釜ヶ崎を舞台にした映画「月夜釜合戦(つきよのかまがっせん)」を観た。釜に張り付き、5年かけてじっくり撮られた映画である。
落語に「釜泥」という話がある。ある時、町中で釜を取られるという事件が続発、自分たちの釜がとられたら商売ができなくなることを心配した豆腐屋の老夫婦が、月夜の明るい晩なら盗まれる心配はないだろうと思っていたら、大事な釜を盗まれてしまう、という話で、それからヒントを得て脚本を書いたそうだ。
映画の紹介ビラには、「日本にはもう一つ親しみを込めて『釜』と呼ばれる場所がある。大阪の釜ヶ崎である。日本最大の寄せ場として多くの労働者が働き、その日の稼ぎによって皆が飯を食ってきたことを考えれば、釜ヶ崎もまた巨大な「釜」として機能してきた。今この巨大な「釜」はその機能を奪われようとしている」とアピールされている。
さてそんな釜をめぐるドキュメントを観ての感想は一言で、「人がしっかりとしたたかに生きている。生き生きと躍動している」と思える映画だった。監督が言う「汗やほこり。カマ独特の空気や何とも言えない臭気など」の「生活の臭い」を感じさせる映画でないか、と思う。
ワンシーンに、「お前みたいな人間はもう化石やで!この町がなくなればおまえの住む世界はどこにもないんじゃ」というやり取りがあった。「社会の枠」に収まらないというより、「社会の枠」を気にしない存在であり、しっかり自分で生きている人たち。「社会の枠」から外れたとされた釜ヶ崎で、「社会の枠」を超えて生きる人たちを描いているのだと思う。これは逆に、社会の枠組みに組み込もうとする、または排除しようとする権力があることも意識させられた。
「5年の間に、町は急激に変化してきている(させられてきている)」「最初に感じた臭いもなくなってきている」と佐藤監督は言う。
監督は、「『あいりん地域の街づくり』と称して、自治体主導による環境美化や『安心・安全な街づくり』としての監視カメラによる監視強化、路上生活者の排除を目的としたオブジェやアートの設置や公園の閉鎖など、労働者の街である『釜』の中から、路上に溢れざるをえない生活者である労働者の場を奪い取ろうとしている(※註)。同時に、釜ヶ崎周辺の開発と称しての金儲けのための開発も着々と計画されている。労働センターの移転計画などもあり、釜ヶ崎は大きく変えられようとしている。
公園など公共物は、すべての人に開かれているものであり、『持てない者、金のない者などの貧困層』に最も開かれているべきである。しかし行政は、大阪城公園や天王寺公園などにみられるように、一企業に管理をまかせ、私有化し、カフェなどを作り、貧困層がそこで過ごせないようにしていっている」と語る。
映画の宣伝チラシに、「We shall not be moved」と書かれてあり、監督の言いたいことは、これですか?と聞いたところ、佐藤監督曰く、「スローガンはスローガンでしかない。スローガンは言ってしまえばシマイ(=お終い)なところがあると思う。うまく表現できないが、それを凌駕する存在そのものを描くことが必要なんじゃないか、と思う。映画は観た人それぞれがいろんな『想い』を持ってもらえたらいいんじゃないかと思っている」とのこと。
ぜひ観て、感じてもらいたいと思う。
(編集部・田中)
【註】こうした排除は、「ジェントリフィケーション」と呼ばれる。
▼ジェントリフィケーション:都市において比較的貧困な層が多く住む中下層地域に、再開発や新産業の発展などの理由で比較的豊かな人たちが流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化する都市再編現象である。日本語では、高級化・中産階級化・階級浄化などの訳語があてられる。これにより、貧困地域の家賃・地価の相場が上がり、それまで暮らしていた人々が、立ち退きなどによって住居を失ったり、それまでの地域コミュニティが失われることなどが問題になる。