諾しない。

 この記事の結語部分で、彼は、フランス人外交官で社会学者の親切な忠告を引用、アシュケナジーのセファルディムに対する対応がフランスの植民地経営手法と似ていることを明らかにしている。フランス外交官はフランスのアフリカ植民地経験に基づいて、次の引用文のような忠告をイスラエルに行ったのである。

 あなた方イスラエル人は、我々フランス人と同じ致命的な過ちを犯しています・・・アフリカ人に門戸を開きすぎていることです・・・ある種の人材の移民受け入れは国家の品格を落として、レヴァントの一国に格下げになります。そうなるとあなた方の未来は閉ざされてしまうでしょう。国内はどんどん悪化して、世界から忘れられてしまうでしょう。

 このディスコースが物事を後退的に見る特異なジャーナリストの一時的精神錯乱の産物だと見られないように、ここでイスラエル国首相ダヴィド・ベン=グリオンの言葉も引用しよう。彼はセファルディ移民を「最も初歩的な知識すら欠如」し、「ユダヤ的教育はおろか人間としての教育のかけらもない」と表現した。ベン=グリオンはオリエンタル・ユダヤ人に対する軽蔑を繰り返し表明している。「我々はイスラエル人がアラブ人になることを望まない。人間や社会を腐らせるレヴァント風土と闘い、ユダヤ人がディアスポラ時代に花咲かせた優れたユダヤ的価値観を守るのが我々イスラエル人に課せられた義務だ」とも言った。その後何年にもわたってイスラエル指導者たちは、アラブ人やオリエンタル・ユダヤ人に関するこのようなヨーロッパ中心主義的思想を絶えず繰り返し強化・正当化していった。アバ・エバンは「(セファルディ)のために我々が不自然なオリエンタリズムに陥るのでなく、彼らに西洋的精神を吹き込むことを目的とすべきだ」と言ったが、同時に「我々を悩ませる大きな不安の一つは・・・オリエント出身移民の数に圧倒されてイスラエルが近隣世界と同じような文化レベルに低下する危惧だ」とも言っている。ゴルダ・メイルは、いかにも植民地主義者的感覚で、セファルディムは昔の未発達時代、彼女の感覚ではたぶん十六世紀(他の人たちは漠然と「中世」と考える)からやってきたというイメージを抱いていた。「この移民たちを適切な文明水準に引き上げることは可能だろうか」と疑問を呈した。クネセトの委員会でモロッコ出身ユダヤ人を「野蛮人」と呼び、セファルディムを米国の黒人奴隷と同じだと軽蔑的に語ることが度々あったベン=グリオンは、セファルディムの知的能力や、そのユダヤ民族性さえも疑ったほどであった。政府発行年鑑の中に掲載された「イスラエルの栄光」と題する論文の中で、首相は「オリエンタル・ユダヤ人の民族集団から神の存在が消えてしまった」と嘆き、他方でヨーロッパ・ユダヤ人が「質的にも量的にもわが民族を導いてきた」と称賛した。シオニストの作品や演説は、歴史資料の観点から見ても疑わしいセファルディ観を、頻繁に提起する。即ち、オリエンタル・ユダヤ人は、イスラエルへ「集合する」前は、「歴史から忘れられた存在」だという。これは、皮肉なことに、ユダヤ人をアフリカ黒人と同じように西洋文明の外側にいたというヘーゲルなどの十九世紀的評価を援護することになる。この意味で、ヨーロッパ・シオニストは、いつも「歴史を作る」側に立ち、自分たちが画期的偉業を行い、原住民たちが形成する「社会組織がない無機質背景」を冒険する「オデッセイ」という自画像を持つ、フランツ・ファノンが記述する植民地主義者とそっくりである。

 さらに、一九五〇年代初期、イスラエル社会の最も著名な知識人たちであるヘブライ大学エルサレム校の学者たちが、「エスニック問題」に関する論文を次々と発表した。カルル・フランケンシュタインは「後進諸国からの移民の多くが原始的メンタリティにあることを認めなければならない」と述べ、彼らのメンタリティと国内の子ども、発達遅延者、精神障害者のそれとを比較研究すれば何か役に立つかもしれないと提案した。もう一人の学者ヨーセフ・グロースは、オリエント移民が「精神的退行」や「自我発達障害」を患っていると診断した。「セファルディム問題」に関する拡大シンポジュームが「原始性の本質」と題する討論会として開催され、そこでは、ヨーロッパ文化的価値観を強制的に注入してアラブ系ユダヤ人を「後進性」から救い出すしかないという結論が導き出された。一九六四年、カルマン・カツェネルソンの露骨な人種差別的作品『アシュケナジー革命』(訳注:カツェネルソンは1907年ロシア生まれで1923年にパレスチナへ移民。シオニズム修正主義派と親交。本人は「シオニストでなく、アシュケナジー民族主義者」だと自己主張。同書はヘブライ語で書かれているが、2011年にReuben Hayatが英訳。Jewamongyou.files.wordpress.comで英訳文が見られる)が出た。同書で彼はオリエンタル・ユダヤ人の大量イスラエル移民を危険だと抗議、セファルディムの修復不可能な本質的劣等性を論じ、雑婚を通じてアシュケナジーに人種的劣等性が感染することへの懸念を表明、アシュケナジームはセファルディムの盛んな人口増殖に対して自らを守れと警告した。

 この種の態度はなくなっていない。それどころかまだ広く流布していて、それも政治的傾向の如何に関わらず、多くのイスラエル・ユダヤ人がそういう態度に囚われている。市民権運動の指導者で、クネセト議員でもあるシュラミット・アロニはセファルディのデモを評して、まるで「未開部族」のように「トムトム太鼓の響きと単調な呪文で動く野蛮部族の兵隊」のようだと言ったことがある。セファルディムをアフリカ黒人に喩える比喩的表現は、皮肉なことに、反セム主義ヨーロッパ人が好んで使うことば「黒いユダヤ人」を思い出させる。(実際、ヨーロッパ系ユダヤ人同士の会話ではセファルディを「シュヴァルツェ・ハイエス」(黒い獣)と呼ぶことがある)アシュケナジー知識人の間で人気があり、非常に水準の高いジャーナリズムと言われるリベラル紙『ハアレツ』のコラムニストであるアムノン・ダンクネルも、セファルディの特徴を「我々イスラエル人が身に着けようと努力している」西洋文化より明らかに劣等であるイスラム文化の直系だと酷評した。彼は自分をいわゆる国家の「寛容」政策の犠牲者だと表現し、オリエントから来た「半人間」たちと一緒に暮さなければならないことを嘆いた。

 この争い(war)(アシュケナジームとセファルディムの間の)は兄弟喧嘩じゃない。争いでないからではなく、兄弟でないからだ。この押し付けられた争いで私がそのパートナーであっても、私は相手を「兄弟」と認めることを拒否する。彼らは私の兄弟ではない。姉や妹でもない。もうほっといてくれ。私には姉も妹もいないのだ・・・イスラエルの愛という粘々した毛布を私の頭の上から被せ、偽りようのない差別感情の対象である文化欠如に対して思いやりの態度で接してやれと要求する・・・私をヒステリックな狒々と同じ檻の中に入れて、「さあ、これで君たちは同じだ。対話を始めなさい」と言う。私は選択できない。「狒々は私に敵対的で、番人も私の行動を厳しく監視する。そのうえイスラエルの愛の預言者たちは脇に立って、物知り顔で私にウィンクしてみせ、「彼に優しく語りかけなさい。彼にバナナを投げてやりなさい。何といっても、あなた方は同じ民族の兄弟なのです」と言うのだ。

 ここでもまたフランツ・ファノンが描いた植民者、動物寓話に依拠して植民地原住民を語る入植者、動物学的用語で以て先住民を表現する植民地主義者のことを思い起こさせられる。(中略)

 実際の歴史的記録によれば、オリエンタル・ユダヤ人は圧倒的に都市生活者であった。もっとも、都市生活が本質的に良いもので、「洞窟生活」が本質的に劣等というわけではない。そういう意味で言っているのでなく、一種の「原始性を求める気持ち」、一種の否定主義的発想が働いていることを指摘したいのだ。それがために、アジア・アフリカ系ユダヤ人をテクノロジーや近代性に無知な存在と描くのだ。そして、オリエント世界の惨めな像と、イスラエルへ来た後に読み書きを覚え、トラクターやコンバイン等の近代的機械の操縦を修得したオリエンタル・ユダヤ人の明るい顔とを比較するのである。

 イスラエルのアシュケナジームは、西洋へ売り込むために、オリエント系ユダヤ人の神秘性やロマンに磨きをかけ、魅力的なものにする作用をも担う ― これは学問研究分野でも見られるパターンである。例えば、オラ・グロリア・ジェイコブ=アーズーニのミシガン大学博士論文(一九七五年)で、後に本として出版された『イスラエルの映画界 ― 社会的・文化的影響、一九一二~一九七三』は、イスラエルの「エキゾチック」なセファルディ・コミュニティがかつて「得体不明な熱帯性疫病のために「事実上滅亡寸前になった」と書いている。故に北アフリカのユダヤ人はユダヤ人として「純血民族」ではないというのだ ― 第三帝国が滅亡して久しいのに、ナチスの「純血民族」という言葉を使っているのには驚いた。彼らの間には「ユダヤ教律法とは縁のない魔術や迷信がはびこっている」と、同書は解説している。この記述は、植民地主義者の原住民描写を皮肉たっぷりに表現したファノンの言葉を思い起こさせる。「熱病に破壊され、先祖伝来の風習に取り付かれた、無気力な生物」。

歴史の窃盗

 先住民や原住民の歴史を歪曲し否定することが植民地主義の基本的特徴である。セファルディを技術や文明と全然接触がない後進的農村社会出身と描くシオニズムのやり方は、良くて単細胞的カリカチュアであり、悪い場合には全くの不実表示である。セファルディが移民出国した頃のアレキサンドリア、バグダッド、イスタンブールなどの大都会は、シオニスト公式説明が暗に伝えているような電気も自動車もない荒涼とした僻地ではなかったし、歴史プロセスのダイナミズムから切り離された孤島でもなかった。しかしイスラエルの学校教育では、セファルディの子どもたちとパレスチナ人の子どもたちは、西洋の偉業を称え東洋の文明を抹消した世界史を教えられるのである。そのうえ中東の政治力学は、シオニズムが荒涼とした砂漠を緑の大地に変えたという観点のみから語られる。こんなシオニスト・マスター説話は、パレスチナ人にとってもセファルディにとっても、ほとんど意味をなさないが、パレスチナ人の場合はそれに対抗するカウンター・ディスコースを持っているのに、セファルディの物語と歴史はユダヤ人とパレスチナ人両者の歴史の隙間に挟まった小さな砕石のようなものである。イスラエルは「グッド」東洋人(ユダヤ教徒アラブ人)と「バッド」東洋人(イスラム教徒アラブ人)を区別し、セファルディムからアラブ性を洗い流し、彼らのオリエントという「原罪」を贖うことを国家の任務として引き受けた。イスラエルの歴史学はアジア・アフリカ出身ユダヤ人をヨーロッパ・ユダヤ人という一枚岩的公的記憶の中に吸収するのだ。だからセファルディ生徒がオリエント・ユダヤ人としての独自の歴史や価値について学習することはない。セファルディの子どもたちは「先祖がポーランドやロシアのユダヤ人村(シュテットル)の住人」だという歴史的記憶を叩きこまれ、未開地に前哨基地のような開拓地を建設したシオニスト建国の父への誇りを刷り込まれる。ユダヤ史は基本的にヨーロッパ史とされ、オリエンタル「他者」という当惑させられる事実をそっと隠すために、セファルディムに関する史的資料を闇の奥へしまい込み、セファルディムはヨーロッパ・ユダヤ人「我々」の下位部門に組み入れられるのである。

 シオニズム公式見解では、アラブ・ムスリム諸国出身ユダヤ人が登場するのは、彼らがヘブライの国の国民として認められてからである。ちょうどシオニズムが聖書パレスチナを復活させたときからパレスチナ近代史が始まるとシオニストが解釈するのと同じである。この意味で、セファルディ近代史は彼らのイスラエル移民から始まるのだ。もっと正確に言うと、「魔法の絨毯作戦」や「アリ・ババ作戦」(前者は一九四九~五〇年のイエメン・ユダヤ人のイスラエル移送、後者は一九五〇~五一年のイラク・ユダヤ人のイスラエル移送)から始まるとされるのだ。この作戦名称は『千一夜物語』からの借用だが、まさにそれこそが単純素朴な土着信仰と技術的後進性を全面に押し出した(「魔法の絨毯」はセファルディが知らない飛行機のことで、それで以て「約束の地」へ運ばれた)オリエンタリズム・ディスコースであろう。それからシオニストが「エクソダス」(出エジプト)をしきりに栄光化するのも、エジプトに「奴隷制度」があったことの強調(そこでは「エジプト」はすべてのアラブ国を表す提喩である)であり、また(セファルディの)「砂漠世代」を慈悲深く終わらせたことを強調する意味も含んでいる。(中略)

「ヘブライの労働」- 神話と現実

 シオニストの「全世界からユダヤ人を集める」事業は決して公的ディスコースが描くような慈悲に溢れた立派なものではなかった。シオニズム運動の初期からセファルディムは安価な労働力としてしか見られず、そういうものとしてパレスチナへ移住させなければならないとされていた。現在イスラエルでセファルディムを抑圧している経済的構造はイシューヴ(イスラエル建国前のパレスチナのシオニスト社会)の初期に出来上がっていた。例えば、主流社会主義(労働)シオニズムの原則の中には「アヴォダ・イヴリット」(ヘブライの労働)と「アヴォダ・アツミット」(自力労働)という双子思想がある。人もコミュニティも他人を雇って労働させるのではなく、自らの労働で生計を立てるべきという考え方である。この思想の起源は十八世紀の中・東欧ユダヤ教徒の啓蒙運動であるハスカーラーまで遡ることができる。多くのユダヤ人思想家、著作家、詩人が、「生産労働」、とりわけ農業労働を通じてユダヤ人を変革する必要性を強く主張した。彼らは「アヴォダ・イヴリット」をユダヤ人再生にとって必須前提条件だと説いた。歴史的進歩的自画像を打ち出したイシューヴの開拓者たちとその後のイスラエル人の自画像も、この「アヴォダ・イヴリット」の影響を強く受け、それを政策として実践した。彼らは自分たちの事業を、ヨーロッパの植民者と異なり「地元民」を搾取しないので、非植民地事業と呼び、従って自分たちのシオニスト的願望は倫理的に優れていると考えた。

 しかし、「アヴォダ・イヴリット」が現実に担った歴史的意味を見ると、それはアラブ人・ユダヤ人関係ばかりでなく、セファルディム・アシュケナジーム関係やセファルディム・パレスチナ人関係にも政治的緊張をもたらすという悲劇的結果を生んだ。初めの頃、早くから入植して事業を立ち上げたユダヤ人経営者の労働者募集に関して、ヨーロッパ・ユダヤ人移民と地元アラブ人の間で競争が生じた。そのとき、「ヘブライの労働」はアラブ人労働者ボイコットを意味した。しかし、ヨーロッパ・ユダヤ人移民は比較的高い賃金を要求するので、実際の雇用に至らないことが多かった。そのためにヨーロッパ・ユダヤ人のかなりの部分がイスラエル以外の国へ移民した。ロシア・ユダヤ人の最貧層が南北アメリカへ移住しているとき、ヨーロッパ・ユダヤ人にパレスチナへ来いと説得するのは困難であった。シオニスト組織がセファルディムのパレスチナ移民計画を決定したのは、アシュケナジー移民計画が失敗したからであった。一九〇八年、エレッツ・イスラエル(イスラエルの地)事務所のヤアコヴ・テホンが「ヘブライの労働」問題について、先ず「アヴォダ・イヴリット」目標への経済的・心理的障害とアラブ人大衆の雇用の危険を詳しく述べた後で、アラブ人の農業労働者の「代わりとして」セファルディム存在の重要性を、他のシオニスト役人といっしょに提起した。「アシュケナジー・ユダヤ人が都市労働以外の仕事に向いているとは思えないので、オリエント系、特にイエメンやペルシアのユダヤ人をパレスチナへ連れてきて農業労働者として雇用すればよい」と論じた。テホンはさらに続けて「彼らはアラブ人と同じように耐久生活に慣れており」、「その意味でアラブ人と互角に競争できる」と述べた。同じように一九一〇年、オリエンタル・ユダヤ人に対しシオニスト特使を務めたシュムエル・ヤヴネエリが『ハポエル・ハツァイル』(「若い労働者」、イシューヴの労働者シオニスト党、後の労働党の機関誌)に「労働ルネサンスとオリエント・ユダヤ人」と題する論文二部作を発表、その中で、オリエンタル・ユダヤ人の輸入でアラブ人労働問題を解決するという案を提示した。当時の新聞『ハツヴィ』がだんだんと普及していくこの「解決案」を次のように表現した。

 この連中は単純で素朴な労働者で、どんな仕事でも恥じることなく、こ難しい哲学を振り回すこともなく、また詩心もなく、やってくれる。ポケットや頭の中にマルクスの本を入れていることもない。イエメン・ユダヤ人が今のまま、つまり野蛮で未開状態のままでいればよいと言っているのではない…今日のイエメン・ユダヤ人はファッラーヒン(アラブ人農民)と同じような後進水準にある…彼らをパレスチナ・アラブ人と取り換えたらよいのだ。

 シオニスト歴史学はこの植民地主義的神話をアラブ人とアラブ系ユダヤ人に当て嵌め、セファルディムの階級的位置づけを正当化する手段として、繰り返し使った。イエメン・ユダヤ人は「単なる労働者」、社会的には「原始的本能で行動するモノ」と表現され、一方アシュケナジー労働者は「創造的」で「理想を追求し、新しい生き方や新しい思想を作り出すことができる理想主義者」と表現された。

 アラブ人に対する雇用競争力にはなるが、高尚な社会主義・民族主義理念を理解する力がない、とヨーロッパ・シオニストから見られるセファルディムは、その意味で、シオニストにとってまさに理想的な輸入労働力に思えた。

 「アラブ人」の形で「ユダヤ人」を採用するという発想に魅せられ、シオニスト戦略家たちは「セファルディム・オプション」に飛びつき、実行した。「上物」のセファルディを集めようという露骨な経済的・政治的動機が働いていたことは、イエメンでシオニスト工作員として活動中のヤヴネエリの手紙からはっきり見て取れる。彼は、移民用に「若くて健康な労働力」だけを選ぶ意図を明瞭に書いていた。彼のイエメン労働者に関する報告には、地域別特徴などを詳しく記していた。例えば、ダルア地域のユダヤ人は「健脚で」「健康」だが、カアタバ地域のユダヤ人は「顔が縮んで、手足は痩せ細って」いる、などと。こういう疑似優生学的選別は、一九五〇年代のモロッコでも繰り返され、身体検査や運動能力テストに合格した若者をアリーヤ(イスラエルへの移民)に選んだ。

 第一次世界大戦前、シオニスト工作員たちは「乳と蜜が流れる地」の現実を隠してセファルディムを幻惑し、一万人以上のセファルディ移民(主としてイエメン人)に成功した。彼らは主に非常に苛酷な条件の日雇い農業労働者として働かされた。シオニストが流した神話に反して、彼らが苛酷な農業労働に慣れていないのは絶対的に明らかだった。イエメン・ユダヤ人家族は家畜小屋、牧草地、窓もない地下室(家賃はきちんと取られた)に詰め込まれたり、あるいは放置されて野外生活を余儀なくされたりした。不衛生な環境や栄養不足のため病気が蔓延、とりわけ幼児は衰弱死亡した。シオニスト経営者、アシュケナジー地主、労働管理者たちはイエメン・ユダヤ人を手荒く扱い、女性や子どもを一日十時間以上も働かせるなどの虐待も行った。このシオニズム初期段階で、すでに民族的分業はその必然的帰結として性的分業を伴っていた。一九〇七年、テホンは「イエメン・ユダヤ人家族を入植地に住まわせること」の利点として、「入植者のほとんどの家庭はアラブ女を召使に雇って高い賃金を払っているが、それに代わってイエメン・ユダヤ人の女性や少女に家事労働をさせることができる」と説明した。実際、「運が良い」女性や少女は女中として働いた。それ以外の者はみんな苛酷な野良仕事だった。経済的・政治的搾取と常習的ヨーロッパ優越感と一対であった。どんな処遇であれセファルディムの扱いはすべて正当とされた。何しろ、セファルディムは文化も、歴史も、物資的成果も、何もない空っぽな存在と見做されたからである。そのうえ、セファルディムは、ヨーロッパ労働者が享受する社会主義的活動や権利からも排除された。労働シオニズムは、ヒスタドルート(イスラエル労働総同盟)を通して、イエメン・ユダヤ人が土地所有や共同組合運動参加をできないようにして、彼らが賃金生活者役割以上に出ないように制限した。アラブ人労働者に関してもそうだったが、シオニズム運動の主流である「社会主義」イデオロギーは、このような差別的自民族中心主義を防ぐ保証を提供しなかった。建国の父たちはパレスチナをユダヤ人労働の手で変革されるのを待つ無人の地と表現したが、セファルディムに関しても、シオニズムのプロメテウス的な新生命を吹き込む激しい力で方向付けられるのを待っている船と見たのだ。

 方向付けるとしたものの、パレスチナの入植地がセファルディ・ユダヤ人の色で「染められる」ことは好まなかった。入植地がセファルディ化する可能性を第一回シオニスト会議で反対決議したほどであった。ヨーロッパ・シオニストたちは、会議や文書の中で、ユダヤ民族郷土創設の想いをアシュケナジー・ユダヤ人や入植地経営ユダヤ人に絶えず伝えたが、そのシオニズム的ユダヤ人国にはセファルディ・ユダヤ人は含まれていなかった。しかし、シオニズム計画実現のためにはすべての地元民に対する侵略的行為が必要で、それと関連して、シオニズム事業遂行のための経済的・政治的下部構造として、セファルディ・ユダヤ人の搾取が必要であった。最初のうちはアラブ人から土地を購入してパレスチナのユダヤ化を図ったが、やがて力ずくで土地を没収する戦略に変わった。ユダヤ人入植者がアラブ人の土地を占拠して既成事実を作り上げるという、「ツィオヌート・マアスィット」(実践的シオニズム)の好む戦略が、パレスチナ獲得の中心的政策となった。そうやってユダヤ人の土地となった農場で働くアラブ人労働者が将来「土地はそれを耕す労働者のものだ」と主張するようになるかもしれない、と心配するシオニストがいた。だからこそ、ユダヤ人(セファルディ)労働者が必要になったのだ。こういう歪んだ「アヴォダ・イヴリット」(ヘブライの労働)がアラブ人労働者とどんどん数が増えるユダヤ人(セファルディ)労働者の間に長期にわたる構造的競争を産み出した。しかし、セファルディ労働者は今や下位プロレタリアート地位に格下げされているのだ。

 シオニスト体制がセファルディム大量移民を決定したのはヨーロッパ・ユダヤ人移民に失敗したからである ― ポスト・ホロコースト期でさえヨーロッパ・ユダヤ人の多くはパレスチナ以外の国への移住を選択した。オリエント・ユダヤ人に関するシオニストの救出ファンタジーは、要するに、ヨーロッパ・シオニズムを経済的・政治的崩壊から救出するもので、それを野蛮地帯から同胞を救出する美談にすり替えただけのことである。建国後の一九五〇年代でも同じようにシオニスト幹部はセファルディ・ユダヤ人の大量移民についてためらっていた。しかし、人口統計上の必要、経済上の必要 ― イスラエルのユダヤ人人口を増やし、国境防衛を固め、生産する労働者、戦争する兵士を増やす必要に駆られて、シオニスト体制はやむなくセファルディム大量輸入に踏み切ったのだ。こういう背景脈絡に照らしてセファルディ労働力搾取政策に直接関与したシオニストの書いた、都合の悪い部分を取り除いて美化した作品を読むと、本当のことがよく分かる。例えば、ヤヴネエリの有名なイエメンでの「シュリホゥット」(アリーヤを促進するシオニスト工作)はシオニズム的ディスコースで美化されているが、彼の「内輪の」意見と公的ディスコースは実に対照的である。シオニスト当局へ送った文書は安価な労働力導入の必要性を強調し、彼の回顧録は疑似宗教的言葉で自分の活動を、はるか遠くイエメンの地の「我らの同胞ベネイーイスラエル(イスラエルの息子たち)にエレッツ・イスラエルからの便り、ユダヤ民族の土地と労働の再生という良き便りを知らせる活動」と描いた。

従属の弁証法

 建国前の時代に萌芽的にあったこれらの問題が、建国後に「苦い果実」として実ったが、今度はもっと手の込んだ合理化と理想化の組み合わせで、言い逃れた。一九五〇年代と一九六〇年代のイスラエルの急速な経済発展は、利益の体系的不平等配分という土台の上で成立した。十年前までシオニストの自画像の特徴であった平等主義的神話とは正反対の社会・経済構造が形成されたのである。イスラエル当局のセファルディムへの差別的な諸決定は、セファルディムのイスラエル移住前からあった差別意識の延長であった。アシュケナジームは自らを「地の塩」(聖書言葉で最も善良で最も価値ある者)と任じ、特別待遇や「特権」に値する存在という自意識的前提に立脚した。

 アシュケナジー移民とは対照的に、セファルディ移民は、出身国や中継地にシオニストが建てた一時収容所に押し込まれ、家畜のような扱いを受けた。例えば、アルジェリアの一時収容所に関するユダヤ機関の報告書では、「四~五平方メートルの部屋に五十人以上が暮らしている」状態が述べられている。北アフリカ・ユダヤ人用のマルセイユ一時収容所で働いていた医師は、「劣悪な居住環境と栄養失調の結果子どもたちが死亡した」ことを述べて、「ヨーロッパの国々からの移民はみんな衣服が支給されるのに、何故北アフリカからの移民には何も与えられないのか、私には理解できない」と付言した。イスラエルではセファルディム差別があるという情報が知れ渡ると、北アフリカ移民が減少した。一時収容所から脱出してモロッコへ帰る人々も出てきた。あるユダヤ機関工作員の言葉を引用すると、「逃げようとする人たちを事実上暴力を使って移民船に乗せなければならなかった」という。イエメンからの移住は砂漠を横切る苛酷な道中で、道中の野営キャンプではシオニスト役人の非人間的な扱いのために、飢え、病気、そして大量死などが生じ、いわば一種の自然淘汰による移民選別が起きた。ユダヤ機関の役人が、イスラエルへ連れて行っても病人となったイエメン人の看病という重荷を背負うだけにならないかと心配したので、同僚のイツハク・ラファエリ(国家宗教党)が「慢性的病人が大量に入国する心配は無用だよ。二週間も砂漠を歩く旅だから、重病人は確実に淘汰されるよ」と言って、安心させた。

 東洋ユダヤ人の生活や感性に対するヨーロッパ・ユダヤ人の軽蔑 ― 時にはそれがアシュケナジーのオリエンタル研究「専門家」によってセファルディムに投影され、セファルディムにとって死は「普通の自然なこと」だという説がまことしやかに主張された ― は、有名なイエメン・ユダヤ人幼児誘拐事件に反映されている。イスラエルの生活現実に衝撃を受けたセファルディたち、主としてイエメン・ユダヤ人が、医師、看護婦、ソーシャルワーカーが共謀した悪質な赤ちゃん誘拐の犠牲になった事件である。医師たちは赤ちゃんが死産だったと親に嘘をついて、実際には生きている赤ちゃんをアシュケナジーの家族(時にはイスラエルの外、主として米国のユダヤ人家族)へ養子に遣ったのである。その数は、ある試算によると、数千人であった。(訳注:「原住民」の子どもを未開両親から隔離して白人の家庭で育てて文明人にするという白人優越主義の一つで、英植民地オーストラリアでもあった。もっとひどいのは、金持ちの立派な家庭へ養子にやったと「原住民」の親に説明し、実際は荒野の果てに捨てるやり方が、オーストラリアで行われた)この赤ちゃん誘拐は社会的に幅広い共謀犯罪であった。医療機関と行政機関が共謀して偽の死産証明書を発行したり、怪しんで調査を要求するセファルディ家族の声を数十年間にわたって無視し、権力は情報を隠蔽・操作した。一九八六年六月三十日、イエメン人行方不明幼児探し公共委員会が主催で大規模な大衆抗議集会を開いた。この集会は、多くのセファルディ集会やデモと同じように、メディアから完全無視された。しかし、数か月後、テレビがこの問題に関するドキュメントを製作、嘆かわしい「噂」やセファルディ親が育児に関して無知・無責任であるという作り話の流布に対し、当時の行政が何の手も打たなかったことを批判した。

 セファルディム民族差別はセファルディムのイスラエル到着の瞬間から稼働した。イスラエルへ着いたとき、各セファルディ・コミュニティの人々はコミュニティごとにいっしょに暮したいと希望したにもかかわらず、ばらばらにされ、全国に拡散された。旧コミュニティは解体され、その中の世帯はバラバラに各地へ飛ばされ、伝統的指導者もその地位を奪われた。オリエンタル・ユダヤ人は主に「マアバロート」と呼ばれる彼ら用の難民キャンプみたいなところや、辺境の村、農業入植地、パレスチナ人を追い出したばかりの都市地域に送り込まれた。これらの収容施設が疲弊すると、当局は、主に農村地帯や国境地帯に「アヤロト・ピトゥハ」(開発タウンズ)を作って、移住させた。そこは、当然予想されたように、アラブ人の復讐攻撃の的になるところだった。「国境固め」という政府の政策に基づく処置であった。「国境固め」というのはアラブ人の武装攻撃に備えるという意味だけでなく、パレスチナ難民が故郷へ帰ってくるのを防ぐという意味もあった。イスラエルは、豊富な武器を備えたアシュケナジー・キブツが国境地帯で生活を営んでいるのを、勇敢な行為だとしきりにプロパガンダしているが、実際にはキブツ開拓者の人数が少なく(ユダヤ人人口の約三%、国境地帯入植地から見ても、その五十%にすぎない)、とても長い国境線の防御にならなかった。その点で数が多いセファルディムを国境地帯に住まわせると、かなりの安全保障緩衝地帯の形成になった。しかし、軍事的インフラが用意されたアシュケナジー入植地と異なり、セファルディ国境地帯の開発タウンズはそれがなかった。だから多くのセファルディ入植者が死んだ。都市住宅に関するセファルディム差別というイスラエル的特徴が稼働したのも、この時期からである。アシュケナジームは繁栄する「北部」地域に、セファルディムは貧しい「南部」地域に住むという住み分けが進んだ。こういう差別にもかかわらず、両コミュニティは、貧しい地域が豊かな地域に奉仕するという従属関係で繋がっていた。この構造的関係は、「社会主義的」キブツとその周辺のセファルディの開発タウンズとの関係にも反映して見られる。

 セファルディムが既存家屋 ― イスラエルでは既存家屋とはパレスチナ人が残していった家屋のこと ― に入れられる場合でも、たいていは数家族ごた混ぜになるのが普通であった。何故なら、イスラエル当局のオリエンタリズム的思考様式は、セファルディムはそういう状態で暮らすことに「慣れている」と考え、一つの家に数世帯を同居させるのがノーマルだと見做したからである。こうして出来上がったセファルディム地域は、インフラ整備、教育制度、文化施設、政界への代表などで、組織的に差別された。後に、これらの地域が都市ジェントリフィケーション(中産階級化)にとって障害になると、セファルディムは意に反して、激しい抵抗にもかかわらず、再び別の「近代的」貧困地区に強制移動させられた。例えばヤッファでは、セファルディムを強制立ち退きさせた後、かつてはセファルディ住民の要求を無視して修繕しなかったにもかかわらず、彼らが立ち退いた後の家々を改築したのである。これは、ヤッファのオリエンタル地区を異国情緒が漂う、アート・ギャラリーなどがある、「ボヘミア的」観光スポットにするためであった。最近では、エルサレムのムスララというセファルディ地区が同じ目に会った。さて、一九六七年戦争後「国境」が広くなると、セファルディ入植地が新「国境」から遠く離れることになったので、当局は、セファルディ住民を占領地西岸地区内の入植地へ強制移動させようとしている。またもや、セファルディムの経済的条件向上のためという口実を使って。このパターンは明確に定型化した。セファルディ住民を追い出した跡地は投資対象となり、アシュケナジーによるジェントリフィケーションが進行した。社会的選良たちがジェントリフィケーションされた地区で、「地中海的ミーズ・アン・セーヌ」(地中海的雰囲気の演出)を楽しみ、しかも目障りなパレスチナ人やセファルディが付近にいないのだ。一方、新たにセファルディム用に設定されたところは資本が入らないスラムとなった。

 セファルディムは安価で、移動可能で、操作し易い労働力として、イスラエル経済発展に不可欠であった。一九五〇年代の住宅建設ラッシュのとき、多くのセファルディムは建設労働者として働いた。彼らの低賃金が創り出す高利益のおかげで、アシュケナジー所有・経営の建設会社が急成長した。また、政府の大規模プロジェクトでは、農業生産の機械化された部門の単純労働者として採用され、農地耕作の主要労働力となった。農業入植地事業では、キブツなどのアシュケナジー農業入植地に比べて、はるかに狭くて土壌が痩せた土地と、アシュケナジーに比べてはるかに貧弱な生産手段しかあてがわれなかった。そのため生産性が低く、収入も少なく、やがてセファルディ入植地の多くが経済的破綻していった。一九五〇年代~六〇年代初期に農業開発と住宅建設が飽和状態に達したとき、政府はイスラエルの工業化に踏み切り、セファルディ労働者が再びイスラエル経済にとって欠かせない存在となった。この時期にセファルディムの大部分が産業プロレタリアートを形成した。(近年繊維工場の生産ライン労働者の月給が一五〇~二〇〇ドルあたりを上下、ほぼ第三世界労働者の水準と同じである)イスラエル政府の外国資本(外国のユダヤ資本)投資誘致は、一つには地元労働力の低廉という魅力を売りにして行われた。労働者低賃金は同一産業内で上層部と下層部の所得格差の幅を拡大した。工業生産にとって重要となったセファルディ開発タウンズは、事実上の「企業城下町」となり、町の住民の運命は町を支配する企業の運命と切り離せなくなった。

 こういうシステムはセファルディムを将来性のない底辺へ追いやる一方で、アシュケナジームをどんどん社会的に上昇させ、経営管理、マーケッティング、銀行、技術専門職等の部門で出世階段を登らせた。最近発表された資料を見ると、この格差は、ヨーロッパ系移民を特権化させるための意識的に計算された政策の産物であることが理解できる。時には高学歴セファルディが単純労働者となり、低学歴アシュケナジーが高位の管理職に就くという異常な状態があるのも、そのためである。そもそも移民するということは、個人、家族、コミュニティが生活向上を求める動機で行うものだが、そういう古典的パラダイムと異なり、イスラエルのセファルディムの場合はそういうプロセスの概ね逆行である。ロシアやポーランドからのアシュケナジー移民にとって文字通り社会的「アリーヤ」(「アリーヤ」の原意は「上がる」)であったものが、イラクやエジプトからのセファルディ移民にとっては「イェリーダ」(原意は「下がる」)であった。ヨーロッパで迫害されたマイノリティであったアシュケナジームにとって一種の解決であり、民族文化の疑似回復であったものは、セファルディムにとっては、文化遺産の完全破壊であり、アイデンティティの喪失であり、社会的・経済的衰退であった。(中略)

文明化試練

 オリエンタル・ユダヤ人はイスラエルにおけるヨーロッパ系ユダヤ人のヘゲモニーにとって、確かにやっかいな存在である。シオニズムはセファルディムとアシュケナジームを「一つの国民」という単一カテゴリーに融合したけれども、同時にセファルディのオリエンタル性という「相違」を、イスラエルの中東「の」一部でなく中東「の中」のヨーロッパであると見るヨーロッパ・ユダヤ人の理想的自画像にとって脅威であると思っている。ベン=グリオンがイスラエルを「中東のスイス」とユートピア化したこと、あるいはヘルツルが、英国やドイツのような帝国パトロンの助力で、西洋式の資本主義的・民主主義的小国家建設が可能であると言ったことなどが、思い起こされる。シオニズム教科書の主題は、異郷生活特有の無数の「歪み」や種々のパーリア(除け者)状態を脱して、「普通の」文明国家を作ろうという叫びである。(何人かの評者が指摘したように、シオニストが中・東欧ユダヤ人村「シュテットル」を嫌悪する態度は、奇妙なことに、シオニストが忌み嫌っているはずの反ユダヤ主義的態度とよく似ている)(訳注:ヘルツルは「反ユダヤ主義は我々にとって最も忠実な友人となり得る。反ユダヤ主義国家は我々の同盟軍である」と日記に記している。)ヨーロッパから常に排斥されてきたオストユーデン(「東のユダヤ人」、この場合東欧ユダヤ人)が、皮肉にも中東でヨーロッパになる夢を実現させたが、それは自分たちの中のオストユーデン(この場合オリエンタル・ユダヤ人)を踏み台にして行ったのである。「ヨーロッパの黒人」アシュケナジームは何とか「文明化試練」を通り抜けたが、今度は「自分たちの中の黒人」セファルディムに「文明化試練」を課しているのだ。

 世俗的シオニズムのパラドクスは、ユダヤ人が西洋社会で苛酷な差別をされ、おそらくは東洋に想い ― それは、彼らが日常生活の中で挨拶代わりに使っていた句「来年、エルサレムで」に要約的に表現されていた ― を寄せていた異郷生活時代を終わらせようと懸命な努力をした結果、イデオロギー的にも地政学的にも、圧倒的に西洋社会志向の国家を作り上げてしまったことだ。セファルディム抑圧もこの脈絡の中に置いて理解すべきである。単に中東の一民族だから差別・抑圧されたばかりでなく、サブラ(イスラエル生まれ)のシオニストにとっては、劣等で脆弱なシュテットル住まいの旧ユダヤ人の名残りという誤って解釈される存在だったからで、断固粉砕されなければならかった。(この態度はアシュケナジー新移民にも示された)(訳注:シオニストは迫害される弱々しいユダヤ人像を嫌い、「新人間」「新ヘブライ人」という言葉を使った。イスラエルの青年男子はあらゆる点でディアスポラ・ユダヤ人青年より優秀で、「彼は勇敢で、姿勢がよく、整った目鼻立ちをして、よく発達した身体をもち、労働とスポーツを愛する…」という自画像がある。『エルヴィス・イン・エルサレム』pp.39~41参照。なお、この旧ユダヤ人やホロコースト生存者に対する軽蔑姿勢は、アイヒマン裁判以降、ホロコースト犠牲者への理解が深まったこと、また政府がホロコーストを国民統合の道具に利用したことで、次第になくなった)第三世界、特にアラブ・ムスリム諸国からの移民や難民は、世俗派志向のサブラ(イスラエル生まれのイスラエル人)の文化の中に、「反ユダヤ的感性」を引き起こした。その原因は二つある。一つは、セファルディムがユダヤ文化が異種混交文化であることを嫌でも見せつけるからであり、もう一つは、「ユダヤ性」と「後進性」との不快な合金を見せつけるからである。後者の「ユダヤ性」と「後進性」の結合は切除すべき悪性腫瘍と見られ、そのイデオロギー的衝動がセファルディムから民族文化や伝統や慣習などの遺産を剥奪する政策に表現されている ― イエメン・ユダヤ教徒の長いもみあげを強制的に剃り落としたり、子どもを強制的にヨーロッパ・シオニスト学校へ入れるなど。従って、西洋文化志向態度は、「シュテットル」文化の痕跡や「よそ者」オリエンタル・ユダヤ人浸食に対する反応として、異種混交(heteroglossia)脅威という脈絡に置いて理解されなければならない。セファルディが文化的に異なることは世俗派シオニストにとって大変迷惑であった。シオニズムが単一ユダヤ民族の代表であるという主張は、共通の宗教的背景、共通の民族性という前提に立っているからである。セファルディムがアラブ・ムスリム世界と共有する強い文化的・歴史的関係は、セファルディムがアシュケナジームと共有する関係よりも、多くの点で、はるかに濃厚なので、シオニズムが真似ているヨーロッパ民族主義運動の同質的民族国家という概念にとって、大変迷惑で、脅威だったのである。

 アシュケナジーの宗教機関の管理下にあったセファルディムは、子どもをアシュケナジーの宗教学校へ入れることを余儀なくされた。そこでは子どもたちはイディッシュ語訛りのお祈り、アシュケナジー式の礼拝作法、何世紀も昔のポーランド・ユダヤ教コミュニティの慣習であった色の濃い衣服規定など、「正しい」ユダヤ教徒慣行を教えられた。つまり、一部のセファルディムは正統派の鋳型にはめ込まれたのである。セファルディムを宗教的狂信者と描くカリカチュアは、悪意の産物でない場合、宗教的敬虔さと原理主義とのヨーロッパ中心主義的混同である場合が多い。実際には、ヨーロッパ・ユダヤ人に見られる世俗派対ユダヤ教正統派の胸の痛むような決裂は、セファルディ文化の歴史には見られない。セファルディムのユダヤ人的生活は柔軟性と寛容性に富み、抽象的律法やラビ職階制度が幅を利かすことはあまりなかった。家庭生活でも多様なユダヤ人的生き方が共存、成員の異なる生き方が家庭内不和を引き起こすことは稀である。イスラエルの世俗派と正統派の対立はアシュケナジームの間に分裂をもたらしているが、セファルディムの間ではそういう対立はない。むしろ、宗教派にせよ世俗派にせよ、セファルディムの大多数は両陣営の硬直さにうんざりしている。しかし、両陣営がいろいろな形でセファルディムに考え方や行動を押し付けるので、セファルディムは困惑している。

 セファルディムは中東の地形学、言語、文化、歴史の欠くことができない部分として、すべてのユダヤ人にとって共通の敵とされる人々 ― アラブ人に、必然的に近い存在であった。それ故体制権力は東洋による西洋浸食を恐れ、セファルディムとアラブ人を分離し、両者間に敵意を作り出そうとして、セファルディムの中東性を抑圧し、剥奪しようとしたのである。アラブ性やオリエンタル性は撲滅すべき邪悪なものという烙印を押された。アラブ系ユダヤ人にとって、シオニズムのもとでの生活は、簡単には消えない自文化への誇りと押し付けられる自己否定とが混じり合った葛藤とストレスの生活で、心の底まで蝕む総合失調症を患う危機を伴っていた。この種の総合失調症は植民地的両面価値状況の典型的産物である。ユダヤ教とシオニズムを同意語、ユダヤとアラブを反意語(こんな見方はセファルディ歴史の中で初めてだった)と見よと強制される状況に内在する矛盾の中から、彼らのイデオロギー的ジレンマが生じるのだ。実際には、彼らはユダヤ人であると同時にアラブ人であり、歴史的にも、物理的にも、感情的にもアシュケナジームほどシオニズム・イデオロギーに関心をもっているわけではない。

 イスラエルのセファルディ人は自らを恥じることを要請されてきた。子どもたちも必死になって馴染めないサブラ的規範を身に着けようと努力し、その過程で自分の親や出身地を恥ずかしく思うようにさせられていく。時にはセム族的容貌のためにパレスチナ人と間違えられて逮捕されたり殴打されたりする。アラブ的なものは一切合切否定対象なので、多くのセファルディムはヨーロッパ・イスラエルの規範を内面化し、自己嫌悪のセファルディムになった。マルコムX が言ったように、黒人に自己嫌悪させたことが白人の最悪犯罪だとすれば、イスラエル体制権力もその点で同罪である。実際、オリエンタル・ユダヤ人の間で見られるアラブ嫌悪はたいてい自己嫌悪の隠れ蓑であることが多い。一九七八年の調査が示しているように、アラブ人への敬意の上昇とセファルディムの自尊心の向上とは同時進行なのだ。
セファルディの対アラブ敵意は、存在する限りでは、「メイド・イン・イスラエル」である。オリエンタル・ユダヤ人は、アラブ人と、そして自分自身を、他者として見るように教育されなければならなかった。時々ポスト啓蒙主義期のヨーロッパ・ユダヤ人の特徴として現れた自己嫌悪(Selbst-haß)のようなものは、ムスリム世界のセファルディムには一度もなかった。彼らが自己嫌悪(オリエンタルへの嫌悪)を「身に着けなければならなかったのは、イスラエルのアシュケナジームのせいだった。そのアシュケナジーム自身はヨーロッパ時代にヨーロッパ人のせいで自己嫌悪を身に着けたのだった。ここにもまたあの同意語・反意語問題がある。今度は「シオニズム」と「反ユダヤ主義」という言葉である。(このテーマは別個に考察するに値するだろう)(中略)

セファルディ反乱の兆候

 こうした施策にもかかわらず、セファルディ反乱と抵抗は止まなかった。すでに仮収容キャンプの中で「パンと雇用を求める」デモが頻発していた。当時財務省の長官であったダヴィド・ホロヴィッツは、ベン=グリオンとの政治談議の中で、収容キャンプのセファルディ住民を「反抗的」、収容キャンプの状態を「焼夷弾とダイナマイトの倉庫」と表現した。 ハイファにある峡谷ワジ・サリブでも、一九五九年、悲惨な生活と差別に対する抗議暴動が起きた。当局は軍隊と警察の暴力でそれを鎮圧した。さらに労働党(マパイ)は、ワジ・サリブのスラム住民にマパイに入党すれば就職の世話をするという誘いかけで、暴動から生まれたセファルディ独立政治組織の切り崩しを図った。一九七〇年代にも再び大規模な反乱が起きた。イスラエル黒豹党(ブラック・パンサー)が現体制の破壊と、宗教、出身地、民族性に関係なくすべての被抑圧人民の正当な権利の実現を掲げて起こした反乱であった。体制権力は慌てふためき、運動指導者たちを逮捕、行政拘留した。そのときのブラック・パンサーのデモは全国を揺るがすほど大きかったからだ。全国的に有名になったデモ(一九七一年五月)では、警察の弾圧に反発した数万人の民衆が街頭に飛び出し、警官隊や官公庁舎に向かって火炎瓶を投げた。その夜活動家一七〇人が逮捕された。重傷で入院した者が三十五人、警官や役人も七十人以上が負傷。ブラック・パンサーは米国の同名の黒人運動からその名を取り、反乱を実行したのは主としてアラブ系ユダヤ人移民の子どもたちで、多くは更生施設や刑務所で暮らした経験のある者たちだった。彼らは「劣等性」が持つ政治的性格に次第に気づき始め、ユダヤ・イスラエルは一民族ではなく、二民族が存在することをはっきり表現することで、イスラエルの「人種のるつぼ」神話を壊そうとした。彼らはよく「トゥフキム・ヴェシェホリム」(打ち砕かれた黒んぼうたち)という言葉を使って、セファルディムの人種/階級的位置づけを表現した。米国の黒人の闘いを精神高揚の手本と見たのだ。ブラック・パンサーという命名自体が、アシュケナジーがセファルディを「ブラック・アニマル」と呼んだことへの、皮肉を込めた対応でもあった。もっと新しいところでは、一九八二年十二月に一人のスラム住人ミズラヒが警官によって殺されたことから生じた暴動がある。このミズラヒの犯罪というのは、ぎゅうぎゅう詰めの狭い家をほんの少し不法建て増しをしたことだった。

 体制権力はセファルディ反乱をセファルディ自身に責任を負わせるように説明して、絶えず自らの不備を棚上げにする言い逃れをしてきた。仮収容キャンプにおける「パンと雇用を求める」デモについては、左翼イラク移民の扇動の結果だと説明。ワジ・サリブのデモやブラック・パンサーの反乱については、「暴力的性癖があるモロッコ人」の表現行為。個々人の抵抗行動は「神経症」「社会的不適応」の兆候とされた。ブラック・パンサー反乱の時期に首相だったゴルダ・メイルは「あの子たちは行儀が悪い子たちね」と、母親気取りで愚痴ったものだ。新聞論説や学問的研究論文はセファルディ反乱やデモを、ルンペンプロレタリアート的逸脱と表現した。メディアはセファルディ運動を「民族的オルグ活動」とか「国家分断」の試みと戯画的に報道した。本来階級的/民族的矛盾の表れであるものが、国家的緊急危機の名の元で弾圧されることが多かった。いずれにしても、体制権力はセファルディ独自の政治活動に対して「飴と鞭」政策で対応した。福祉インフラを「改善」するという名目だけのジェスチャー、組織的な活動家取り込み(イスラエルのような小さな中央集権国家は、雇用機会や何らかの利権提供をちらつかせることは、大きな誘因となる)、執拗な嫌がらせ、誹謗中傷、投獄、拷問、そして時には国外追放など。

 セファルディ独自政治活動に対する集中的攻撃 ― 「左翼」も同じように攻撃した ― は、アラブ諸国の脅威を前にして国民統一しなければならないという名目で行われた。そこで仮定されているのは、国家社会を管理支配している政党は「エスニック」― ここでも、この「エスニック」という言葉は「規範(ノーム)」と「他者」という言外に意味する対照性に基づいて、「他者」を周辺化する戦略を反映している ― ではないとの前提だ。しかし、実際には、既成のイスラエルの諸機構や諸制度はすでに出身国に応じて「エスニック」、つまり民族/人種的に規定されているのだ。その事実を、アシュケナジームを「イスラエル人」、セファルディムを「ベネイ・エドット・ハミズラハ」(オリエントのエスニック・コミュニティズの息子たち)と呼ぶ言語操作で誤魔化しているのである。ここで「コミュニティズ」と複数形で表現しているのは、既存の(アシュケナジー)イスラエル人が一つに統一しているのと対照的に、セファルディ出身地の複数性を強調することによって、セファルディの人口的優勢という事実を覆い隠すためである。また、出身地がどこであれ、イスラエルへ来たセファルディムが、文化的親近性と抑圧の共有経験に基づいて、一つの集団を形成しているという事実を覆い隠すためである。イスラエルのアシュケナジームはエスニック名で呼ばれることに一種の羞恥心(ピュドゥール)を持っている。彼らは自分たちや自分たちの権力を「アシュケナジー」と形容することは決してない。自分たちをエスニック・グループと見做さないのだ(特に、「アシュケナジー」という呼称が東欧のシュテットル生活の惨めで弱々しいユダヤ人という「ありがたくない」記憶を呼び起こすからであろう)。しかし、セファルディ・ユダヤ人にはこの「ピュドゥール」はない。表面的にどんな政党に属していようと、彼らはたいてい「アシュケナジー国」、「アシュケナジー新聞」、「アシュケナジー・テレビ」、「アシュケナジー政党」、「アシュケナジー裁判所」、そして時には「アシュケナジー軍隊」という言い方をする。脱走兵の圧倒的多数はセファルディ・コミュニティの、とりわけ労働者階級の中に見られる。彼らの行動には「こんなアシュケナジーの国に奉仕するなんか真っ平だ」という態度が見え見えだ。「アラブ人と戦え。そうすればお前たちを受け容れてやる」という意識化のメッセージを発する構造を持つ社会の中でそうなのである。

 イスラエル・アラブ紛争のために影が薄くなっているが、また体制権力で抑え込まれているけれども、セファルディの抵抗運動は、いろいろ形を変えて、絶えず存在している。政府はセファルディムとパレスチナ人の間に敵意を作り出そうとしてきたが、公正を求めるセファルディ運動はいつもパレスチナ人寄りであった。イスラエル内外にいるセファルディ旧世代の人々の中には、アラブ人やパレスチナ人との和平の橋として貢献したいと活動する人が多くいたが、ことごとくイスラエル体制権力によって潰され、拒否された。ブラック・パンサーは自らを和平への「当然の橋」と見て、1970年代にパレスチナ人との「本当の対話」を提案した。彼らは、パレスチナ人が「中東の政治的風景の欠かすことができない一部」であり、パレスチナ人の代表を中東問題解決のための会議や検討会にすべて参加させるべきであると主張した。一九八〇年代、イスラエル内には「和平のための東洋」や「オリエンタル戦線」、そしてフランスには「ユダヤ系アラブ人の視点」などのセファルディ運動 があって、PLO主導による独立パレスチナ国樹立を呼びかけた。オリエンタル戦線は、自分たちは一般的意味でのシオニストでなく、「ユダヤ民族誕生の地でユダヤ教徒生活を送るという、シオンの聖書的意味」でのシオニストだと強調する。同時に彼らは、数世紀にわたってユダヤ教徒を保護してきたアラブ諸国への恩義と、アラブ文化に対するセファルディとしての強い愛着と敬意をも強調する。

エピローグ

 多くの点で、ヨーロッパのシオニズムはセファルディムに仕掛けた巨大な詐欺行為であり、膨大な規模の文化的大虐殺であった。それは、多様性の中で統一してきた数千年の歴史を持つオリエンタル文明を一~二世代の間で拭い去ろうとする試みで、実際、部分的に成功した蛮行である。誤解を防ぐために言っておくが、私は本質主義的議論をしているのではない。アシュケナジームとセファルディムが永遠に相容れないという新二分論を設定しているのではない。文化的・宗教的相違があるものの、両者は多くの国や多くの地において、比較的良好に共存してきた。両者が従属・支配関係にあるのは、唯一イスラエルだけなのである。アシュケナジー・ユダヤ人がヨーロッパ・反ユダヤ主義の最も暴力的な変種の主要犠牲者であったのは明白な事実であるが、このために親パレスチナ見解や親セファルディ見解の表現が非常にやりにくくなっている。ポスト・ホロコースト時代では、セファルディが表現するイスラエル体制批判は、「ユダヤ民族統一」を脅かすものとして抑圧して当然と見做される。また、私は道学者的あるいは性格学的議論をしているのでもない。良きオリエンタル・ユダヤ人と悪しきアシュケナジー抑圧者を教条的に対比するようなマニ教的善悪二元論スキームを展開しているわけではない。私は構造を論じているのだ。表向きに表明する何某政党所属とは無関係に、ほとんどのセファルディムの心の中に流れているイスラエル体制権力に対する怒りという深層海流の「感情構造」を、理論的に説明しようと試みているのだ。私の議論は状況分析である。その分析の結果、イスラエルの社会政治的構造が絶えずミズラヒの後進化を生み出していると主張しているのである。

 妖怪がヨーロッパ・シオニズムに付きまとっている。シオニズムのすべての犠牲者たち ― パレスチナ人、セファルディム、及びイスラエル体制から「自己嫌悪」不平分子とレッテル貼りされたイスラエル内外に住む、イスラエル体制を批判するアシュケナジーム ― が、自分たちの抑圧状況に類似と関連性があると認知するという妖怪である。イスラエル体制権力はあらゆる手段を駆使してこの妖怪を呼び出した ― 戦争扇動、国家安全保障という狂信的排他的カルト、パレスチナ人の抵抗をテロと単純化、セファルディムとパレスチナ人の間の緊張を引き起こす状況の育成、セファルディムを「アラブ人嫌い」「宗教的狂信者」と戯画化、教育とメディアを通じてアラブ憎悪とセファルディ自己嫌悪を促進、セファルディム・パレスチナ人連携を求める進歩的セファルディ活動家の弾圧または懐柔等々。私は決してパレスチナ人の苦境とセファルディの苦境が同じだというつもりはない ― シオニストの極悪非道な犯罪の最大の犠牲者がパレスチナ人であることは言うまでもない ―し、両者に加えられたシオニスト犯行の長いリストを比較するつもりもない。要は、利害関係や経験の完全一致ではなく、その共通性と類似性である。私は、パレスチナ人を射殺するイスラエル兵の中にいるセファルディムに同情することを、パレスチナ人に求めているのではない。ガザの通りやレバノンの難民キャンプで絶えず殺害されているのはセファルディムではなく、パレスチナ人である。大事なことは、同情の求め合いではなく、別な可能性(オルタナティブ)の追求である。これまでパレスチナ人もセファルディムもシオニスト・イデオロギーと政治の目的語であって主語にはならなかった。これまで両者はお互いに反目するように仕向けられてきた。しかし、パレスチナ人を無情に追い出し抑圧する政策決定したのはセファルディではなかった ― たとえセファルディムが政策決定後に使い捨て兵士として軍隊に入り、パレスチナ人に発砲したとしても。同じように、セファルディのルーツを絶ち、搾取し、辱めたのはパレスチナ人ではなかった。イスラエルの現政権は、非ヨーロッパ人の自治に対する強い嫌悪感をヨーロッパ人から受け継いだ。今の時代感覚からすれば奇妙で、退化的で、一般とはかけ離れたディスコース、「文明国」とか「文明社会」という自国表現を隔世遺伝的に受け継いだ。しかし、パレスチナ人の歴史的権利を認めそれを肯定しない限りイスラエル・アラブ和平が成立し得ないのと同じように、本当の和平はミズラヒの集団的権利を無視してはならない。アラブ・ムスリム諸国出身ユダヤ人の従属状態を「ユダヤ人内部の問題」として片づけて、権力者や権力によって保護されている者たちとだけ交渉するのは、近視眼的であろう。そういう姿勢は、パレスチナ人問題をアラブの「内部問題」とするシオニストの態度と似ている。当然のことだが、私はセファルディムの全部が全部私と同じ考えだと言うつもりはない。しかし、ほとんどのセファルディムは私の主張の多くに同調すると思っている。私が提示した分析こそが、複雑なセファルディ現状と彼らの怒りの深さと大きさを説明し得るものと思っている。最後に、私の分析が、現在の我慢ならない袋小路を越えて前進しようとする大きな取り組みに役立つような長期的展望を開くのに貢献すれば、大変嬉しい。

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