神戸大学大学院人文学研究科准教授 原口 剛
いまイタリアでは、「NO-TAV」というスローガンが響き渡っている。「TAV」とは高速鉄道のことで、イタリア全土に新幹線を建設しようとする開発計画だ。
トリノに住む友人によれば、「NO-TAV」は巷のおじちゃんおばちゃんが口にする合言葉で、街中にそのサインが溢れかえっている。さまざまな場所にある社会センター(その多くはスクウォット=占拠によって勝ち取られたものだ)でメシを食べながら日常的に人々が集い、現地行動となれば無数の人びとが集まってキャンプを繰り広げるのだという。この状況は、ブログ「反ジェントリフィケーション情報センター」の記事「トリノの路上から(1)NO TAVについて」(https://antigentrification.info/2017/10/01/20171001sr/)でくわしく紹介されているので、読んでみてほしい。
このイタリアの闘争に言及しつつ、「不可視委員会」は、「権力はいまやこの世界のインフラのうちに存在する」と宣言した。高速鉄道に反対するイタリアの人びとは、そのことを見抜いているというのだ。この言葉を頭に置きながら、日本の状況に目を向けてみよう。イタリアの「TAV」にあたるのは、リニア中央新幹線だろう。日本アルプス(本家アルプスのふもとにあるトリノの地を思い起こさせる名前!)の山々を貫いて、建設されようとしている。
原発という禍々しいインフラは、廃炉に向かうどころか、この期に及んで再稼働される。五輪開催の名目のもと関連施設が強権的に建設され、高級マンションが次々と建設されていった。政権が「なかったこと」にしようと躍起になっている森友・加計学園問題は、土地の支配と開発が権力の温床でありつづけていることを白日の下にさらした。身近な公園にすら、インフラの権力がはびこっている。大阪城公園は企業に売り払われ、そこには「スターバックスがやってきた」(本紙第1620号「ぷりずむ」)。公園のなかですら人々は消費者であることを強要され、カネのない者は追い払われる。国政、都市政治、日常生活――あらゆるレベルで、インフラが民衆の生をむしり取っている。
さてここで、電車のなかの光景をみてみよう。ごったがえす車内のなかで、人びとの多くはケータイの画面に釘付けだ。「ブラウン管の向こう側」ならぬ、液晶画面の向こう側。「ネット空間」とか言われる場所で、ゲームに興じているのかもしれないし、政治ニュースを眺めているのかもしれない。ここでも人々はすでに、インフラに蝕まれ、権力につかまえられている。同じ車両で肩を並べていながら、情報インフラに釘付けになり、ばらばらにされてしまっている。あるいは、電車が少しでも遅延しようものなら、駅員に詰め寄り、苦情を言いたてる。
正確に・いち早く・なめらかに人とモノを運ぶことを「シームレス」というが、それは資本のスローガンだ。遅延を責め立てる乗客たちは、気づかぬうちに資本とインフラの代理人になっている。高速鉄道を建設させまいとする「NO-TAV」とは、真逆の精神のありようだ。
そう考えるとき、たとえば、本紙でも取り上げられている「梅田解放区」の実践の潜在的な意義がよりはっきりと見えてくるのではないか。梅田というエリアは、関西でも随一の都市開発のフロンティアであり、著しく地価が上昇している場所である。その場所には、「うめきた」の開発を着火点としつつ、開発資本がどっと押し寄せている。資本の手によって街全体が塗り替えられ、横領され、商業インフラの集積地として囲い込まれつつある。地下街を歩けば、「2025万博 大阪・関西へ」というメッセージが、イヤでも目に入る。
その空間のど真ん中で、「消費者」や「通勤客」に訴えかけ、足を止めさせる。映像を映しだし、踊り、怒りや喜びを共有する。資本の指令に従った人やモノの動線を遮断することで集まりを生み出し、まったく別様のリズムを拡げ、政治的空間を生み出そうとする。権力がインフラのうちに存在するとするなら、「解放区」を創出し拡大する試みは、それに対抗する実践だと言えるのではないか。そのようなメッセージを、イタリアの闘争は伝えているように思われるのだ。