9月14日、「今、鶴彬を」というお題の講演会が開催された。といっても、「鶴彬」という川柳作家を知っている人は、よほどの通人かオタクだろう。少なくとも私は全く知らなかった。川柳家・乱鬼龍さんに誘われ、「獄死80年反戦川柳人」という形容句を頼りに顔を出してみた。
・食堂があっても食へぬ失業者
・みな肺で死ぬる女工の募集札
・ざん壕で読む妹を売る手紙
「芸術至上主義ではなく、現実に向き合う川柳でないとダメだ」とプロレタリア川柳を宣言して創作活動を続けた鶴彬(本名・喜多一二)20才代前半の作品である。鶴彬は、幼い時に両父母を失い、養子に入ったおじの織物工場も昭和恐慌に飲み込まれて倒産。故郷である石川を出て、職を求めて大阪へ出たものの、町工場での労働経験、これに続く半失業状態という、「底辺をはいずり回る生活の中で生み出された作品だ」〈講演者・吉橋通夫さん(児童文学作家)〉という。
鶴彬は29才の若さで獄死するのだが、23才の時、軍隊内で共産党系の機関紙を配ったとして逮捕されている。軍法会議で懲役2年の判決。刑期を終えて除隊処分となるが、出獄後も抵抗・反戦川柳を発表し続けた。獄死にいたる最後の逮捕(1937年12月)の理由とされているのは、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」という作品と言われている。軍部への批判が込められているとして、治安維持法違反の容疑がかけられた。手と足を「もいだ」のは、軍部だからだ。
当時の柳壇は、戦争を美化する句が溢れていたが、これに真っ向から抵抗の姿勢をゆるめない鶴彬に対し、ある川柳人が特高に密告したとの説もある。
日中戦争が始まって以降もこうした反戦川柳を発表し続けた鶴彬の、無謀ともいえる命の叫びの背景には何があるのか?
大阪城公園にある顕彰句碑
大阪城公園、豊国神社東側に「鶴彬顕彰碑」がある。あかつき川柳会が中心となり建立運動を展開。大阪市との4年余の交渉を経て、2008年に除幕式を行った。今年は建立10年目にあたり、9月14日には、碑前祭も行われた。碑が建てられた豊国神社東側は、鶴彬が収監された大阪衛戌監獄の跡地という因縁の場所だ。
「鶴彬が労働者としての意識を強めていくのは、大阪での経験だ」と前出吉橋通夫さんは語る。従兄弟の下宿に転がり込んで、工場労働者となるのだが、学歴がないために就職は難しく、「パンなくしては生きられない、という経験が転機となった」(吉橋さん)という。
10代の頃からマルクスやトルストイを読みあさっていた鶴彬は、大阪で労働者としての意識を強めていったようだ。
「戦争」の2文字が、いよいよ身に迫りつつある現代にあって、鶴彬は、あらためて脚光を浴びつつあるようだ。
(編集部・山田)