イスラエル在住 ガリコ恵美子
「快適な生活ではなく民主主義を求める」
“パレスチナのガンジー”と呼ばれる男が、ヨルダン川西岸地区へブロンにいる。入植に抵抗する若者たち「youth against settlement」のリーダー、イッサ・アムロ(37歳)だ。イッサは、職業訓練学校の教師を務めながら、この団体の運営を行っている。
そのイッサが9月2日、パレスチナ警察に逮捕された。ミンバール・アル・フッリーヤ・ラジオ局がイスラエル軍に襲われ閉鎖命令を受けた数日後、アイマン・アル・カワスミ局長をパレスチナ自治政府警察(PA)が逮捕した。これに対し、イッサがフェイスブックで「PAはジャーナリストへの弾圧をやめるべきだ」と批判したことが理由だった。
イッサは殴られ、悲惨な状況で拘留された。最初の数日間は家族、弁護士との面会さえ許されなかったので、ハンガーストライキを行った。家族との面会が許可された数日後、ハンガーストライキを終了。アムネスティなど国際的圧力により、9月10日釈放された。保釈金は1400ドル。イッサは記者会見を開き、こう発表した。
「PAにはイスラエル当局に協力している議員が何名もいるようです。イスラエル当局もPAも、本当のことを言う私を威嚇し、黙らせようとしています。しかし、全ての人が国際法の下で、思想・言動・表現の自由が守られてしかるべきです。人権保護活動を止める意思はありません。私は快適な生活を求めているのではなく、民主主義を求めているのです」
イッサの経歴を簡単に紹介する。
80年へブロン市に生まれ、シュワダ通りで7歳まで育つ。父は小学校の国語教師だった。シュワダ通りは「H2」の中心に位置し、かつては商店街として賑わったが、現在パレスチナ人立入禁止地帯になっている(1997年、へブロン市はパレスチナ自治政府が自治と警察権を担う「H1」と、イスラエルが自治、警察権を担う「H2」に分離された=へブロン合意。「H1」には約22万人のパレスチナ人、「H2」には約3万5千人のパレスチナ人と800人のユダヤ人入植者が暮らす)。
第2次インティファーダ勃発2年後の2003年1月、イスラエルはパレスチナ工科大学を軍用閉鎖地区に指定し、校門を封鎖した。イッサがエンジニア学位を取得した大学だった。彼は母校が閉鎖されることに反対し、非暴力・不服従抵抗運動を呼びかけた。
イスラエル軍による威嚇と脅迫の中、学生、卒業生らと自主授業を続け、デモ抗議、座り込みを半年間行った結果、大学は6月に再開された。キング牧師(米国)、マハトマ・ガンジー(インド)、ネルソン・マンデラ(南ア)など、過去の偉大な人物を見本にした、非暴力による抵抗運動の成果であった。
彼はこれを占領に対する「抵抗運動の出発点」と名づけ、「非暴力が抵抗の最善手段であり、パレスチナでも適応できることを確信した」と、当時ガーディアン紙に語った。
「入植に反対する若者たち」結成
アムロはその後、イスラエル人権保護団体「ベツェレム」のメンバーとなり、占領下へブロンでの非情な状況を撮影し続けた。2009年、ワン・ワールド・メディア賞を受賞。国際的注目を受けるようになるが、軍に敵視され、暴力と逮捕が繰り返された。
シュワダ通りの丘の上=タル・ルメイダ町には、イ軍に占拠され、入植者に奪われかけていた家が3軒あった。だが、2006年、イッサはイスラエル人弁護士ミハエル・スフォードの助けを借りて裁判を起こし、3軒とも奪い返すという成果もあげた。
その後も、次世代に自分の思いを伝えたい一心で「入植に反対する若者たち」という団体を創り、裁判で証左してイ軍から奪い返した家を、パレスチナ人の家主から借り受け、そこを拠点に地元の高校生にビデオの撮影方法、非暴力不服従哲学をボランティアで指導し始めた。日本のクラブ活動のようなもので、ここに通えば、カメラ器具の操作法や英語、非暴力不服従の哲学を学び、理性的に物事を解釈して論理的に話せるようになれるよう訓練される。多くの若者がここに通い、抵抗運動に加わっている。
2軒目には、地元と国際ボランティア員の協力により、幼稚園を設立した。それまでパレスチナ人の幼稚園がなかったH2で、初の児童施設となった。今も地元の民衆の強い支持のもと、国際ボランティアも常時募集中だ。
3軒目は改造して小さな映画館を作る計画をたてた。しかし2016年、改造作業中にイ軍により中断させられ、20数名の逮捕者がでて、そのままになっている。
国連人権理事会で報告 イ軍は数十回もの逮捕
イッサは2012年までにイ軍に20回逮捕され、2013年には6回逮捕された。兵士に殴られ、何時間も目隠しで手足を縛られ「殺すぞ」と威されることも度々あったという。命中しなかったが発砲されたこともある。身元不明者から「殺す」と脅しの手紙を何度も受け取っている。イスラエルの宗教右派政治家バルフ・マーゼルがイッサの自宅に押し入り、軍がイッサの一時的身柄拘束を行ったこともある。
2013年国連人権理事会では、国連特別報告者ジャン・E・メンデスが「イッサ・アムロの生命、健康、心理的ストレスに懸念」と表明した。
2015年、パレスチナ各地で、ナイフによる占領への抵抗が始まると、イッサはこれまで以上に「非暴力の抵抗」を呼びかけた。2015年9月の国連人権理事会で、パレスチナ代表として「占領による人権侵害」の報告を行った。
2016年、へブロンのシュワダ通りの規制(アラブ人は通行禁止)解除を求めるデモ行進を行い、ブレーキング・ザ・サイレンスのツアーでスピーチをしたためにイ軍に逮捕される。同年3月には、へブロンで撃たれて地面に倒れていたアブデル・ファタハ・アル・シャリフを兵士が射殺した動画を公開し、兵士を裁判に追い込んだ(人民新聞2016年3月25日号『イスラエルの白い嘘』参照)。
これを機にイ軍は、以前イッサに対して不起訴としていたファイルを未処理状態に戻し、18件の罪状により起訴することに決定。アムネスティはこの件について、「人権保護のリーダーを脅迫することを直ちに止めるよう」抗議声明を発表した。
2016年、イスラエル当局は、イッサに対する裁判をオフェル軍刑務所にて開始。元国連特別報告者のリチャード・フォークは、2016年に「Scales for Justice」で緊急控訴に署名。この訴えは国連人権高等弁務官に送付され、イッサに対する告発却下、彼に対する嫌がらせを止めるよう、イスラエル当局に求めるものである。2017年、バーニー・サンダース米国上院議員と32人の議員が、当局に対してアムロに対する告発を取り下げるよう要請した。
パ自治政府の数々の「人潰し」
イッサが刑務所からでてきた週末、私は彼を訪ねた。そして、ネットでは公開されていなかった、もう一つの逮捕理由を、彼自身から聞いた。
「2カ月前、ビルゼート大学の学生寮で、PAの腐敗政治を調査していた研究員ネビーン女史の死体が発見された。パレスチナ警察は、これを自殺であると決定した。しかし家族の話によると、顔半分が失われ、喉は20センチほど切れており、腕も足も折れていた、という。自殺とはどうも考えられない。すると、タクシーの運転手が『性交渉を迫ると拒否されたので、殺して死体を学生寮8階にある彼女の部屋まで階段を上って運んだ』と自首した。
しかし、家族はこれも信じず、イスラエルの死体解剖センターに死亡理由の解明を求めた。結果は、〈数名による拷問死〉とでた。家族も私も、犯人はPAであると確信している。事件のあった2カ月前、私はフェイスブックでこの件について詳細を述べた。それでPAは、私を逮捕する機会を狙っていたのだと思う」 イスラエルの占領政策を批判すると同時にPAの腐敗を指摘して、イスラエル当局やPAに逮捕されたり消されたパレスチナ人はいままでも多数いたが、報道されることはほとんどなかった。しかし、イッサという有名人が逮捕されたことで今回、PAがイスラエルの方針に習ってか、指示を受けてかにより数々の「人潰し」を行っている様が明るみにでたのである。
イッサのイ軍による次の裁判は、10月22日にオフェル軍刑務所で行われる。ちなみに、イスラエルに住むパレスチナ人の裁判は、イスラエル民法に従いイスラエルの裁判所で行われるが、西岸地区およびガザ地区に住むパレスチナ人の裁判は、軍法に添って軍刑務所の裁判所で行われる。イッサの顧問弁護士は、人権問題で活躍中のガビ・ラスキー女史。軍裁判は非公開である。