〔日角八十治さんを偲ぶ会〕
日時:10月8日(日)午後1時~3時 場所:高槻市民会館206号室(阪急高槻市駅徒歩10分) 会費:2000円(飲物、軽食付) 呼びかけ:岩井会・人民新聞社・北摂反戦民主政治連盟 ※形式張ったことはなしで、日角さんの思い出などを語り合う会です。平服でご参加ください。 ※準備の都合がありますので、参加ご希望の方は9月末までに人民新聞社までご連絡をお願いします。
「新左翼」創刊にはじまり最期まで因縁深いお付き合いに
日角さんとの出会いは「新左翼」が創刊された1968年にはじまる。その頃私はベトナム反戦デモに明け暮れる高校生、日角さん、渡辺さんはずいぶん「おっさん」という印象だった。上田等さんに「うまいもんでも食いに行こうや」と誘われ、天神橋筋6丁目の事務所を訪れたのがきっかけだった。そこにはむっつりした渡辺さんと日角さんがいた。お互い何もしゃべらず上田さんがしゃべくり回していたのが印象的だった。
おっさんたちの会話の内容はほとんど分からなかったし、「新左翼」の内容ももうひとつよく分からなかったが、なぜかその日を機会に発送作業の手伝いをやるようになった。楽しい仕事ではなかったが、作業が終わった後の天六界隈での日角さんとの立ち飲み屋での一杯は格別だった。
ずいぶんとおっさんに見えた日角さんたちは、まだその頃40歳前後の青年だったことを今ごろ知った。おっさんたちの話を耳にする内に、日本共産党からの除名がおっさんたちのつながりの根底にあることが、おぼろげながらも分かってきた。
当時のはやりだった党派的な主義を押し付けられたことは一度もなかったが、「歴史性」「考え方」「思想」についてはよく語ってくれた。それが後の私の生き方に少なからぬ影響を与えたのだと思う。
その後私は東京に移り住み、三多摩での拠点作りに携わっていた頃、東京支局開設のために日角さんたちが赴任してきた。三多摩にもよく足を運んでくれ、難しいことは言わず黙々と印刷の雑用や新聞の発送作業を手伝ってくれた。仕事の後の一杯は相変わらずで、酒が入ると不断無口な日角さんは饒舌となり、酒の強い私の連れ合いとは当時からすっかり呑み友達となった。
人民新聞が東京から撤退後、高槻での選挙運動に取り組む機会があり、その縁あって日角さんは高槻に住居を移し、港区の会員クラブまで通っていた。80歳を過ぎた頃からか足腰が弱り、私たちが地域で作ってきた高齢者施設に日角さん夫妻を迎えいれることになった。そしてご夫妻の終末期までお世話することになり、深い因縁を感じる。それは政治活動の縁というより人間的なつながり故だと思う。(松永了二)
身近で闘い歩んだ親父であり兄貴分
私が先の見えなくなっていた大学から仲間たちと一緒に、日角さんたちの世代が作りあげてきた大阪・北攝の運動に合流、「新左翼」紙と関わり始めたのが1970年代初め。
その時以来40数年、日角さんとはずっと身近で一緒に闘い、ともに歩んできたという思いがある。
当初、学生運動しか知らなかった私たちの世代は、故・上田等さんをはじめとする先輩たちから、闘いに対する考え方から日常の生活態度に至るまでボロカスに、徹底的に批判された。落ち込んでいる私たちに励ましの声をかけ続けてくれたのが、日角さんだった。
その後も、パレスチナから帰ってから公安警察の24間密着の監視・尾行に心が折れそうになっていた時、渡辺さんの後の編集長を打診されて迷っていた時、新聞の定期発行まで危うくなり行き詰まっていた時…日角さんの短いけれど的を得たアドバスに、どれだけ背中を押してもらったことか。
印象深いのは、東京支局を開設し先任した日角さんの後を追って私も上京、約2年半、新大久保の事務所で文字通り寝食を共にして活動した時のこと。
男2人だけの生活だったことに加え、私自身、嫁さん・子どもを能勢農場に残して「肩肘張って」上京してきたことから、マイペースを決して崩さない日角さんにイライラし(ちなみに日角さんは「お前が変に意気込んでいるから、俺はわざとそうしたんだ」と言っていたが)、しょっちゅう喧嘩を売っていた。
一方で、お互いに「何とかせなあかんな」と思うとよく飲みに行った。事務所の隣りの居酒屋で、夜が白み始発電車の音が聞こえるまで、何度も飲み明かし、いろんなことを語り合った。
そんなことも経て、私にとって日角さんは最後まで、何でも相談、ぶっつけられる「親父」でもあり「兄貴分」でもあり続けた。
今、「人民新聞」は世代交代も含め、新たな一歩を踏み出しつつある。次世代の人たちにおもねることなく、相互批判しつつ支え、歴史を継承していく…どこまで黙々と全体を支え続けた日角さんのようにやれるか自信はないが、とにかく全力を尽くそうと思っている。
日角さん、長い間お疲れさまでした。そして、本当にありがとうございました。(津林邦夫)
活動を続ける生きた見本存在そのものが励みだった
ノンセクトで活動していた学生にとって、社会に出てからも活動を継続し、それが可能な仕事を見つけることは大問題だった。全て個人で解決しなければならなかった。僕の場合は、学生の時から関わっていた関西労働者安全センターに無理矢理に専従事務局を作らせて、そこに収まった。月給は4万円。今でも覚えている。
ところが、労災闘争を担って、今で言う「過労死」を先駆的にいくつも認定させて成果を上げたにもかかわらず、何かもやもやしていた。組織化なしに個別闘争をやっていても、どこまでいっても個別闘争で、とても革命につながるとは思えなかった。そんな時に人民新聞に誘われて、こっちの方が革命にずっと近いと思って移った。
そこに日角さんと渡辺さんがいた。自分よりも20歳も年上で、40代後半の壮年期だった。こちらにすれば何よりも、いつまでも活動を続けている生きた見本を見つけたわけで、存在そのものが励みになった。人民新聞は経済的にはもっと大変で、4万円の給料もなかなか出なかったが、日角さんたちは早朝の牛乳配達をしながら続けていた。居酒屋に飲みに行って夜が遅くなっても毎日配達をすませて、平然と出社してきた。
人民新聞の編集部時代は、僕にとって一番面白かった時だったと思う。喜んで新聞を作っていたと思う。ところが「インテリ向けにインテリ好みの新聞を作っている」と厳しい批判にさらされることになった。嫌気がさしてもう田舎に帰ろうと思った時に、引き留めてくれたのが日角さんだった。今でも覚えているが、「田舎に帰ったらまたゼロから人間関係を作らなければならない。これまでにつちかった関係をもっと大事にしろよ」と諭してくれた。
もう一つ。60年安保闘争で東大の樺美智子さんが圧殺された事件で、共産党中央の見解に背いて、樺さん支持のチラシをまいたことが、追放された理由だと知って、すごいと思った。
そして、日角さんが初代の議長に就任した「北摂反戦民主政治連盟」の規約に、連盟員には連盟の決定に従わなくてもいいという権利が明記されている。日角さんたちが追放された後、共産党がますます官僚的で硬直した党になっていったことに対する、ささやかなアンチテーゼである。(河合左千夫)
時代を継ぐシンボルとしての「日角八十治」
「日角八十治」という名前は、時代を継ぐシンボルだと思う。誰もが、実在する一労働者の名であるとは考えないであろう偶然の中で、「新左翼」紙から「人民新聞」の50年間、送付封筒の裏に印刷され続けてきたその名前は、戦後日本の社会運動を継ぐシンボルとなってきた。
その流れの中に居た1人として、日角さんの死を前にして、自分はどれだけ次に継ぐ役割を果たせたのだろうかと自問しています。
日角さんが人民新聞の東京支局勤めだった時、僕も東京で党専従の時代でした。新大久保の居酒屋でよくグチを聞いてもらいました。うまそうに酒を飲んで、ただ黙って聞いていた日角さんの楽しそうな笑顔に救われた時代を思い起こしています。
北摂反戦民主政治連盟という、古色蒼然とした大衆政治組織の旗揚げをした時、似つかわしくない新しいモダンな事務所を借りて、2人で会議をしていたこともありました。僕が手書きの原稿を書いて、日角さんがワープロで入力してニュースを作るというどこか倒錯した時代でもありました。
黙して語らず、座して動かず。楽しく飲み過ぎた2年前の正月を思い出して、一人悲しんでいます。(津田道夫)